虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

3、4歳児さんと算数遊び

2014-04-21 14:16:47 | 算数

3歳と4歳の★ちゃん、☆ちゃんの算数遊びの様子です。

☆ちゃんが自分で使う教材を選びたがったので、取ってきてもらうと上の写真の

推理ゲームをすることになりました。従来の遊び方は難しいので、

「指示を聞いて、色を並べる」ゲームをしました。

 

「白、青、白、青の順に並べて」

 

「自分の好きな色をひとつ選んで、全てその色になるように並べて」

 

「黄色と黄緑以外の色で、どの色も違う色になるように、一つひとつ選んで並べて」

 

「二つの色な同じ色、残りの二つの色も同じ色になるように並べて」

 

「青い色以外の色で、二つの色な同じ色、残りの二つの色も同じ色になるように並べて」

といった問題。

考えるパズルが大好きな☆ちゃんは夢中になってやっていました。

1問以外、すべて正解しました。

 

★ちゃんには難しい問題もありましたが、☆ちゃんと一緒に問題を解くのが

楽しくてたまらない様子でした。

 

『1,2,3、Go!』という算数ゲーム。

とても楽しく遊べました。


「暗号作りがしたい!」

2014-04-20 17:53:16 | 算数

 

2年生の★ちゃん、☆ちゃん、○ちゃん、●くんのレッスンの様子です。

今回、何をしたいか話しあう時間に、●くんが、「暗号が作りたい」と言いながら、

名探偵コナンの暗号が載ったページを開いてみせました。

「わたしも暗号が作りたい」「暗号の手紙が書きたい」と、

女の子たちも、大乗り気で賛成していました。

 

そこで、光の屈折の仕方の違いを利用する暗号文、フリクションボール(ペン)を使った

温度を利用する暗号文、ひらがなを座標にする暗号文の3種類を作りました。

 

途中で●くんは、午前中に来た5年生が残してくれていたビーダマコースターに

改良を加えて、女の子たちは尿素の結晶作りと紙の編み物をしました。

 

算数タイムに、算数脳トライアルの「ランドセルはどこ?」という

数理パズルの問題を解きました。

★くんは「大好きな暗号に似ている」と大喜び。

慣れない考え方に少し戸惑っていた子も、すぐに要領をつかんで解いていました。

 

 

返り際に●ちゃんが、折りたたみ式のドールハウスのしくみに

強い興味を示していました。

そこでティッシュ箱の切り方とつなぎ方を工夫することで、

さまざまな折りたたみ式ハウスの形ができることを見せてあげると、

すぐに作りたがっていました。

組み合わせパターンについては、次の機会に記事にさせていただきますね。

 


巨大ビー玉コースター と「はね返るボール」の問題 

2014-04-20 17:18:29 | 初めてお越しの方

 

難問算数研究部に来てくれた★くんが、巨大なビー玉コースターを

作っていました。

 

ビリヤード台をはね返る、ボールの問題を学びました。

最初に折り紙を継いでいきながら、はね返らずにまっすぐ進んだ場合

どうなるのか考えたあとで、入試問題を作図して考えました。

今回参加してくれた5年生の★くんと☆ちゃんは、自力で正解できました。

ほかに、ミスしやすい電流と回路の学習もしました。

 

 

 


