虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

経験で培った知恵は、経験を通過していない人に伝わるか

2019-01-26 08:51:29 | 自閉症スペクトラム・学習が気がかりな子

先日、知人からこんな話をうかがいました。

知人の息子さんが夏休みの自由研究の工作に取り組んでいた時の話です。

初めのうち息子さんは、何を提案されても乗り気でなく、

自分でやろうと思いついてもぐずぐずしていたそうです。

が、はっとひらめいてからは、いきいきと自分の思い浮かぶものを想像しながら

一気に形作っていったそうです。

 

知人が自分の意欲に火がつくまでぐだぐだと過ごさせてあげたからこそ

息子さんはいきいきと取り組み、達成感を味わう結果となったわけです。

とはいえ、その都度している判断はちょっとしたことに左右されるので、

一般化できるものなどなくて、

子どもたちのやりたいこととそれだけでは成り立たない生活のペースの狭間で

 その場その場でどうしたらいいか考えていることに思いいたったという話でした。

 

わたしも、何でも一般化しようとする風潮の中で、そうした経験に基づく判断が

ないがしろにされているのを危惧していたところでした。

 

知人がこんなことを言いました。

「ゆとり教育」の始まりや「ホームスクール」の取り組みも、

最初は試行錯誤しながら勘を養いながら出来上がっていったものが、

そういった経験を通過していない人まで表面的な方法だけ取り入れて

やろうとすると、おかしいことになるし、

実際に取り組んだ経験のない人にまで、わかるように言語化するのは難しいです。

 

 

知人の意見に耳を傾けるうち、ふいに、発達障害という言葉が普及したことで、

今、まさに知人の言う「全く経験のない人が、経験で培ってきた方法の

マニュアルの字面だけをおってそのまま実行する」ことによる弊害が

蔓延しているんじゃないか、と感じました。

 

前回の記事で、発達障害という言葉が普及したことで、

今、まさに知人の言う「全く経験のない人が、経験や勘で培ってきた方法の

マニュアルの字面だけをおってそのまま実行する」ことによる弊害が

蔓延しているんじゃないか、と感じた、という話を書きました。

そのことについて触れる前に、これまでわたしが発達障害という言葉と

どのように付き合ってきたのか、その経緯をお話しようと思います。

 

わたしが発達障害という言葉について意識し始めたのは、教室を始める前に

ファミリーサポートという市の子育て援助の活動に参加していた時に

目が合わなかったり、会話が成り立たなかったり、攻撃的だったり、

常に動き回って危険なことを繰り返したりする子の存在を気にかけていたからです。

 

当時は、突然、思ってもみないようなことをする子

(その子の妹や弟のおむつを替えている一瞬の間に、玄関に突進していって

鍵を開けて外にでようとする子や、

何の前触れもなく、階段のかなり高い段から飛び降りようとする子など)の事故を

防ぎたいという気持ちから、危険度に応じて、預かる側がそうした情報を共有

する必要性を強く感じていました。

 

それと同時に、書いていたらきりがないほど危険なことや破壊的なこと

をし続ける子について、全てを書面に残して親に差し出すことに

躊躇していました。

それは預かる側の義務ではあるものの、

育てにくい子の子育てに困窮している親がちょっと息抜きをしようとしたとたん、

さらに悩みを抱えることにはならないか、

問題を指摘されることで、誰にも頼れない子育てへと引きこもってしまわないか、

親子の関係をさらに悪くすることにつながらないか、といった

迷いの渦に飲み込まれていたのです。

 

十数年前のことなので、親御さんが相談する場もほとんどなく、

あちこち医療機関をはしごしても、「様子を見ましょう」と告げられるのが

関の山でした。

幼稚園や学校で集団活動ができない場合、親御さんは、

周囲から親の育て方の問題として扱われるか、

しつけて何とかしようとするうちにそれが虐待に近いものになっていくか、

子どもの問題から目を背けることだけに力を注ぐか、

わが子は発達障害なのか、発達障害でないのか、と悩むことに

時間を費やしていました。

 

子育てに悩む親への受け皿がほとんどない時期でしたから、

「私自身、どうしたらいいのかさっぱりわからないけれど、

悩みを聞きながら支えていくくらいのことはしよう」という思いで、

発達障害のある子たちと関わるようになりました。

 

その後、知り合った方々から、

子どもの遊びや物作り、算数の学習を見てほしいと頼まれるように

なって、虹色教室という小さな教室を始めるようになりました。

生徒として集まった子たちは、7割くらいがごく一般的な子で、

残りの3割ほどが、発達に気がかりなところのある子たちで、現在もそうした

形で教室を続けています。

 

