靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

近況整理、ああ長い冬が終わろうとしている

2013-03-17 03:02:04 | 今週の整理
1.ここ何日か、日中の気温が零度以上になることも。道路の雪は日に日に解け、雪解け水の流れがあちらこちらに。真っ青な空が続き、真っ白な雪が照らされ、上から下からどこ見回してもとにかくまぶしい! サマータイムも始まり、夜九時頃でもうっすらと明るく。ああ長い冬が終わろうとしている。

2.春休み一週間。ぽかぽか日差しに誘われ、外遊びな毎日。上三人不在の前半は下二人連れて公園やトレールのはしご。後半は皆で連続三日スキー。自宅から車で十分ほどのところにスキー場。五歳三女も初アルペンスキー! 友人の娘ちゃんと二人でコーチからレッスンを受け、二日目にはリフトに乗り、山上から滑ってくる。私は三歳次男を連れ、スキー場周りをトレッキングにそりに。毎日太陽をたくさん浴びて、ぐっすり眠って。陽の熱が体に沁み、ぽっかぽかです

3.長男三日間の救援活動トレーニングキャンプから戻る。三十人程のティーンネージャーが集まって。
 初日は朝7時から夜の十一時までみっちり講義。マッキンリー山での遭難、幼児の捜索(どんなところを探すか、小さな穴のようなところに丸まっている場合があるなど)、アルツハイマーの老人の捜索(アルツハイマーの特性、昔に戻っているなど)、墜落した飛行機の位置確認、怪我の処置、洪水の時には、地震の際は、などなど、とにかく実際の救援救助に必要な知識を盛りだくさん。
 そして二日目三日目は朝六時から夜十一時まで、森や山に入り、実地訓練。電波を放つ機械を山の中に投げ、アンテナと探知機を駆使して探したり、怪我人が出たと想定して、その「怪我人」を山中から実際に運び出してみたり。
 もういくつかのトレーニングを積むことで、長男も実際の救援活動に参加することになるそう。このNPO、軍隊のような上下構造、規律、厳しさなのですが、生死に関わる集団活動、普段そういった雰囲気からはかけ離れた生活のなかで、長男にとって背筋を伸ばすとてもいい機会になっているとつくづく感じています。帰ってくるとびしっとした姿勢や顔つきに変わっています。まあしばらくするとまた戻るのですが。(笑) 何よりも本人がかなりやる気になっていることが大きいです。
 特にティーンにもなれば、家族や学校だけでは、その子のニーズを満たすことは難しいと感じています。こうして技術面だけでなくバリューも含めコミュニティーで若者を育てようとして下さること、本当にありがたいです。それは他にも、何らかのスポーツチームや、宗教的な組織や教会でもあったりするのでしょう。

今朝は、昨夜からの誕生会スリープオーバーの次女を迎えに行き、長男NPO活動に降ろし。明日から夫一週間出張なので、その準備。皆で散歩に出かけ春の太陽も浴びよう!

皆様の一週間が素晴らしいものとなりますように! 雪解けのアンカレッジより。

Have a wonderful week!


日常風景:

公園!


まぶしくてまぶしくて。


グリーンハウスにも立ち寄って。

さぼてん、へびみたい。

川岸も解けてきてるね!



スキー場にて。

友人娘ちゃんと三姉妹。

滑るよ~。

友人君と滑りづめであまり会うことのなかった長男。


次男は周辺でダンボールそり。


雪堀り遊びも。



夫の誕生日!

はっぴば~すで~。

キャンドル吹き消す!

一本ですが。


お友達とも毎日遊んで。

クラフトしたり。


楽器と共に、


練り歩いたり。


お医者さんごっこだったり。


友人宅にて


獅子舞したり。



長女、じゃがいもバッテリー実験中。



雪中ハイキング、変わらないもの

2013-03-17 03:01:02 | 風景・散歩・旅
雪舞う中、ハイキング!