「遊園地」ではなく「原っぱ」

2014-04-19 22:04:18 | 日々思うこと 雑感

この記事を探しているという声をいただいていたので、ひさびさにアップします。

『おせっかい教育(鷲田清一・釈徹宗・内田樹・平松邦夫 著/株式会社140B)』で、

「遊園地」ではなく「原っぱ」的な遊びを……という提案があり、

「現代の子どもたちのメタ認知力や地頭力が下がっているのは、これが原因だなぁ」

と感じました。

同じ遊び場でも、遊園地というのは、そこに行ったら何をするかというメニューが

すでにあって、その中でどれを選ぶか、どんな順番でやるかという場所です。

今の大学・学校もカリキュラムがあって、大学の授業は「勉強する遊園地」となって

いるそうです。

鷲田清一氏が、この著書の中で次のようにおっしゃっています。

「ぺんぺん草が生えて空き缶が転がっているだけという原っぱに、

学校にも家にも居づらい子が、一人で来て空き缶を蹴ったりしていると、

よそから同じような子がやって来て、お互いに意識しあう……。

でも遊び道具もない、野球もできない。そんなときにちょっと空き缶をそいつの方

向けて転がすと、向こうも手持ち無沙汰ですから、またポーンと蹴ってきたりして…

そうやっているうちに二人の間で新しい遊びのルールを自ら作っていくんですよね。

子どもというのは別に遊び道具なんかなくても、石ころや棒切れなんかで、上手に、

いろんなゲームを自分らで作っていく。

遊園地のように、その空間の意味があらかじめ決まっているんじゃなしに、

自分たちが何かすることで空間の意味を作っていく。そんなふうにルールや意味を

自分たちで作っていかないと、原っぱで遊べませんよね。

そういう教育の場所というのが今なくなってきているんです。

「原っぱとしての遊びの場」がね」。


この話を読んで、

『子どもの「遊び」は魔法の授業(キャッシー・ハーシュ=パセック他(アスペクト)』

の著書にあったネズミの実験のことを思い出しました。

50年ほど前、ある教授が、研究室のネズミをわが子のペットとして数匹持ち帰った

そうです。それらが、研究所のネズミより素早く迷路をすり抜け、

ミスが少ないことを発見しました。その後、別の教授が、ネズミを取り巻く環境の

さまざまな面がネズミの行動や脳の発達に影響を及ぼすかという研究をしました。

かごで1匹で暮らすネズミ、ほかの数匹と大きなかごで暮らすネズミ、

おもちゃの滑り台や回し車のある遊園地のような環境で暮らすネズミを比べて

調べました。

すると、遊園地のような環境で、ほかのネズミと一緒に暮らしているネズミは

脳内にシナプスをたくさんこしらえていたそうです。

この話にはもう一つ重要な部分があって、この教授の報告によれば、

遊園地のような環境で過していたネズミよりもっと脳が発達していたのは、

自然の中で育ったネズミだったそうなのです。

自然の中の音、匂いといった刺激、遭遇する生き物、集団で群れる遊び、

シラミやノミ取り、仲間とのはしゃぎあいなどは、研究者がかごの中に作った

ディズニーランドよりずっと脳を発達させるものだったのです。

人間をネズミといっしょにするのは問題なのですが、人が人工的に作る豊かな環境は

必ずしも何もない原っぱに勝るものではないことを、

頭に入れておくとよいのかもしれません。

私が子どもだった頃は、広場はもちろん、街も学校も大人たちの作るコミュニティーも、

『原っぱ』的な要素が十分にあった気がします。

過去記事ですが、よかったら読んでくださいね。↓


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<番外 消費者ではなくて、製作者でもあったちょっと昔の話 >

マシュー・フォックスという神学者が次のような言葉を語っています。

私たちは本質的に 消費が好きな生き物だろうか?

そうは思えない。人間は製作者として存在してきたのであって、

消費者ではないはずだ……。



年々、子どもをめぐる環境は変化し続けて、

子どもの心のあり方や物の見方や関わり方が変わってきていますよね。

特に感じるのは、最近では、親がリードする形で、子どもがいつでもどこでも

「消費者」になりつつあるということです。

私が子どもだった30年以上前、

子どもの私が世界をどのように眺め、関わっていたかというと、

良い消費者になりたくて、経済力をつけて、

購入の際のセンスを磨こうと必死の大人たちと、

現実には何もかもが未完成過ぎて、創作したり製作したり、自分で何とかしたりと……

「製作者」の立場もとらざるを得ない現実の間でもがく大人たちの姿を……

自分もその両方を模倣しつつ暮らしていました。

それで、当時の「製作者」側、「創作者」側、「発信する」側に、

いざ素人の自分たちが立ったときの、何ともいえない危うさや面白さやワクワクや、

がっくし……くる感じ……が、

その「おしゃれ」とはほど遠くて、鈍くさくて面白すぎる風景が、

子ども時代の私の脳裏に焼きついています。

どれを、思い出してもおかしくってしょうがありません。

そうしたことを急にだらだらと書いてみたくなりました。

 

私は大阪の吹田市の関西大学の近くで育ちました。

それで、子どもの頃はよく友だちと、大学の構内にもぐりこんで、

乗馬クラブの馬のえさやりを手伝わせてもらっていました。

この関西大学の乗馬クラブは、毎日、私の住んでいる周辺の道路をきちんとした

乗馬用の服で正装して、ぐるぐるまわっていました。

馬は千里山の駅前の信号機を確認しては、きちんと交通ルールを守って、

かなり気取った姿で立っていました。

そこらあたりまでは、

大阪のちびまる子ちゃん世代の日常として許せる風景だったのですが、

近所に住んでいる地域の世話役の人が「子どもたちのために小さな動物園を作ろう!」

と言い出したのです。そこで、公園のそばの地域の集会所の前の広場で

やぎと羊を飼いはじめたのです。確かうさぎもいました。

最初はよかったんですが、サラリーマンが多い地域……

世話をする人も仕事があるし、大きな動物は世話が大変で、

しまいには、どんどん開発の波が押し寄せてきている千里山の街中で

やぎや羊を放し飼いすることになりました。

そこで、私は毎日、

千里山の駅前で、きちんと交通ルールを守って立っている馬と、

気の向くままに草を求めて移動するやぎや羊の姿を目にすることになりました。

おまけに当時、そのあたりはペットが野生化したワカケホウセイインコが

大量発生していたので、夕方ともなると、カラスの大群なんて目じゃないほど、

圧倒するような数の緑色の大型の鳥の群れが、空を移動していました。

そんなふうに、社会というか、環境が未完成でカオス……なので、

私の通っていた公立小学校の校長の考えも自由そのもの。

宝塚歌劇のファンだからという理由で、学校のクラス名を、「雪組、星組、月組……」

として、毎月クラスで劇を発表する日を作っていました。

子どもが育つ環境としてどうだったのか……というと、???なのですが、

私も友だちも自分たちが頭で考えて、何かをすることに対して、

躊躇しなかった気がします。子どもなのですが、常に、「製作者」「作る側」の発想が

あるのです。

千里山の駅前には、ミスタードーナツとか、サンリオショップとか、「○○塾」とか、

これから全国でチェーン展開していこうとする店舗が並びはじめていました。

その手前の道路には、

自動車と一緒に馬やら羊やらヤギやらがごちゃごちゃしていたわけですから、

子どもの目にも、世界はまだ未完成で混沌としているのだから、

自分たちの参入する場はいくらでもある!

