靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

近況整理、必ず幾筋もの光が差している

2013-03-10 03:04:48 | 今週の整理
1.金曜日で三学期修了、春休み! 来週末まで。最終日、長男そのまま友人宅へ行き一泊。来週月曜日は長女も次女もそれぞれ引っ越していった子が訪ねてくるということで、友人宅に泊り。長男は月曜から三日間泊まりでNPO救助活動トレーニング。ということは、月曜夜は下二人だけ!? 初めてです。こういうことになってくるんですねえ、成長と共に。春休み残りはスキーな毎日の予定。

2.水曜日、友人宅でのプレイデートへ!と車に乗り込もうとしたところ、電話。小学校のナースから。三女が腹痛で保健室に寝ているので迎えに来てくださいと。友人宅に行けなくなったと電話し、この日を指折り数えて楽しみにしていた次男、泣きべそかきながら一緒に姉を迎えに。その夕方から四十度の熱!どうなることかと思いましたが、翌日の夕方には治ってほっ。他に風邪の症状もなく元気。知恵熱のようなものだったのでしょう、それにしては高温でしたが。とにかく他の子たちも元気で助かります。

3.しょんぼりすること二つと、飛び上がるようなこと二つ。今週も色々ありました。しょんぼりごとも、ありがたいことに結局は良い方へと転向。飛び上がるようなことは、本当にもうありがとうございますと天に返すのみ。
 辛いことや悲しいことに、目の前を曇らせない。辛いときは本当に辛くて重くて、それでも周りを見回せば、必ず幾筋もの光が差している。その眩しさに目を細め、一歩一歩こつこつとできることを。

今日は日本人補習校のスタッフの方々に事情をお話しするのと、長男のNPO活動と、その後は上三人連れてショッピング(長女次女全てのジーンズに穴・・・。ついつい余分なものも買ってしまわないよう気を引き締めて、笑)の予定。さてさて春休み、賑やかに楽しみます!

皆様の一週間が素晴らしいものになりますように! 春風を想いつつ。
Have a wonderful week!


日常風景:

ファーランデブー祭り、雪の彫刻。


こんなのや、


こんなの。


こっちもこっちも。


最近は家族で出かけると、長男リトルパパ状態。


あ~んな高いとこにいるんだよね、お兄ちゃんとお姉ちゃん。


私達はこっち。



病み上がりで学校休みの三女と、一日遊べて嬉しい次男。


いっぱいかいた!

子育てノート、長女の心に響いた出来事

2013-03-10 03:04:10 | 子育てノート
長女、友人宅へ。家具やドアに黄色いタグがつけられ、アルファベットを組み合わせた文字が書かれている。「これ何?」と聞くと「中国語よ」と友人。コケージャン(白人)の家族。不思議そうな顔をする長女に、その友人、「春に新しい家族が加わるの、中国の孤児院にいる一歳の男の子!」と。

 一人っ子政策で、女の子は生まれてすぐ手放す家が多いと聞くけれど、実は孤児院には男の子が多いと。少しでも障害があると、生まれてすぐに手放してしまうのだそう。その養子に迎えられる子も、上唇が裂けた(口唇裂)奇形があるため、なかなかもらい手が見つからなかったと。

 お母さんが嬉しそうにその子の写真を見せてくれる。ぽっちゃりとした真っ赤な頬。「見てこの笑顔、私達もうこの子にめろめろなの」そう大切そうに写真を胸に。

 春には10日間中国に滞在し、新しい家族をここはるばるアラスカに連れてくるのだそう。

 お母さんとお父さんとお姉さんと、めぐり会えてよかったね。こんなに温かい家族に迎えられて。そう嬉しくなった夜でした。

 長女の心に、この出来事、とても響いたようでした。

 大変な状況に暮らす人々が地球上に多くいる、障害のある人に親切に、そう読んだり聞いたりして頭では理解している長女。それでもこうして「持てる人々」が「持たざる地域」から、障害のある子を嬉々として家族として受け入れようとしている、そう体験することで、パラダイムが一気に変わったようでした。

こんな知り合いが傍にいること、感謝を込めて


子育てノート、この瞬間を覚えている

2013-03-10 03:03:33 | 子育てノート
就寝時間間近、眠そうな次男三歳。普段でも嫌がるシャンプー、疲れてるときは尚更。ぐずる次男の頭を洗いながら、何とか気を逸らそうと明るい声で話しかける。

