二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

社会的な風景としての花

2013年06月12日 | Blog & Photo
東松照明の「さくら・桜・サクラ」が1990年、藤原新也の「俗界富士」が2000年。
10年のへだたりがあるが、この二冊は、それまで前田真三や竹内敏信の影響を受けながらのほほーんと、ごく素朴に“ネイチャー”や“風景写真”を撮っていたわたしの意識を、少し変えた。そういうインパクトがあった写真集である。

しかし、衝撃を受けたからといって、自分の写真がすぐに変わるものではなかろう。
1年、2年、あるいはもっと長い時間の中で、確認し、自問自答し、試行錯誤しながら、変化はゆっくりと現われる。





ここにあげた3枚は、いずれも「郷土遊覧記」の中の作品。
むろん代表作ですよ、秀作ですよ・・・というつもりでピックアップしたのではない。
街歩きをしていると、いやでも季節の花と出くわす。
ときにはメモのつもりでサッと、ときにはアングルを工夫しながらじっくり、それらを写真に撮る。

花だけをクローズアップするのではない。
背景を入れて、社会的な風景の一部として、撮る。
するとそこに、かすかではあるが、そのときのわたしの意識のようなものが写りこむ。
おそらくは錯覚、ひとりよがりに近いのだろう。
街角の花は、背景があるからおもしろいのである。

撮影意図が露骨なものは、結局のところ、飽きがきやすい・・・と、わたしは感じている。
だから、よほどのことがないかぎり、超広角や望遠は使わない。
50mm前後の画角がもっているあの「自然に見つめた感触」が好き。
標準系のレンズを使うと、過不足なく――あるいは必要にして十分な背景を合わせて写すことができる。



これらはわたしが「たどり着いた」一隅であり、片隅の光景であり、社会的な風景であろう。街角に咲く花のおもしろさ。
見せられる方々は、撮影者たるわたしほどおもしろくはなく「なんだ、退屈な写真だね」と感じるかも知れない。
だが、それでけっこうではないかというのが、こういう一隅と向かいあったときのわたしのスタンス。

昔は絶景が撮りたかった!
しかしそういった呪縛から解放されてみると、それまで眠っていた意識が生き生きと動き出す。
インドの旅で、有名な世界遺産、タージマハルの前に立ったときのことを、わたしは覚えている。
「なんだ、絵はがきみたいな風景だ」
わたしは興奮しながら、しらけていた。
この種の二律背反を、どういったらわかってもらえるのだろう? 
ほんとうにため息が出るような絶景なのである。
国内からやってきた観光客、海外からはるばるやってきた観光客で、ゲートもガーデンもごったがえしていた。そして「お約束の世界でいちばん美しい霊廟」のまわりを取り囲み、記念の写真を撮り、ジュースを飲んだり、弁当を食べたり、土産物を買ったり。そして子どもたちははしゃぎまわる。どこでもそうであるように。

「絶景ほど退屈なものはないな」
かりにいまそのときの「しらけ」をことばにすれば、そういうことだろう。
藤原新也が「俗界富士」を撮ってまとめた気持が、そのとき、わたしにもいくらか理解できたと思う。
「どんな美人だろうが、二、三ヶ月寝起きをともにしたら飽きてしまう」といったのは、辛辣な批評で知られるS・モームだったかしら?
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