自分たちもクリエイティブにこの街作りに参加しようという気持ちがありました。

たとえば、道なども、はじめに覚えなくちゃならない道順があるのではなくて、

到着地までの近道は自分たちで発見して作り出すものという思いがあったので、

塀があれば登り、柵の下の穴を掘ってくぐれるようにし、

他人の家の垣根のふちを、番犬を狂ったようにわめかせながら歩いていって、

がけを斜めに渡っていって、

団地の前の倉庫やら、自転車置き場の屋根やら、高いところがあれば必ず登って

そこも道の一つとして捉えて通っていくことに、何の疑問も抱いていませんでした。

子どもは、それぞれそうして自分で見つけて作り出した道や秘密の隠れ家を

たくさん持っていました。

時間にしても、暗くなったら帰る時間というアバウトな捉え方で

遊びまわってますから、曜日とか時間なんて気にかけたことがなかったです。

そんな中で、子ども同士、遊びでもルールでもどんどん自分たちで作り出して、

考え出して、改善して遊んでいました。

人脈も開拓して、近所の人にお願いして犬の散歩をさせてもらったり、

同じ団地に住むひとり暮らしのおばあさんに子どもたちで敬老の日のプレゼントを

贈ったりしました。運動オンチで内気な性格の私も

どこでも登るし、もぐるし~を何ということもなくやってましたから、

その頃の子どもたちは、躊躇なく何でもやっていたなと今になって

びっくりしてしまいます。


とにかくエネルギッシュだし、自分たちの頭でよく考えていました。

よく考えていた~というのも、あんまり頭を絞ったので、

40過ぎてる今でも幼稚園の頃、考えあぐねていた問題をはっきり思い出すことが

できるくらいです。

それで、最近の子どもたちが頭を使わないとか、昔みたいに小猿みたいな無茶をしろ……

と思っているわけではないのですが、

「それにしてもあんまりじゃないかな?」と思う現状があるのです。

今は幼い子でも習い事に通っている子が多いのですが、

そうした人工的な場は当然、未完成さとかカオスからほど遠いものです。

時間の枠がありますし、することは決められてますし、

場合によっては、どういう気持ちで、どういう態度で参加すべきかまで暗黙のうちに

子どもに適応を求めてきます。

そこまでガチガチに固められた環境で、子どもたちが、

自分が環境に影響を与えたり、変化させたり、作り出したりできる存在なんだって

気づくことは皆無なんじゃないかな?と思えてくるのです。

それでもそんな現代っ子たちも、よくよく話に耳を傾けてみると、

あれこれと考えていて、したたかで、ユニークで、面白いです。

何に関しても「消費者」としての受身な立場しか取ったことがない子は多いですが、

一度「創作する」ことを覚えると、

「買う」ことよりも、何倍もうれしそうな表情をします。

いったん、クリエイティブに創造性を発揮し始めると、どの子もいきいきとしてきます。

……ここまで、話してきて何を書きたかったのかというと、

空間も時間もちょっと混沌としていてすき間が多いほうが、

何をしようかな? 面白いのかな? 

やってみようかな? やっぱりやめとこうかな?私はそれがやりたいの? 好きなの?

と自分で選んで、考えて、味わって、創造的に参加してみようという気持ちを、

子どもの中から引きだしてくれるのじゃないかな? 

ということなのですが……。

 


自閉症の子 と 工作見本  2

2014-04-19 09:23:47 | 初めてお越しの方

 

自閉症の子 と 工作見本  の続きです。

 

この日、◆くんの成長を感じさせるちょっとしたエピソードがあったので

書いておこうと思います。

 

◆くんは細部にこだわる子で、細部の何かを気にし始めると、

ほかのことが一切できなくなってしまうことが、しばしばありました。

少し前までは、一度こうだと思い込むと、

何を言っても頭を切り替えることができなくなって、

何十分間経っても、何時間経っても、同じことを訴え続けていました。

以前一緒に段ボールの車を作ったときにも、「白い色で塗る」と言い出すと、

教室のクーピーペンシルやマジックに白色がないので、一切作業ができなくなって、

「白い色が……」「白い色が……」と何十回も言い続けていました。

ようやくクレヨンの白を見つけてきたので作り始めることができたのですが、

段ボールに印刷された文字の部分だけ

白い色の塗っても違和感があったので、次はその部分を気にして

「白くならない」「白くならない」とかんしゃくを起こしていました。

 

それが、この日は、◆くんの柔軟な対応に「あれっ?」と驚いた場面がありました。

教室に着くなり、電車のおもちゃを広げていた◆くんが、

「先生、車輪がない。車輪がないよ」と言いながら、電車をひっくり返して見せました。

 

「本当ね。車輪がないわ」

「どうすればいいの?車輪をつけて。先生、車輪をつけて」

 

◆くんはほかにたくさんある電車のことは目に入らなくなった様子で懇願しました。

「◆くん、修理工場で修理することにしよう。まず修理工場をいっしょに作ろうか?」と

たずねると、うなずきながらも、疑り深そうに、

「でも、車輪はどうやってなおすの?車輪はつけれるの?」と、たずねていました。

 

「車輪をつけたフリならできるけど、本物の車輪はつけられないわ。

だったら、これをリニアモーターカーに改造したことにしたらどう?