「朝の散歩、楽しかったね!」

朝二人で散歩(雪上自転車!)した後、にこにこと嬉しそうに何度も「またいこうね」と言っていた次男が、涙目で叫ぶ。

「ぜんぜんたのしくなんかなかったもん!」

ちょっとふざけて、悲しそうな顔を見せた私。  

すると、はっとした表情で私に抱きつき、私の頭をなぜ、頬に何度もキスし始める。

次男を抱きしめながら、二人でケタケタと笑った。


この瞬間に 全てがあった

辛さも 悲しみも 喜びも 溶け

この満ち足りた瞬間

周りの物質に埋もれ もっともっとと目を移し それでもここに全てがあると

この永遠に感じた瞬間を 覚えている


ありがとう




朝の散歩:

こきこきこきこきこいで。


まぶしいね。


きこきこきこきこ。

ファミリーディナートピック、「七つ目のモード」

2013-03-10 03:02:54 | ファミリーディナートピック
毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。「神」という言葉を使っていますが、それは人を超えたエネルギーのようなものだと感じています。


自分がまずはぱっと動く
 「洗浄機からお皿出してしまうのおねが~い」そう声をかけると、上と下のラックそしてナイフやスプーンやフォーク入れ、と三つに分かれた分担、どれが一番簡単そうかを吟味して「私は上!」「僕はスプーン!」と決めることが多い上三人。

「テーブルセットアップしてね~」「ティクバ(犬)外に出して~」「ちょっと手伝って~」誰かがしてくれないかと周りの動向を見守るのではなくて、まずはぱっと自分が動く。

「自分がいかに楽できるか」よりも、「自分が動いていかに周りに楽をさせてあげられるか」そう考えてぱっと動いていけるといいね。

聖書からの引用:
 移動式の寺院を作るための寄付を募っていた部族のリーダー、「皆が寄付した後に足りないものを私が全てカバーしよう」と。善意で自分のものを差し出そうとするこの行為でさえ、「神」は好きでなかったとある。自分は動かずじっと腕を組んで周りを眺めているのではなく、家々を回り、人々に話し、自分が汗をかき、まずは自分がぱっと一番に動きなさいと。

夫との話:
 子供にこうしてぱっと動く姿勢を培うのは、まず親が体現すること。コミュニティーに助けが必要な状況に対してぱっと動くこともだけれど、まずは家庭の中からも。
「あ、車の中に今日買ったパン置いてきちゃった」「ガレージ行って持ってくるよ」
「テーブルの上にミルクがないわね」「冷蔵庫から持ってこよう」
そうぱっと動く姿勢を普段から示していこうと。


「最も自己のない人」
 コミュニティーの人々を助けることに一生を尽くしたある故ラビの話。祭の時には必ず身寄りのない人々に連絡を取って招き、いくつもの倉庫にもらいものを置きいつでも必要な人々が持っていけるようにし、誰かが亡くなると一番に飛んでいき残された者達と共に過ごし、悲しみ辛い時を送る人々を毎日訪ねて歩いた。傍にいるだけで皆が温かい気持ちに。

 彼は「最も自己中心的な人(selfish)こそ、最も自己のない人(selfless)」と言っていたと。「神」に仕える喜びのためのみに動くという「最も自己中心的な人」ほど、「最も自己がない」と。

喜びこそが人を最も遠くへ連れて行ける。


引き離して眺める時を持つ 
 ユダヤ神秘主義カバラでは、「七つ目のモード」ということを言う。東西南北上下という六つのモードの他に、中心の点、「七つ目のモード」があると。六つのモードがあらゆる方向に向かって外へ外へと伸びていこうとするのに対し、七つ目のモードは内に源に向かうもの。

 これは一週間のサイクルにも当てはめられる。六日間外へ外へと物質的な達成をするために動き、七日目は外への動きをやめ内に向かう。物質を用いて物質的状況をより良くしていこうと、六日間は力の限り走り回るわけだけれど、そういったものから切り離し、その源を見つめる習慣。六日間かかりきりだった全ては、その源の表れなのだと改めて眺めてみる時。

「偶像崇拝」の始まりは、必要でないものに必要以上に重きを置いてしまうこと、物、仕事、お金。仏教でいう「執着」でもある。この「七つ目のモード」は、それらのバランスを整えてくれる。それらは、源からのチャンネルに過ぎないと。

この七分の六、七分の一というイメージを胸に。


三女日本語面接にて

2013-03-10 03:01:41 | 子育てノート
週末、三女が日本人補習校で面接試験を受けた。日本語をどれほど理解し話せるかをみる十五分ほどの簡単なグループ面接。