カリフォルニアからの客人を連れて。


晴れていたならば、アンカレッジを一望できただろうにというフラットトップ山。

一望・・・。


客人と話しながら歩く。

メキシコ出身の両親を持つというその客人。走り回る子供達をニコニコと見守りながら、

「さて、五人それぞれのパーソナリティーはどういった感じかね」と。

「パーソナリティーですか。成長につれ変わっていきますからねえ」

自分の中に、この子はこうだとあまり決め付けたくない気持ちがあるのを感じつつ、そう答える。すると、

「いや、パーソナリティーというのはね、一生変わることがないものなんだよ。変わるのは、行動や考え方であって。知識や知恵をつけるうちに、馬鹿になっていく者もいれば、賢くなっていく者もいる」

メキシコでは多くの人々が、伝統的にたくさんの名前を持っているのだそう。母方と父方の苗字、プラス、あれやこれや。その中に、誕生時にその子のパーソナリティによって付けられる名前があるという。子供時代様々な手続きでフォームを渡されると、いつも名前を書く欄にどこまで書けばいいのかとまどったと、笑いながら。

用意はいい?とウインクし、ご自身の名前を唱える客人(「唱える」と感じたほど長い!)。

変わらないものと変わるものと。

もし変わらないものがあるとするならば、

その変わらない中心から、

少しでも良きものを生み出せるよう助けていきたい、

そんなことを思いつつ。


それ~。


ベンチ!


トンネルくぐり。


森の住人に。


静かだね。


よしまた出発!


登って走って。

ほっと一息。

子育てノート、バランスを支えるもの

2013-03-17 03:00:30 | 子育てノート
・バランスを支えるもの

 ある夏の休日、家族でサイクリングに出かけました。三十分ほど走り、公園にたどり着くと、遊具の隅に人だかりができています。覗いてみると、白樺の木の間にロープが張られ、その上を中年の男性が歩いていました。右に左に前に後ろに揺れながら、前へ前へと進んで行きます。ぴんと張った黒く平たいロープが、足を踏み出す度に曲線を描いてしないます。周りの視線を一身に集めた綱渡り師は、往復して元の地点に戻ると、ロープからぽんと飛び降り、拍手喝采を浴びます。すると今度は、周りの子供達に、順番に綱の上を歩かせて下さいました。

「ありがとうございます。子供達大喜びです」

 そう話しかける私に、さわやかな笑顔で「You are welcom」と答えながら、きゃ~きゃ~と綱の上を歩く子供達を眺めています。何度も落ちながらも、またよじ登り歩き始めようとする子供達。皆なかなか前に進まないようです。

「あなたが歩いている時は、あんなに簡単そうに見えたのに。難しいものなんですね。普段もお仕事でこういったことをされているんですか?」

「いやいや、楽しみのためだけにしているのですよ。だって、ほら楽しいじゃないですか、見て下さいあの笑顔」

 うわあ、あれ~、おっとっと、そう声を出しながらロープを歩く赤毛の男の子、目を輝かせその男の子を見上げる子供達、その1人1人をを指し示し、嬉しそうにそうおっしゃいます。

 長女と長男の番になりました。地上一メートル程のところに張られたロープの上へ、足を踏み出していきます。右に揺れ左に揺れ、なかなか前へ進むことができません。地面に立つ私が差し出す手を放せば、瞬く間にロープから落ちてしまいます。手をしっかりと握ったまま、一歩一歩進んでいきます。手には汗がにじみ、身体に力が入り緊張しているのが分かります。実際に綱の上を歩いてみることで、バランスを取ることの難しさを、体験したようでした。

 一通り集まった子供達が歩き終えた後、口々に質問が出ました。

「どうしたら、あなたみたいに、そんなにも軽やかにロープの上を歩くことができるようになるんですか?」

「毎日練習することだよ。私もね、トレーニングを欠けば、すぐに綱の上から落ちてしまう。とにかく毎日続けるんだよ。それがバランスを保つ秘訣だよ」

 ロープの上でバランスを保つためには、綱の上を歩く練習の他にも、身体の隅々の筋力を鍛えることに、毎日の大半を費やす必要があるのだそうです。真夏の太陽に照らされ、シャツを脱ぎ捨てた綱渡り師の身体に、はっと息を呑みました。首、胸、腹部から手の先まで、そしてショーツから伸びるふくらはぎからつま先まで、隙無く引き締まった筋肉。綱の上で、絶妙のバランスを支えていたのは、この見たことも無いほど鍛え抜かれた身体、毎日のトレーニングの積み重ねだったのです。


・バランスを支える習慣

 成長する力の要は、バランスです。そのバランスを支えるのも、また普段の積み重ねといえるのではないでしょうか。普段の筋力トレーニングの習慣が、綱の上でバランスを取りつつ軽やかに進むことを可能にするように、普段の心がけや実践の積み重ねこそが、子育てにおいての絶妙なバランスをとることを助けてくれるのです。