こういうふうに磁力でフワリと浮いた状態で、滑っていくのならいいでしょう?

それなら、車輪はいらないわ。」

と言いながら、レールに見立てた棒の上を滑らせる真似をしました。

「リニアモーターカー」という言葉が口をついて出たのは、

ちょうどこの日、◆くんのお母さんから、

「最近、興味の幅が広がってきて、リニアモーターカーのしくみの話を面白がって

聞いていました」という報告をいただいていたからです。

 

わたしの提案を聞いた◆くんは、呆れたように、

「へんなの。だって、これは前がとんがってないよ。こんなぺちゃんこな

リニアモーターカーなんて、へん」と言いつつも、

この展開を面白がる風にちょっと笑って、気持ちよく次の活動に移っていきました。

 

 

前回の記事にこんなコメントをいただきました。

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自閉症の子の作品造りは憧れです。うちの子は幼稚園の時にクレヨンが大好きで

殴り書きを楽しんでいました。

家でリズムをつけて簡単絵かきうたも楽しんでいました。しかし小学校で、

周りが絵を描く、授業で絵や形を描くようになってから好まなくなりました。

家で誘っても嫌がってしまいました。

しかし、 もう何年もしていなかったクレヨンを突然やると言って、何種類か買ったら、

太くて頑丈なクレヨンが気に入りコンコンリズムをつけながら殴り書きしてます。

さり気なく歌いながら描いたり、描いてと頼んでみると以前より大きな抵抗は

しませんが、嫌そうです。塗り絵も絵とは全く違う色で塗り潰すといった感じです。

家では好きにリズムと色を楽しませておくべきか、年齢より幼すぎるまま先に進まない

状態のままでいいのか…悩みます。よろしければアドバイスいただけたら助かります。

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お子さんに会ったことがないので、どんなアプローチがちょうどいいのか

アドバイスすることはできないのですが、

答えられる範囲で思ったことを書かせていただきますね。

 

音、音楽、リズム、色、手で感じ取る手ごたえ、触感、質感、自分で何かを

コントロールできているという感覚などが、活動の動機となっているお子さんですよね。

周囲にやらされているように感じたら、好きなこともやらなくなったり、

楽しんでいたことも嫌そうにするようですから、

これまで通りの方法で、その子の能力を高めよう、より進んだ課題に向かわせようと

あせるのは禁物かもしれません。

わたしがこうした子と工作をする場合、その子が実際にすでに上手にできることや

しつこくやりたがることやイタズラなどが、制作活動の主になるようにしています。

技術を向上させることを目指すのではなく、こちらのサポートによって、

「心地よさがより満たされた」「ワクワク楽しい気分になった」と本人が感じることを

一番大事にしています。

すでにできていることに、言葉や目に見える形で秩序を与えたり、

意味を持たせたりする面で援助しています。

たとえば、「ペットボトルの中に小さなものを落としていくのを楽しむ」という力がある

子でしたら、「ジャカジャカ音がする楽器を作ろう」と誘って、

小さいサイズの鈴や小石などをペットボトルに入れてキャップを閉じてできあがり……

といった工作を楽しみます。

その際、仕上がった作品が、幼いレベルのままのように見えても、

「○○を作ろう」と目的を持って関わり、仕上げたものが自分が作ろうとしたものだと

わかるという認知の面での向上があれば、よしとしています。

 

 

 


車専用のエレベーター

2014-04-18 19:02:16 | 通常レッスン

小学1年生の★くん。年長さんの頃、ゴミ処理場を作ってくれた男の子です。

今回は、ほかの子が作っていたエレベーターを見て、

エレベーター付きのビルを作ることに決めました。

 

屋上に駐車場を作ってから、

「どうやって車を屋上まで上げようかな?」と悩んでいました。

 

そこで、車専用エレベーターを作ることにしました。

側面の入り口から入れて、左手前のレバーを上げると、

エレベーターが動きだします。

 

 

★くんといっしょにバトルシップゲームをしました。

「Cの3」「Bの5」など座標上の点を言い合って攻撃します。

初めて遊んだゲームですが、★くんは座標を読むのがとても上手でした。

 

IQゲーム。

 

算数タイムにサピックスの算数脳トライアルをしました。

なかなか難しい問題でしたが、★くんはすぐにコツをマスターして

しっかり解いていました。

数理パズルがとても得意なようです。


新年中さんたち アルゴで数当てゲーム  それぞれの個性と工作

2014-04-18 15:03:33 | 子どもの個性と学習タイプ

年中さんになったばかりの★くん、☆くん、●くんのレッスンの様子です。

アルゴカードで数当て遊び。

「1~5までの数のカードが1枚ずつ。裏返った2枚のカードは、

左から小さい順に置いています(小さい順がわかるように、赤いチップを

置いています)。

 

みんなすぐに要領をつかんで、答えられるようになってきました。

次は、3枚。

途中から、本来のアルゴゲームに近い形で、お互いのカードの数を

当てるゲームをしています。とても楽しかったようで、

終わった後で、「またやりたい!」という声があがっていました。

 

 