日本人補習校というのは、土曜日のみ九時から一時までの学校で、日本政府からの補助と現地のファンドレイジングと生徒の月謝(月八千円ほど)で成り立っている。一昔前は航空会社などの駐在員の子供さんが多く通っていたのだけれど、ほとんどの航空会社が縮小撤退したなか、いずれ日本に帰るという駐在組は今ではマイノリティー。生徒数も減り、十人ちょっと。そこへ、今年の入学希望者何と九人! 両親片親日本人と家族構成は様々だけれど、皆こちらに永住組。

四月からの入学予定者には、三女がまだよちよち歩きしていた頃からのお友達も多く、大好きなお友達と「一緒に行きたい!」と三女。上三人は行かせたことがないので、三女も上に同じくと思っていたのだけれど、三女のたっての願いにより、願書提出。

そこで日本語の簡単な受け答えを面接前二週間ほど練習。そして当日。面接が終わり「楽しかった!」と。「何聞かれてるか分かった?ちゃんと答えられたかな?」「全部分かったよ」と本人は言っていた。

ところが、面接担当の先生のお一人にお話をお聞きして、三女、一言も話さなかった!と分かる。じゃあこれは何?これはどうかな?そう優しく質問を変えてくれる先生にも、頑なに口を閉ざし話さなかったと。

三女と話し合い。周りの子がぺらぺらと話す様子にかなり気後れしていたと分かる。自分はそうは話せない、知らない言葉や言えない言葉もたくさんあるし、たどたどしく単語を並べ、発音もちょっと違ってしまったり。

快適に使いこなせる英語での現地校でさえも、最初授業中は必要なこと以外ほとんど話さなかった彼女(聞かれたら必要最小限答えるのみ)、「最近自分から手を挙げどんどん参加するようになって来たんですよ」とこの前の懇談会で言われたところ(放課中などは初めからはしゃいで普通に友達と遊んでいたようですが)。

快適に使いこなせない日本語のこと、面接会場で三女が口を閉ざしてしまった姿、想像できます。それでも必要最小限は話すだろうとは思っていたのですが。

もっとこうのびのびと少々の間違いを気にせずに話してくれたら、そう親としては思うのですが、これがなかなか。ただ大きくなるにつれ、前にどんどん出て行くようになるのだなとは上の子達を見ていて思います(上の姉たちも三女くらいのときは似たような感じでしたが、今では・・・)。

週一授業、宿題、夏期二週間集中授業、それらで現在日本で使われている一年分の教科書をマスターしていこうというペースで進む補習校。日本に行ったこともなく、日本語に触れる機会も私以外にほとんどなく、そこへ日本の一年生レベルと同じスタート地点に立つというのは(ちなみに三女三月三十日生まれ)、やはり家にはかなり厳しいです。その上に、この三女の様子。大好きなお友達と一緒に学んでくれたら、といった期待があったのですが、三女の今までの様子から察すると、授業に参加し始めるのにまずは時間がかかるでしょう。しかもそれが週一に会うのみということならば、1年話さなかったなんてこともありうるかもしれません。今年は9人といういまだかつてないほどの入学希望者、先生もただでさえ授業を回していくのに大変だろうに、余分に手をかけ気をつかっていただいても申し訳ない。

もう一度面談をしましょうと学校側から言っていただいたのですが、一週間そこらでさして違いはないであろうし、本人と話し合い、入学を見送ろうかということに。大好きなお友達と共に過ごす時間は他に持つようにして、家で日本語少しずつ頑張ろうか、そう言う私に、笑顔で少しほっとした表情の三女。「行きたい!」とは言ってみたものの、これは大変だぞ、そう感じていたのかもしれません。



他言語の習得には、まずはその言語に触れる機会をできるだけ増やすことが鍵だと聞きます。

周りにも片親日本人で、子供さんが流暢に日本語を操れるご家庭も多くあるのですが、観察していると、やはりお母さん方が一生懸命日本語に触れる機会を増やしている。日本語読み聞かせから、日本語メディア(サテライトで日本の番組を常時見られるようにしたり、DVDやビデオや)、定期的な日本帰国(帰国後一ヶ月もしたらそれまで出なかった日本語がぽんぽんと出るようになったという話もよく聞きます)。

私自身といえば、五人の世話とこちらの勉強を見ることで、日本語まで時間とエネルギーが回らないというのが本当のところ。日本語メディアも、こちらのメディアでさえ映画やドキュメンタリーを時々見るという程度。日本帰国は、帰りたいのはもう山々ですが諸事情により難しい状態10年。かなり日本の遠い我が家。

