滋賀県米原市村居田の平地にあります。
長浜市との境界(横山丘陵)すぐです。
宮内庁が第30代敏達天皇(538~585)の皇后・息長広姫の陵墓として管理しています。
「村居田古墳」とも呼ばれています。
全長60m、 後円部径?m・高さ?m、 前方部先端幅13m・高さ3m の前方後円墳です。
但し墳丘は、陵墓指定されている後円部とみられる小さな円墳部(現状)を除いて消滅しています。
そばを通る道に墳形の名残を感じ取ることができます。
(背後は横山丘陵の北端です)
元禄9年(1696年)、光運寺の本堂改築のためこの地を開拓した際、石槨と家形石棺(長さ約2.19m・幅約1.07m・高さ約0.48mの4基の縄掛突起を持つ)が発見されたそうです。
『延喜諸陵式』に「息長墓 舒明天皇の祖母・名臼広姫、在近江国坂田郡」との記載があることにより、息長姫の陵墓に比定されたのだそうです。
広姫の時代(6世紀後半)とは、年代的に相違することが指摘されているそうです。
近年、光運寺本堂裏の陵墓に隣接する基壇石垣の改修工事が行われた際、5世紀末頃のものと考えられる多数の円筒埴輪片が出土しました。
このことから、本堂の基壇が古墳の墳丘の一部だと判明したそうです。
光運寺本堂の南側にある古墳(息長陵付属地・息長姫陵古墳群)は陪塚と考えられています。
(手前は光運寺の鐘楼)
出土した埴輪から、5世紀末頃の築造と推定されています。
長浜市との境界(横山丘陵)すぐです。
宮内庁が第30代敏達天皇(538~585)の皇后・息長広姫の陵墓として管理しています。
「村居田古墳」とも呼ばれています。
全長60m、 後円部径?m・高さ?m、 前方部先端幅13m・高さ3m の前方後円墳です。
但し墳丘は、陵墓指定されている後円部とみられる小さな円墳部(現状)を除いて消滅しています。
そばを通る道に墳形の名残を感じ取ることができます。
(背後は横山丘陵の北端です)
元禄9年(1696年)、光運寺の本堂改築のためこの地を開拓した際、石槨と家形石棺(長さ約2.19m・幅約1.07m・高さ約0.48mの4基の縄掛突起を持つ)が発見されたそうです。
『延喜諸陵式』に「息長墓 舒明天皇の祖母・名臼広姫、在近江国坂田郡」との記載があることにより、息長姫の陵墓に比定されたのだそうです。
広姫の時代(6世紀後半)とは、年代的に相違することが指摘されているそうです。
近年、光運寺本堂裏の陵墓に隣接する基壇石垣の改修工事が行われた際、5世紀末頃のものと考えられる多数の円筒埴輪片が出土しました。
このことから、本堂の基壇が古墳の墳丘の一部だと判明したそうです。
光運寺本堂の南側にある古墳(息長陵付属地・息長姫陵古墳群)は陪塚と考えられています。
(手前は光運寺の鐘楼)
出土した埴輪から、5世紀末頃の築造と推定されています。
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