文章題を聞いて、チップで表現しています。

集中してしっかり取り組めました。

 

 

自由に活動する時間に、★くんははばたく鳥を作りたがりました。

本当は、本にあった車輪を動かすと鳥がはばたく仕掛けの鳥が作りたかったのですが、

今回はゴムで動く簡単なものを作りました。

☆くんは一つひとつの作品に満足するまで手を加え続けるタイプ。

「こんなふうにしたい」という強い思いを抱いて、

さまざまな色で塗り分けたり、柄物の紙を貼ったり、

尻尾をつけたり、ゴムをつないで吊り下げるひもを作ったりしていました。

 

 

 

子どもたちの個性の違いを感じる面白い出来事がありました。

3人が口ぐちに「自動販売機が作りたい」「くら寿司のガチャポンが作りたい」

と言うので、ビスコの箱を使った簡単な自動販売機と

ティッシュ箱を使った簡単なガチャポンの作り方のお手本を見せました。

すると、デザインにこだわる★くんは、

空き箱入れから面白い形の箱と発泡スチロールのトレイを見つけてきて、

トレイを出てきたおもちゃを受けるところにしたガチャポンが作りたいと

言いました。

 

 

 ☆くんは、ビスコの箱の自動販売機の仕かけ (↑別の日のレッスン時の写真です)が

気に入って、次から次へとさまざまな形の箱を見つけてきては、

取り出し口とストッパーをはめる穴をくりぬいていました。

★くんが色や形にこだわって念入りにひとつの作品を作り上げる間に、

☆くんが作った同じ仕掛けの作品数10点!個性の違いは面白いですね。

 

↑ こんな細長い箱まで自動販売機に……。

 

 

 散らかったゴミを片付けるために、トイレットペーパーの芯に

裏返したガムテープを巻いて、簡易コロコロを作ったところ、

★くんが飛びついて、掃除をしてくれました。

その後、★くんは、トイレットペーパーの芯にでこぼこのある段ボール紙を巻いて、

「ガタガタ転がるかな?」とたずね、後から、中にビー玉等を入れて、音を出しながら

ガタガタ転がるおもちゃを作っていました。

 

 

自分の作りたいものがはっきりしている●くん。

「戦隊物のベルトが作りたい。右と左のところにボタンがあって、

それを押すと真ん中のライトがピカピカ光るようにしたい」と言いました。

夜店等でもらう小型の光るボールの中身を透明の容器に入れて

光る仕組みを作ったものの、振ると光るのでは少し不服そう……。

それでも、がんばってベルトを仕上げました。

 

●くんのガチャポンは作っているうちに、「宝物を隠す道具」に変わっていました。

 

 

道路をつないでジオラマ作りをしていた☆くん。

「信号機は?先生、信号機がないよ」と引き出しをひっかきまわして探していました。

「見当たらないなら、今日は作ったら?」と言うと、納得。

水を入れたペットボトルに色を塗り、ライトを当てて信号機に。

 

☆くんの工夫で、こんなすてきな設置場所もできていました。

 

 

 


子どもの心の病と社会のひずみ

2014-04-17 20:30:07 | 日々思うこと 雑感
 
『魂にメスはいらない ーユング心理学講義ー(河合隼雄 谷川俊太郎/講談社
 
+α文庫)』は、高校生の頃、学校の図書室で、出会った本です。
 
最近、読み返してみて、気になる箇所があったので、
 
メモ代わりに記事にしておこうと思いました。

河合氏は、この本の中で、心の病いに関してこんなことを言っています。

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たとえば、田舎の家で、お母さんがグレートマザー的で、
 
子どもがお母さんの言うとおりに甘えて大きくなって家を継ぐという場合、
 
それは学校恐怖症にならない。
 
言い換えれば、パターンを繰り返す限り、その子はノイローゼにならないわけ

です。しかしその子どもが自立しようとする、

つまり旧い(ふるい)日本的パターンを打ち破ろうとする動きが無意識的に

動いてきたとき、ノイローゼになるんです。

だから、ぼくらはそういうことを常に考えながら、
 
その子に当たらないといけないわけです。

では日本の社会が変わらないとその子は治らないかというと、

そうじゃないですね。
 
その子はこういう社会の中でいかに生きるかという問題を持っている。

そのときにグレートマザーの軍門にくだれば、症状は治るわけです。
 
しかしそれはちょっと残念ですね。
 
そういう形で治っていくのか、もっと反逆していくのか、あるいは社会を

改善する方向に向かうのか、それはその子に任されているわけです。

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最近、子どものうつ病の話をよく聞きます。
 
成績優秀、スポーツ万能、聞き分けのよい子と言われて将来を期待されて
 
いた子たちが、ある時期から、眠れない、食べたくない、動くのもおっくう、
 
それまでいきいきと活動していたすべてのものからそっぽを向き、
 
学校へ通うこともできなくなっていく……

子どもが心の病にかかると、原因探しをして責め合ったり、学校に責任を
 
転嫁したり、とにかく一刻も早く治そうとあせってしまいますよね。

でも病気というのを河合氏やユング派の心理学者たちの解釈するように、
 
病気とは、個人の病気でもあり、社会のひずみの現われでもあるから、
日本の病でもある
極端な言い方をすれば、患者とは日本を癒すための先駆者たちでもある。

という捉え方をするなら、

心を病む子どもたちへの見方、接し方が変わってくると思うのです。

旧パターンの問題を打ち破って、自分の代で「自立」を成し遂げようとして
 
病んでいる子を、力ずくで旧パターンに押し戻して、
 
病の症状さえ引いてしまえばそれでいいのか?