また日々子供達の頭には複雑な思考や勉強面の知識が全部英語で入ってくるので、そういった話し合いも日本語ではとても追いつかない。また夫を含めるため、家族が揃うと英語。兄弟姉妹間も日本語ではとても内容を表すのに足りず、英語。しかも最近は、学校のカリキュラムの関係でスペイン語(夫の母語)に時間を使うようになってきた上三人(中学校からの第二外国語選択に日本語という選択なし)。

こうして我が家での日本語以外勢力はどんどん強まり。最近気がついたら私自身普通に子供達に話すのでも英語になりしまったと思い直し、もう一度日本語で話すということも!

なぜ日本語をするのか。私の中に、その意欲をまずはもう一度しっかりと立たせる必要もあります。周りの日本人の方々とそこのところの温度差があり過ぎるのも感じています。言語は違へど、通じるものは通じるんだからとゆったりしてしまう自分が。究極的にはそうかもしれないけれど、それはできる限りの努力をしてからの言葉なのでしょう。

昔、アラスカの村々を訪ね、母語が消えつつあるネイティブアラスカンの方々の状況、祖母と孫がコミュニケーションできない様子を、何ともいかんせんと嘆かわしく思っていた私。次世代に言語を文化を伝えていかねばと熱かった若かりし頃のあの私に、もし今向き合ったとしたら、「限られた時間とリソースの中で、これが限界だったのよ、あなたも年を経るごとに分かる」そう静かに微笑むしかないでしょう。

といって、まだまだできることはあるはずで。両言語とも母語並みにという「バイリンガル」は、我が家の環境から遠い昔に無理だと思ったのですが、英語を母語としつつ、大きくなってから日本語やスペイン語を少しでも使えるようになる土台を築いておけたらと思っています。まずは日常生活、ものすごい勢いでひっぱられている英語の隙間隙間に、日本語を織り交ぜて。せめてママとの簡単な会話は日本語で!を何とか頭を切り替えて実行していけたら。その地道な日々の歩みの上にこそ、日本帰国だったり、大学などで日本語を取ったり、日本に留学したり、などで、例え今は芽を見ることがなくとも、将来花開く可能性も高まるのでしょう。

言語習得は異文化の理解に繋がる、その言語で考え話すというのは、単に言語を操るというよりも、その文化を身体に生かせるということ。英語を話している時と、日本語を話している時とでは、子供の態度が変わるともよく聞きます(英語だと論理的しゃきしゃき、日本語はより情緒的ほんわり)。日本的なるもの、を身につけることは、単一言語で育つよりも、確かに他文化、異なるものへの理解の深さに繋がるのでしょう。

この「三女日本人補習校面接しゃべらなかった事件」を、日々の生活をもう一度見直す機会にしていきます。この機会に感謝して、我が家にできることを!

バイリンガル教育について、覚書

2013-03-10 03:00:45 | 子育てノート
その言語に触れる機会をどれだけ持てるかが鍵
 よしっ、バイリンガルに育てるぞ、いやいや夫の母語はスペイン語だから、トライリンガルに! 長男が赤ちゃんのときには、当たり前のことのように、そう思っていました。ところが蓋を開けてみると、そうそう思うようにはいきませんでした。バイリンガル教育が成功するかどうかは、それらの言語に接する機会を、いかに多く持てるかにかかっています。英語社会で暮らす家の場合は、日本語に接する機会をいかに整えられるかということ。日本語メディア、日本語での読み聞かせ、日本コミュニティーでの活動や日本へ帰国するなど、日本語に囲まれる環境をできるだけ多く整える。
 いくつもの言語を操る人々の例として、スイスなどのヨーロッパやインドなどのアジアの国々の話を聞くことがあります。「だから人間というのは、いくらだって多言語を操ることが可能なのだ!」と。それでもそれらの例は、周りに多言語が溢れている環境だからこそ、可能になっているということ。日常的に親戚やメディアを通じて多言語に触れる生活をしているからこそ、バイリンガル、トライリンガルになり得る。
 また大脳の上側後部にウェルニッケル野というのがあり、ここで言語中枢神経が開発され、その中枢は異なる言語によって区分けされていると言います。そしてその区分けが開発されるには、つまり特定の言語を操ることができるようになるには、通常その言語を母国語とする人々が話すスピードで、何千時間も聞きこむ必要があるといいます。その中枢の情報蓄積を元に、聞く、話す、読む、書くという順番で発達していくくと。日本語に接する機会の少ない家の子供達が、聞くことはできてもなかなか思うように話せないというのも、納得がいきます。
 National Clearinghouse for bilingual Education の“If your child learns in two language”によると、日常会話習得にはだいたい一・二年、学習言語習得に関しては五年から七年ほどかかると言います。これは異なる言語を母国語としつつ、英語社会で英語に囲まれ学ぶという状況でのことです。その言語に囲まれて暮らしたとしても、言語取得にはこれほど時間かかると言います。  
 とにかくその言語に囲まれる機会をできるだけ多く持つこと、まずは聞き、そして使う状況を作り出すこと。

