虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

ケンカの仲裁 (トラックの取りあいの後で)

2017-11-29 21:15:27 | 0~2歳児のレッスン ベビーの発達

ひとつしかないものの物の取り合いが起こると

「それなら、作ろうか?」とたずねるのが虹色教室のお約束となっています。

幼い頃から通っている子らは、友だちがおもちゃの取り合いを始めると、

「そんなの作ればいいじゃん!作った方が面白いよ」と仲を取り持つ子らもいます。

 

先日、子鉄くんたちのレッスンで、教室の佐川急便のトラックの取り合い勃発。

 

そこで、友だちのトラックを欲しがってかんしゃくを起こしかけている子に

「そのトラック作る?」とたずねると、すなおにうなずきました。

 

適当にあるもので。

 

アルミ箔の空き箱にプリンターのインクの空き箱を貼り付けたらできあがり。

アルミ箔の箱は刃の部分をはずし、後ろを両開きの扉にしています。

箱の底に輪ゴムを貼り付けているので、ブロックの車に簡単に装着できます。

 

このトラック、見栄えは悪いけれど、とても魅力的な使い道がありました。

 

教室にあるNゲージの新幹線がきれいに収まるのです。

新幹線輸送トラックです。

この日、トラックの取り合いを遠巻きに眺めていた2歳の○くんのお母さんから

こんなコメントをいただきました。

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電車の乗れるトラックのドアがお家で早速つくってみらた大ヒットでした。

虹色教室で、★くんの作っていたトラックなのに、

「せんせいのところでそうちゃんつくったねぇーー」と自分が作ったことに

なっていました。

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物の取り合いのけんかとも

トラック作りとも関係なかった(その場に居ただけ)の○くんですが、

○くんの記憶では自分が作ったこととして、いい思い出になっていたようです。


早期教育の弊害はなぜ起こるのか? 子どもの育ちを見ていて感じること

2017-11-29 21:13:31 | 幼児教育の基本

早期教育の弊害はちらほら耳にするけれど、

いったい何がどのように問題なのかよくわからないという方は

たくさんおられるかもしれません。

ずいぶん前に、徳島大学の佐野勝徳教授が、公文式から依頼されて、

幼児期に難しい計算や漢字を教えるような早期教育を受けた子たちについて

公文と共同研究した話を目にしたことがあります。

子どもたちのその後を追跡調査したところ、結果は、超優秀児たちですら

よくなかったそうです。

弊害が起こる理由は、一つひとつの発達段階を十分経ないままに、

次の段階でできるようになることを身につけてしまうことによるようです

ハイハイを十分する前に歩きだすとよく転倒するし、たくさんおしゃべりする前に

文字を覚えると、話し言葉にしかない自由な発想が育ちにくいという問題に

つながるという話でした。

 

虹色教室で幼い子たちと接していると、一つひとつの発達段階を十分経ないままに、

次の段階に向かわせることがいかに無意味か、

子どもにとって自分の内部にプログラミングされている課題がどれほど大切なものか、

目の当たりにすることが多々あります。

一つひとつが子どもの知能と身体の成長にとっての基礎工事、

土台作りといった重要なもので、いい加減に手を抜いて次に進むわけにはいかないことは、

子どもの無我夢中に取り組む様子とやり終えた時の満足そうな表情から伝わってきます。

 

子どもにより多くの知識をインプットし市販の教材を先へ先へと進ませようとする

早期教育的な関わり方は、子どもが、自分にとってもっとも大切な「今の課題」に

取り組むのを邪魔しがちです。

子どもの内部の要請がないままに、外からできるようにさせることで、

内部の要請が薄らいだり、なくなってしまったりするのをよく見かけます。

そうした要請があっても、親御さんがその重要性に気づかずにスルーしてしまうことも

よくあります。

 

  

↑の写真は3歳になったばかりの子が好む工作の様子です。

うさぎに帽子を作っているのですが、「帽子」という一般的なイメージに基づいて

作るのではなく、サイズと数に敏感なこの時期の子ならではの作り方です。

こうした作り方は、この前段階の、工作というより「ただ切りまくっている」だけ、

「ただ書きなぐっている」だけ、「ただ貼りまくっている」だけという

歩く前のハイハイのような状態を十分経た子が次に夢中になる活動です。

  

紙にえんぴつで切り取る線を入れて、線に沿ってはさみで切り取ってから

耳をくるんでテープで貼ります。

こうした一連の動作で、うさぎの靴も作っていました。

 

この時期の子にとって、 「紙にえんぴつで切り取る線を入れる」という作業は、

ままごとで大人がフライパンの中身をかき混ぜる真似をするのと同様、

大人の作業を模倣しただけで、それ自体に意味があるわけではなく、

線を入れているわりには、うさぎの耳の形と関連がありません。

 

でも、こうした作業は、4歳を過ぎた子たちが、必要に応じた下書きの線を入れる

意味のある活動の土台となります。

 

耳をくるむように帽子を作る作業は、2歳ちょっとの子たちが、

一つひとつがちょうど収まるような場所に、物を置いていこうとする仕事や、

ひとつの人形にひとつの食べ物を配ったり、ふとんをかけたりする作業の流れを

くんでいます。

また一歳の子の1対1対応に気づく活動は、一歳代の時、穴があると繰り返し

何かを突っ込みたがる活動を十分やりきった後で、強く現れるのをよく見ます。

 