おそらく、中年になった頃か、老人になった頃、
 
さらに重い症状がぶり返してくるか、子育ての中で旧パターンを繰り返して、
 
子どもに心の病を肩代わりさせる結果となることでしょう。

反逆に向かう場合、元気でいいのですが、現代は薬物もやくざがらみの商売も

甘く可愛らしくデコレーションされて、子どもたちを誘惑しています。
 
精神的な成長のための反逆が、
 
自分自身の人生を壊してしまいかねないのです。

そうした病が、社会を改善する方向に向かうことは、本当に理想ですよね。
 
そのために大人は何ができるのか?
 
親も学校の先生も、子どもの問題にぶつかったときに、
 
自分の良いと思うレールに引き戻すことばかりを考えるのではなくて、
 
そうして子どもにあらわれたひずみの因を、その子の環境や自分の関わり方の
 
中にもしっかり見ていくことではないでしょうか?

本人が変わるのではなく、周囲が自ら旧パターンの問題を改善していけば、
 
子どもはそこに新しく創造される道を、歩みだすでしょうから。

うちの子たちをめぐる教育の現状を見ていても、
 
塾や予備校や各学校が点数ばかり見て競う中で、
 
中高生が人としての成長に必要な時間とエネルギーが、
 
大人の課す義務によって奪われているのです。

大人たちは、自分たちの罪悪感を、子どもへの宿題として「教える」形で、
 
押し付けます。

「ノイローゼになる子も社会から逸脱していく子も、社会を改善する方向に
 
導くカギとなる子でもある」という河合隼雄氏の考え方は、
 
進学校のあり方を見ていると、よくわかるのです。
 
大人が押し付けるものを、素直すぎる姿勢で、「はいはい」と聞いてしまう
 
子らがいて、さらに大人が子どもにそれを求める。
 
学校と塾と家庭教師とスポーツクラブと親の監視のすべてを、
 
自立をあきらめ、自分のアイデンティティーを確立することを手放して、
 
もくもくとこなせてしまう子たちが大勢いる日本。

その中の氷山の一角である心を病む子たち。

その子たちとどう向き合うのか、
 
これから先の大事な大人の宿題なんだろうな……と思っています。

持っている能力をきちんと発揮することができない子 と の関わり 8

2014-04-17 17:17:04 | 子どもの個性と学習タイプ

持っている能力をきちんと発揮することができない子 と の関わり 1

持っている能力をきちんと発揮することができない子 と の関わり 2

持っている能力をきちんと発揮することができない子 と の関わり 3

持っている能力をきちんと発揮することができない子 と の関わり 4

持っている能力をきちんと発揮することができない子 と の関わり 5

持っている能力をきちんと発揮することができない子 と の関わり 6

持っている能力をきちんと発揮することができない子 と の関わり 7

の続きです。

 

注意の調整を育てるために、『よみがえれ思考力』では、

次のような方法(赤文字)が紹介されています。

 

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◆ しっかりした制限と先を予測できる行動の手順に慣れさせること。

「いけない」が何を意味するか教える。しかし罰を与えてはいけない。

 

◆ 行動を共にして子どもにコントロールを与える。

(テレビを消して、ゲームをしたり自主的な課題をする。一緒に趣味の活動をする。

たとえば、一緒にプラモデルを作ったり、料理をしたりする)

 

◆ 中断されることなく子どもが意欲的に課題に取り組むことができるような

十分な時間を与え、注意力の幅を自然に広げる。

 

◆ 指示を与える前に、子どもの目を見て注意を引きつける。

聞いたことが分かっているか確認する。


◆ 子どもが大きくなったとき、規則を決めることに発言権を持たせ、

規則について話し合うとき、自分が選択権を持っていると感じるようにさせる。


      (『よみがえれ思考力』ジェーン・ハーリー著 大修館書店 より引用)

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お習字をさせたら集中力がつくとか、スポーツをさせたら根気がつくなど、ちまたでは

「何をさせるか」にばかりフォーカスした情報があふれています。

しかし、習い事や園や学校でする活動だけで、子どもの注意を調整する力を高めようと

するのは難しいかもしれません。

たとえ、「教える」という意味で、何もしてあげられないように感じても、

家庭だからこそ、できる配慮がたくさんあるからです。

 

「ルールを決めるときに意見を言う機会を持たせる」というのも、その一つ。

 

「指示を与える前に、子どもの目を見て注意を引きつける。聞いたことが分かっているか

 確認する」というのも、そうですね。

 

注意の調整を育てるために、次のようなことも大切だとされています。

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◆ 身体的接触(抱きついたり、身体をゆらしたりすること)は幼児期を過ぎても