 何も無いところから、突然絶妙なバランスが取れるようになるということではありません。あちらに揺れこちらに揺れ、何度も落ち、それでも毎日こつこつとトレーニングを続けること、成長力を支えるのも、そんな日々の繰り返しです。

「バランスを取る」とは、感覚を基にした曖昧な言葉にも聞こえます。それでも、綱渡り師の日常のトレーニングが、分かり易い一貫したメニューを基にしているように、成長力を支える日々の習慣というのも、明確に表されるものです。成長する力を支えるためには、次の三つの習慣づけをしていくことが役に立ちます。

一、結果より過程を重視する
二、失敗は成功の元と捉える 
三、他人と比較して歩みを止めない

 これらの習慣はいずれも、「利き手で抱える」をより強調したしたものです。家庭から一歩外へ出れば、過程より結果を要求され、失敗をすぐには許されることがなく、一直線上に並べられ他人と比較されることが多いでしょう。「もう片方の手で押しやる」がより優位の社会で、家庭では一貫して、もう一方のバランスを強調していく習慣づけをしていくことが、子供を健やかに成長させるバランスだと感じています。

 これらを習慣として持つ子供達は、将来どんな荒波にさらされようとも、潰れることなく力強く進み続けていくための、しなやかなバランス感覚を身に着けているのことになるのではないか、そう感じています。

子育てノート、バランス

2013-03-17 03:00:01 | 子育てノート
大切なのは「バランス」

 無条件に愛することが大切です、いっぱい抱きしめてあげましょう、信じてあげましょう、少々のことは目をつぶって大らかに、のびのびと育てましょう! そんな言葉を育児書やどこかで聞いては、その子のしたい放題させ、否定的な言葉を一切使わず、「いいのよいいのよ」とニコニコ微笑み続ける母になってみる。

 しばらくして、小さな時にしっかり躾けておかなければ、後から取り返しのつかないことになります、最近叱られたことのない子供というのが増えてきて、そんな子は何かあるとすぐに挫折してしまうのです、何をしていいのかよくないのかの境界を、よく分かっていない子が増え集団生活が成り立ちません! そんな世間の声を聞くと、子供達の日常生活の逐一まで口を出し、頭ごなしに叱り飛ばす母に変わる。

 振り返ると、あちらに揺れ、こちらに揺れ、そう何度も繰り返してきました。特に子育てを始めたばかりの頃は、周りに溢れる情報に翻弄され、その「揺れ」も半端ではなかったかもしれません。ようやく揺れ幅も少なく、丁度よい加減というのはここら辺かなと感じ始めたのは、随分と後になってから、四人目五人目の育児が始まってからといっても過言ではありません。

 今ならば、たくさん抱きしめ、のびのびとさせ、無条件に愛しつつ、その子の心の底の部分は信じながらも、心の底以外は大丈夫と信じ込むことなく、境界から向こうへは行かないよう躾けていく、それら全てが必要で、それらの「バランス」こそが大切なのだと言えます。無条件に愛するだけでも、信じるだけでも、いっぱい抱きしめるだけでも、細かいことは咎めず大らかにのびのびとさせるだけでも、厳しく叱って躾けるだけでも、十分ではないのです。どの方法が正しい正しくないというのではなく、全て正しさの一面であり、そしてあくまでも一面でしかありません。

 大切なのは、「バランス」です。そう分かったからといって、実際に実行できているかといえば、それはまた別の話です。日々子育てをしていれば、次々と問題も生まれますし、失敗の繰り返しです。それでも、「何らかのメソッド」に頼るよりも、巷に溢れる様々なメソッドを参考にしつつ、その時のその子自身に向き合い、それらのメソッドの間で最適な「バランス」をとっていこうとすることで、子供達に対する姿勢も随分と違ってくると感じています。

 一つの姿勢を、画一的にどんな子にもどんな状況にもただ当てはめるのではなく、その子がおかれた状況や、その子の性質や性格、その子自身をよく見、その時々によって適切な姿勢をバランスよく使い分けることです。

 たくさん抱っこしてやりながらも、その子がお友達を叩いたり、物をむやみに壊すのなら戒める必要がありますし、叱りながらも、無条件に愛しゆったりとのびのびさせる必要もあります。

 言葉にせずとも表情や声のニュアンスだけで、何をしたらいいかを感じ取る子もいれば、びしっと強く言われて初めて気がつく子もいます。前者の子には、厳しく叱る必要もないでしょうし、後者の子には、ゆったりと笑っているだけでは、境界を次から次へと越えていってしまいます。そして同じ子供でも、時と場合によって、違った対応が必要になることもあるでしょう。 