虹色教室では、何よりもひとりひとりの子の自発的な学びを大切にしてきました。

2時間~2時間半のレッスン時間のうち、最初の1時間半で工作やボードゲーム、

実験などをし、

残りの30分~1時間だけ算数の学習をしています。

 

(教室での学習の一例は、ブログ『ボディーワーカーのギフテッド子育て記』の

 虹色教室と勉強方法 でご紹介いただいています。)

 

教室を通して、十年以上子どもと関わるうちに、

わたしの子供観や発達障害の思いは

最初の頃よりも、

ひとりひとりの子の成長する力を信じる気持ちと個性的な才能に魅了される思い

で占められるようになりました。

 

前置きが長くなってしまいました。話をもとに戻しますね。

 

経験で培った知恵を経験や勘を通過していない人が使う時に

起こる問題ってどんなものでしょう?

 

一番に考えられるのは、経過を観察せずに、期待する結果を求めてしまうことかな、

考えています。また、現実を吟味する前に、先入観が刷り込まれてしまうという

きらいもあります。

 

「こういう問題で悩んだ時は、こうしたらいいよ」という外から与えられた

解決法を試してみて、うまくいかないと、

「これはよくないから別の方法を試してみよう」と次を探し求める気持ちに

向かいがちにもなります。

 

でも、実際にはそれがどんな問題でも、その問題の背後にあるものが

見えてくるくらいまで、じっくりそこで踏ん張ってみないことには、

その子ども自身が見えてこないし、理解もできないのです。

子どものことで気がかりなことがある時、親はその問題を解決して終わりとする

修理屋さんのような立ち位置ではなく、

問題というきっかけを通して、子どもと深く関わっていくようにすると、

子どもを知り自分自身もよりよく知ることになるし、

子どもと大人が相互に変容していくことにもつながります。

 

前の記事で、発達障害という言葉が普及したことで、

「全く経験のない人が、経験や勘で培ってきた方法の

マニュアルの字面だけをおってそのまま実行する」ことによる弊害が

蔓延しているんじゃないか、といったことを書きました。

 

それはどういうことかというと、

子どもとはどういうものかという子ども像を持たない人が、

(まだ子どもという人との付き合いが浅い人が)

発達障害という色眼鏡だけで、子どもの問題に

過剰な干渉をしてしまう、一場面、一場面をより大きな問題として

不安を感じて、子どもをより不安定にさせてしまう

という問題につながるのではないか、と感じているのです。

 

また、周囲の人が、子どものことでうまくいかないことがあるごとに

発達障害かどうかというフィルターを通してそれを眺めるゆえに、

親が不必要に動揺したり傷ついたりして、

反抗期のような子どもにとって大切な体験をきちんと通らせてあげることができない、

ということも起こります。

 

子育てには不快なことやうまくいかないことがつきものです。

うまくいかないことが、即、子ども側に問題があるとか、

親側に問題があるということにつながるわけではありません。

 

子どもの成長にはさまざまな時期があり、性格もさまざまで、

集団の環境やいっしょに過ごす子たちや先生との相性というものもありますから、

どちらにも何の問題もなくても、あれこれあるのが子育てなんです。

 

たとえば、「幼い子が集団の場になじめない」という時、

子どもの状態が「今、その時の姿」で切り取られて、特性の有無をチェックされ、

発達障害かどうかという捉え方だけで処理されることは

危険なことだと感じています。

もちろん、発達障害であるリスクはあるし、

保険の意味で、療育的な関わりをすることが悪いわけではありません。

 

でも、初めから終始、子どもがなじめないことについて、

その子自身の問題として、つまりその子が発達障害なのかどうなのかという

切り口から問題を見るようになると、

集団の場自体が、子どもから学んで成長するあり様が、ゆがむのではないかと

思うんです。

子ども側に問題があるという前提条件が普通になると、

集団を管理する側にとって、それが自らのあり方を考えなくてすむ

逃げともなるし、

子どもという存在から学んでいく集団自身の成長が小さくなります。

 

たとえ、集団の場を発達障害の子たちのニーズに

沿うよう改善して、環境がより良いものになっているように見えても、

問題を子ども側だけに押し付けている

安易な手札を手にしていることに変わりなくて、

もっと根本的な保育なり教育なりの質の向上が難しくなってしまうように

感じています。

なぜなら、問題を発達障害という手札だけで眺める限り、

子どもとはどのようなものか、子どもにとって

良い環境とはどういうものか、を追究する心が

薄くなるからです。