・様々な例から学ぶ 
 日本語をうまく操れる子供さんの家庭を訪ねると、家の中が日本だなあと感じます。日本のテレビが流れ、日本の物に囲まれ、親御さんも日本語以外なるべく話さず、そして日本に定期的に帰り、日本が近い。こうして子供さんは日本語も英語も達者なバイリンガルに、勉強以外でも音楽やスポーツや様々な分野にも大活躍。実際に周りにも見られるバイリンガル教育成功例。
 一方、両言語ともどっちつかずの中途半端になるというケースを聞くこともあります。英語がなかなか入らない、こちらで生まれ暮らしながらも高学年になっても英語補助クラスに通っている。確かに同じような環境にあっても、言語をうまく操れる子となかなかそうはできない子がいるなと、我が家の子達を見ていても思います。
 そういった場合は一度、一つの言語に絞りとことんまでその言語をマスターしてから、他の言語に取り組んだ方がいいと、今はこちらの大学をリタイヤされた日本語教師の方に教えていただいたことがあります。その方は、娘さんが小学校中学年から一切家の中でも日本語を用いるのを止め(両親日本人)、大学に入ってから日本に留学することで、日本語が使えるようになったとおっしゃってました。また言語学を専攻する知り合いにも、他言語は生まれたときから日常会話程度に聞かせるようにし、学習言語は一つの言葉に絞り、小学校高学年くらいから他言語にも力を入れていくという方法だと、どっちつかずにもならずバイリンガルにもなり得るよと教えていただいたことも。
 その子の様子と、中途半端にならないよう親がどこまで環境を整えられるかを見つつ、対応を変えていくことの大切さを教えていただきました。

・家庭内では日本語のみで受け答えさせる?
 配偶者が日本語を話さないとしても、「母親とは日本語のみで」というメソッドをよく聞きます。それでも、家のように、日本語メディアにはほとんど触れない生活、日本語の読み聞かせは小さな頃から少しずつ続けているけれど、日本語は私以外からほとんど聞かない、日本へは諸事情により十年以上帰っていないといった、日本語に接する機会がほとんどない状況では、このメソッドもかなり無理があると学びました。
 子どもたちがその日体験し読み聞きし学んだことは、全て英語で入っています。周りの情報をスポンジのように吸収する子供達の英語力に比べ、母親との会話だけによる日本語力では、語彙も言い回しの発達も圧倒的に違います。その言語に触れる機会が少ない環境で、その言語のみを用いることを強いるのは、複雑な思考を赤ちゃん言葉のみで話すようにと促すようなもの。「日本語のみで」メソッドを用いるには、豊かな日本語に普段から触れているという前提が必要だと感じています。
 「バイリンガル教育を!」と張り切っていた私も、この現実を前に、方向転換することになりました。私自身は日本語で話しかけ続けながらも、「こんなことが書いてあった!こんなことを知った!」と興奮して話す子どもたちを前に、「それらの知識をより調べ深めること」を、「それらを日本語で表す練習」より優先していくように。
 それでも日常会話まで英語に引っ張られないよう、その「切り替え」がこれからの我が家の課題です。

・今の我が家に何ができるか?
 その言語にできるだけ触れられる環境を整えられるのが理想なのですが、もし家のように難しい場合は、「バイリンガル」に拘るよりも、まずは一つの言語で複雑な思考が可能となるほどの言語力を身につけてから、その上に第二外国語として他言語を乗せていくというのも、一つの手だろうと、先達から学んでいます。
 まずは日常会話を英語に引きずられない、日本語メディアも少しずつ生活に取り入れ、私以外に日本語に触れる機会を増やし、ママが日本語で言う内容は理解できるけれど日本語を話すには口が回らないという子供達に「話す練習」を。あと、日本に帰るための貯金(笑)。

できることを、こつこつと。