 植物に喩えると、また分かりやすいかもしれません。植物の成長には、光・水・土が必要です。光ばかり当てていても、水がなければ枯れてしまい、光や水があっても、土の栄養分が必要です。またそれらの要素を与え過ぎても与えなさ過ぎても、植物は健やかに育つということがありません。日差しの強い日は、直射日光を避け、日陰に移す必要もあります。たっぷりと水が必要の日もあれば、少しだけの水でよかったり、全く必要の無い日もあるでしょう。土への肥料なども、多過ぎず少な過ぎずと調整する必要があります。植物を成長させるためには、その時々の状態をよく観察し、光、水、土をバランスよく調整していく必要があります。

 ヒトは植物よりも複雑です。感情、感性、思考が絡み合い、日々変化していきます。ですからそのバランス加減も、植物のようにシンプルにとはいかないかもしれません。それでも、ヒトには言葉や仕草や動作などの表現の術がありますから、黙っている植物よりも、より分かりやすいともいえます。

 まずは、その子自身に向き合い、表に現れてくるもの、そしてその奥にある心や気持ち、そういったものをよく観察し、その子に今何が必要かを感じ取ることです。そうして、あちらに揺れこちらに揺れと繰り返すうちに、以前よりは今、今よりは明日と、徐々に少しずつでも、その子により最適な加減というのが見えてくるはずです。



子育てに最適なバランス

 子育てで心がけたい「バランス」を、的確にすっきりと表していると感じるのが、「利き手で抱き、もう一方の手で押す」という、「両手のバランス」です。両手で抱え込むのでもなく、両手で突き放すのでもなく、一見相反して見える動きを同時にすること、「抱きつつ押す」というバランスです。

 両手で抱え込んでしまっては、子供は成長することができません。歩き始めた子供を抱きかかえていたら、歩く力が育たないようにです。歩かせるには一歩一歩引き下がり、子供との距離を広げていく必要があります。二歩歩いたのなら三歩、三歩歩いたなら四歩、そう少しずつ後ろに下がっていくこと、それが「もう一歩の手で押す」ということです。
また両手で押しやり突き放してしまっても、すぐに倒れてしまいます。幼児は、周りの人々の喜びに満ちた笑顔に答えるように、一つ一つのことをできるようになっていきます。歩いた先に待っている笑顔や歓声、抱きしめられる腕の温もり、それらに励まされることで一歩一歩足を踏み出していくのです。どんな状況でも、例え押しやりながらも、常にそんな温かい眼差しで見守ること、それが「利き手で抱く」ということです。

 そして覚えておきたい重要なことは、この「抱く」と「押しやる」が、全く同じ力加減ではないということ、押しやるよりも抱くことに常により重きをおいていくということです。利き手の方がもう片方の手よりも強く力が入るのです。叱った後は思いっきり抱きしめてやり、間違いを起こしても必ず良くなっていくと信じ、「こんなことしてたら駄目じゃない!」と諭しながらも、欠点も弱さも含めその子を受け入れ、「何てことしたの!」と叱り戒めつつも、心の底で愛し続ける。子供はどんなに咎められ叱られたとしても、両手で突き放されているのか、利き手で抱かれているのかを感じ取るものです。

 普段の生活から親の愛情を十分に感じさせるのも大切です。抱きしめ、背中をさすり、膝に据わらせ、手をつないで歩き、冗談を言い共に笑い、愛情のこもった眼差しと声の調子で接し、そう常に温もりや愛情を示すことにより重きをおく。この力加減が子供を無理なく健やかに成長させるバランスだと感じています。

 私自身、常により「抱く」ことに力を入れると心がけることで、子供達との関係がスムーズになってきたと感じています。教えなければ、しっかり躾けなければ、将来のこの子のために、そう厳しく叱り、決め事を守らせ。この子のために、この子を愛しているから、それでもそうして元にあるはずだった愛も、いつしか境界を守らせることに必死になり奥深くへと隠れてしまい。「こうしなさい」「こうであるべき」、そんな頭ごなしで批判的な物言いばかりでは、子供の心は閉じ、こちらの声は届きません。そして子供はただ怖いから、怒られないためにいいなりとなり、主体性も育ちません。突き放しつつも利き手でしっかりと抱き、普段から愛情を感じさせるよう心がけることで、子供の扉は開き、こちらのアドバイスや要望も心に届きやすくなります。