子どもには必要なものである。


◆ 必要なときに子どもが抱きついたり、つかまったり、なだめてくれる人が

家の中に居るようにする。


◆ 子どもがいつでも行ける自分だけの場所がある。それが布がかかった

ただのゲーム用のテーブルであったとしてもよい。


◆ 家の中の騒がしさを適度におさえること。子どもたちに具体的な手がかりを

与えるために、ある親は「家の中での声」と「外での声」を使い分けている。


◆ 雑音から身を守る手立てを子どもが持っていないときは、

あなたがその枠組みを与えて経験させる。

上空を通り過ぎる飛行機の音に驚いていた子どもは、そのことに母親が気づくまで、

その音のせいでおそろしく混乱させられていた。

それが何であるかを母親が教えてからは、その子は前よりも集中できるようになった

という例がある。

 

      (『よみがえれ思考力』ジェーン・ハーリー著 大修館書店 より引用)

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ずいぶん前になりますが、教室にオーストラリアで暮らしている小学1年生の女の子が

来てくれたことがありました。

自然の中で素朴に生活しているためか、

何をするにも真剣に集中して取り組む姿が印象的でした。

その子が、しばらく日本で過ごしたあと、オーストラリアの学校に戻ると、

先生から、「急に落ち着きがなくなり、注意散漫になり、先生の話がきちんと

聞けなくなりました。日本で強い刺激をたくさん受け過ぎたのではありませんか?」

という指摘を受けたそうです。

頂いたメールによると、日本で遊園地に出かけたり、地下鉄に乗ったりして、

それまで体験したことがないような光や音などの刺激に囲まれて過ごすうちに、

そわそわと落ち着かない独特の興奮状態が続き、

帰国してからもなかなか鎮まらなかったということでした。

普段の姿に戻るのに、1ヶ月ほどかかったそうです。

 

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◆ 幼児には一つの活動からほかの活動へと矛先を変える手助けが必要である。

進む道をつくってあげる。

(糸巻きをビンの中に入れたら、「夕食だから手を洗いなさい」)

 

◆ 恐ろしくなったり、動転したりする場面をあらかじめ子どもに教えておく。

(ハローウィンのときには「子どもがこわい変な格好で玄関に来るかも知れないよ」

と教えておく)

 

◆ 子どもに何かを教えるときには、実際に活動しながら、言葉を使う。

つまり言葉は注意を集中させる究極の手段なのである。

   (『よみがえれ思考力』ジェーン・ハーリー著 大修館書店 より引用)

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大阪の毒舌なお医者さん

2014-04-17 15:30:47 | 日々思うこと 雑感

まじめな記事ばかり続いていて、疲れた方もいらっしゃるでしょうから、

過去記事からどうでもいいような話題を……。

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このごろ医療の世界も「ていねいな接客」というのが当たり前になってきて、