 大地に根を張る力が「安心する力(安心場にたどり着く力)」だとすれば、成長する力は、地面の上に芽を出し、天目指し高く高く伸びていく力です。幹が一見スクスクと伸びているように見えたとしても、根がしっかりと張っていない木は、風が吹き荒れ嵐になれば、すぐに倒れてしまいます。利き手でしっかりと抱くこと、それが丈夫な根を育みます。そして、その利き手の動きに、もう片方の手とのバランスが加わることで、頑丈な幹が育つのです。利き手でしっかりと抱き、尚且つもう片方の手で押しやっていくこと、この一見矛盾して見える動きのバランス、それが、成長を育む鍵です。

自尊心と謙虚さ

2013-03-17 02:59:02 | ファミリーディナートピック
昨夜のファミリーディナートピック。

自尊心(self-esteem)」について

「自尊心(self-esteem)」を高めること。昨今のこちらの教育現場でとても重視されていること。親と先生との集まりなどでも、今年のクラスに何を期待しますか?と問われれば、多くの親の口から、healthy self-esteem, to feel good about herself, develop self-esteem、そんな言葉が聞かれる。

周りは、その子がするどんなことにも、ポジティブな言葉を用い、否定的な言葉を使わないよう気をつける。「なんて上手なの!」「素晴らしい出来だわ!」そうこぞって褒めつつ。

それでも、self-esteemというのは、あなたが何をしたかや、あなたの能力や選択や、他の人にあなたがどう評価されるか、他の人があなたをどう思うか、そんなことには関係ないところに築かれるもの。

こうしてこの世に生まれてきたということ、自身と源との繋がり、そこにself-esteemの根幹をおくこと。

周りからけなされようが、周りから認められなかろうが、決して損なわれることのないself-esteemを築いていくこと。

寓話を用いつつ:

 ある男が、風呂場へ行き、服を脱ごうとする。ああこの服を脱いでしまったら、自分がジョンだということを忘れてしまうじゃないか。どうしたらいいものか。そうだ!足の先に赤い紐をくくりつけておこう。そうすれば私は私がジョンであるということ覚えていられる。嬉々として足先に紐をゆわえつける。風呂を終え、脱衣所に戻り、ふと足先を見ると、紐がはずれなくなっていた。しまった! 私は一体誰なんだ!?



謙虚さについて

能力、何らかの結果、今おかれた状況、全てが与えられたもの。自分のものなど何一つない。

まずはその自覚。

それでもそこから、私はこんなにも与えられるよう選ばれた人間、私ってすごい、そんな考えが生まれることもある。そしてそこから、傲慢さが始まる。

私はこんなにも与えられている、と、謙虚さが、共に成り立つには?

聖書に描かれるモーセの人物像にヒントをもらいつつ:

 出エジプトを率い、ユダヤの民を奴隷から解放し、「十戒」を受け取り、「神」と面と向かって話し。俺ってすごいじゃない、俺みたいな人いやしないよ。なぜそう思うことなく、「地球上で最も謙虚な人物」と言われ続けたのか。

 モーセには、これだけの霊性、能力、知恵、知識、生い立ち、境遇を与えられるのなら、自分以外の誰もが、自分よりもっと多くのことを成し遂げられただろう、自分以外の誰もが、自分よりはるか遠くにたどり着くことができただろう、そんな思いが常にあったとされる。モーセの目には誰もが、もし自分と同じ状況に置かれたら、よりよくできただろうにと映っていたと。それ故に、モーセは誰に対しても尊敬を持って接し、常に誰よりも謙虚であったという。
(ラビSchneur Zalmanが1792年にトランス状態で導き出した解釈より。アダムはこんなにも与えられて俺ってすごい!?と、「知識の実」に依るようになったとも)



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謙虚であるために、いやいや私はそんなものもらっちゃいないのですよと、ギフトを否定していても何も生み出さない。

まずはどれほど与えられているかを自覚する。

そして自身のself-esteemを満たすために、さまざまなギフトを与えられていると勘違いしないこと。ギフトはこの世を少しでも良くするために用いるよう与えられている。

ギフトを磨き、成長させるのはself-esteemを満たすためではなく、他の人ならもっと上手に使えるだろうに、申し訳ない、至らない私だけれどできる限り頑張るしかないといった謙虚さ。源との個人的な関係。