病院の待合室にも「患者さまへ」なんて「さま」のついたお知らせが

貼られているのを見かけます。


そんな中、「接客下手で無愛想で、おまけに毒舌で、

その代わり腕は良くて、経験豊かで、人間味があって、信頼できるお医者さん」なんて、

漫画の世界にしか存在しなくなってきているのかもしれません。

でも、大阪には、そういう毒舌なお医者さん……まだちらほら健在です。

うちの子たちのかかっていた医院の先生も、息子が3歳くらいのとき、注射を怖がって

大泣きすると、先生がかんしゃくを起こして、

「うるさい!こいつをどっかへ連れて行けー!」とどなったこともある、

普段から口の悪い先生です。

でも、近所の人々からの信頼は厚く、喫茶店のママさんも、「あの先生はまさしく

お医者さんって感じよね。人情味があって、腕が良くて……」なんて言ってました。

何度も、家族の急病を助けてもらったそうです。




少し離れた場所にあるのでうちのかかりつけの医院ではないのですが、

知人や教室の生徒たちがかかっているお医者さんも相当な毒舌で有名です。

持病の治療で長年その医院にかかっている知人は、

長引く持病にうんざりしながら通院しているところを、「おっ、また来たな……」と

冗談半分にからかうような言い方をその先生にされたそうです。

この先生の毒舌と冗談には慣れているのでいつもなら聞き流すところ、

その日は虫の居所が悪かった知人。ちょっとカチッときて、

「好きで病気になってるんじゃありません」と静かに言い返したそうです。

次の通院日にはすっかり機嫌を直して、そんなことを忘れて病院を訪れた知人。

普段、言いたい放題好き放題の毒舌のその先生がきょときょとして眼を合わせようと

せずに、遠慮がちに診療していたのに、とっても驚いたそうです。

「あの先生も、そんな繊細なところがあるのねぇ」と鬼の首をとったような笑みを

浮かべていました。

そんなふうに、毒舌でも、冗談が過ぎても、この医院に近所の人が通う理由は、

診療時間外に子どもやお年寄りに何かあったときには、

血相変えて飛んできてくれるような人間味あふれた診療の姿勢や、

医師としての腕の良さが信頼されているからでもあります。

そんな怖いものなしに見える先生ですが……さすがに、最近の若いママたちには

かなわない様子です。

「なんで、医者にあんなにえらそうに言われなきゃならないの?」

「何なのあれ?」とこちらも相当の毒舌で

公園のママ友同士で噂をしているグループがあるそう……。

もう何年も前になるのですが、私もこの毒舌(?)先生の医院に付き添いで行ったことが

あります。有料ボランティアでときどきお預かりしている2歳の子が、

お預かりしていた日の晩、お家に帰った後に熱が上がり始めて

真夜中に熱性けいれんを起こしたことがあったんです。

昼間は、平熱で、風邪の兆候もないような日の晩に、高熱が出て熱性けいれんを

起こしたことに驚いて、その子と親御さんに私も付き添わせていただいたのです。

診察が終わったところで、私は、

「日中は、ずっと平熱で、咳や鼻水もなかったのですが、

あとから熱が出そうだったり、熱性けいれんを起こしそうだったりするときの

兆候のようなものがありますか?事前に、ちょっとでも気をつけておくことが

あるでしょうか?」と、たずねました。

すると、先生は、鼻で笑いながら、

「そんなもんあらん。こんな小さい子は、熱なんて急にだしよる。

前もって、そんなんわかるか!」

ちょっと叱りつけるように、おっしゃいました。

私は、「そう……ですが、前に熱性けいれんを起こした日の昼間、

確かに熱はなかったのですが、目がうるみがちで、手を握ると少し汗ばんでたんです。

食欲は普段よりあるくらいでしたが、身体が重たそうな感じで、

動きが少しぎこちなかったんです」と、言い訳するように説明しました。

さらに笑われることを覚悟していたのですが、毒舌(?)先生は、

ちょっと驚いた様子でこちらを向いて、急にまじめな優しい表情になって、

「あんたなら、わかるかもしれんな」静かにおっしゃいました。

その口調には、皮肉っぽさや、「主婦のくせに」という馬鹿にしたようなまなざしは

みじんも感じられませんでした。

帰り際に、診察室からは、次に診察に来た中学生くらいの男の子が、

「もっと、大きな声で説明せい!」と叱られている声が響いていましたが、

何となくほのぼのと微笑ましい気持ちになりました。

その数日後、知人の小学校低学年の息子くんが、「○先生(毒舌先生)も、だんだん

博士に近づいてきたなぁ」とつぶやいてていて、おかしかったです。

博士というのは、ポケモンやアトムに出てくる白衣を着た「博士」のキャラクターの

ことらしいです。

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大阪は治安こそ悪いけど、住みやすくて面白い場所です。

私は大阪生まれの大阪育ちとはいえ、子ども時代のほとんどは

大阪の中でも一風変わった地域(自然に囲まれた田舎風の環境+質の高い福祉や

教育を唱える人が多いインテリ風の空気+近所に住んでる人のほとんどが

地方から来た人の寄せ集め)でのほほんと育ったので、

大人になって大阪の都市部に住んでみたら、

なかなかカルチャーショックから抜けられませんでした。

 

大阪といえば、やっぱり人が個性的。

 

先の記事でも個性的なお医者さんの話を書きましたけど、たいていそんな感じです。

そういうわたしもたいがい変わってますから、この地になじんではいるんですけどね。

 

うちの隣の奥さんは、わたしの母より年配の方で、ひとり暮らしをされています。

お友だちが多くて、いつも誰かお友だちが家に来ているか、

家の前に置いている椅子に腰かけて道行く人とおしゃべりしています。

 

わたしが買い物に出るときも、たいてい、「あんた、どこいくの?」とたずねられ、

「買い物に」と答えると、「どの店に?」と問われ、

「○○スーパー」と答えると、「あんた、そんなとこで肉こうてんのか?あかんで。

ちゃんと肉屋でかわな、スーパーの肉なんてたべられへんやないの」と説教されたり、

「おいしいもん買いにいくんやな、ほな行っといで」と

笑顔で送り出されたりしています。

 

そんなわけで、

隣の奥さんは私が通っている低料金の美容室まで把握しているわけですが、

そんなどうでもいい情報を網羅しているってのも疲れないのだろうか……というこちらの

余計な心配をよそに毎日、すがすがしい表情で元気に過ごしていらっしゃいます。

 

先日、わたしにするとめずらしく朝から遠出して、昼過ぎに帰ってきたら、

隣の奥さんが、「あんたーどこいっとったんや?ええもんあったのに。」と残念そうに、

それでいて笑いながら、「友だちにこーんな大きなカステラもろたから、あんたとこに

持ってったんやがな。そしたらおらんから、もう、ほら、あっこのせんたくやのこに

あげてきたやんか」と言うのです。

隣の奥さん、甘い物が苦手なうえ持病が悪くならないよう食事を控えているのだけれど、

友だちが多いものですから、そんなことお構いなしに、「これ食べや」と言って、

勝手に冷蔵庫を開けて、和菓子や洋菓子を突っ込んで帰る人が後を

絶たないそうなのです。そのたびに、そのお菓子は我が家に回ってきて、

うちの子かわたしの胃袋に消えています。

 

ちょっと留守をしている間に、我が家に来る予定だったでっかいカステラが、

別のご近所さんのもとに渡ったという報告を聞いておかしくて、

あとから何度も思い出し笑いをしてしまいました。

最初はカルチャーショックを受けていたこの町も

住んでいるうちに懐かしさを感じるような愛しい場所になりつつあります……。

 

こんなふうに大阪にどっぷりつかって生活しながら、

パソコン上では遠方のさまざまな人々とのつながりが広がっていています。

 

人間関係ってわずらわしいときもあるし、悩みの種にもなるけれど、

人との関わりがあるから、毎日、新しい発展やわくわくする気分ややりがいや

楽しみもたっぷりあるんですね♪