わたしが最近あまり話題にのぼることがない早期教育の弊害について記事にしようと

思ったのは、いくつかのきっかけがあります。

そのひとつは、教室の年中のAくんのお母さんから聞いたこんな話です。

 

Aくんはよく、お母さんやお友だち相手に、

「どうして猫は屋根から落ちても大丈夫なんやと思う?」とか

「どうして猫は夜に目が見えるんやと思う?」「どうしてフクロウは……?」とたずねて、

「それはこうなんじゃないか?」「ああなんじゃないか」と持論を展開するのが

好きな子です。普段から身に回りにあるあれやこれやに疑問を抱いて、

「どうしてだろう?」とああでもないこうでもないと考え事をするのを

楽しんでいる姿があります。

 

本などで即席に詰め込んだ知識ではなく、自分の内面の「不思議だな」と思う気持ちを

動機にして、「こうなのかな?」「ああなのかな?」と自分の思考する力を総動員して

考えを練っているので、Aちゃんの「どうして○○なんやと思う?」という問いかけには、

同年代のお友だちの「どうしてだろう?」という思いに火をつける力があるようです。

「こうやからとちがう?」「でもそうやったら怪我するやん」

「そうしたらこうかな?」とめいめいが自分の考えを口にするものの、

 子どもたちの「こうだからじゃないかな?」は、たいてい間違っていますから、

「それなら、もしこうだったらどうなるの?」とつっこみを入れると、また一から、

「それは、こうかな?」「ああかな?」とその理由について考えを練り直すことになります。

 

今のAくんは、これまでの経験と知っていることを素材に

これは不思議だと心に引っかかるものを見つけてみたり、

論理的な意見を組み立ててみたり、想像力を膨らませてみたり、

自己流の仮説を立ててみたり、持論のおかしな点を指摘されてそれを修正してみたり、

必死で誰かを説得してみたり、答えが定まらないままに考え続けたりする楽しみに

どっぷりつかっていたいようです。

 

でも、実際には現在の子どもを取り巻く環境は、子どもがそうして

自分の頭を試運転してみる機会を許す余裕がないのが気にかかります。

 

先日も、ある子ども施設でAくんがお母さん相手に

「これはどうしてかな?こうなのかな?ああなのかな?」と自分で考えることを

楽しんでいると、それを聞きつけたボランティアの方が飛んできて、

「これはこういう理由なのよ。これはこうなのよ」と即座に正しい知識を

教え始めたそうです。こうした子ども向けの施設はもちろん、他の場所でも、

子どもが何か疑問を口にしようものなら、

すぐさま正しい答えを教えてあげなければならないと急く大人が多いことに

Aくんのお母さんは戸惑っておられました。

 

というのも、Aくんのお母さんは、Aくんが自分の頭の中であれこれ考える過程を

心から楽しんでいることをよく理解しているからです。

そしてAくんのお母さん自身、子どもの頃に、自分であれこれ考えをめぐらせた時の

心地いい記憶を持っているからです。

 

この話は、

「子ども向けの施設のボランティアがどのように子どもに接するべきか」といった

上っ面だけの問題に注目してもしょうがないことのように思いました。

社会全体が……学校も園も「子どものため」と整えられる環境も物も……どこか、

先の記事で書いたような早期教育的な色合いがあるのを感じるのです。

早期教育的という言葉に語弊があるとすると、

「子どもが自分自身の頭を使ってみること、自分の心で感じること」を

想定していないというか、

子どもが環境や人とゆっくり会話するのを助けるのではなく、自分の頭を使う前に

知識や技術をインプットしてしまうよう努めるというか……。

 

Aくんのお母さんの話をうかがって、わたしも自分自身が子ども時代に

さまざまなことに思いをめぐらせて、

自分で考える喜びに浸っていたことを思い出しました。

その考える筋道は、たとえ稚拙なものであっても、自分でたどるからこそ意味が

ありました。そんな話を書いたことがあったな……と思って過去記事を探していたら、

こんなものが見つかりました。

この記事で5歳だった☆くんは、もう小学6年生。

国語の読解問題が得意なしっかりさんに成長して

います。将来、科学者になる夢を抱いているそうです。

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もうすぐ5歳になる☆くんが、積み木を組み立てながら、

「宇宙ってどうやってできたの?」とたずねてきました。

ちょうど☆くんのお母さんから、レッスンに通って来る途中で、☆くんが、

「太陽って宇宙でできたんだよね~?地球は宇宙にあるから…(なんとかかんとか)」と

自問自答していたというお話を聞いていた日でした。

☆くんと私のお付き合いは3年目で、

☆くんがバナナを「なまま~」、卵を「ままご~」と呼んでいたころから知っています。

だから☆くんの疑問が、

宇宙の法則性を知識として知りたい外向的な思考から発せられたものでなく、

宇宙の中の自分の位置をつかもうとしたり、存在の意味を問うような…

哲学寄りの内向的な思考から生じていることがよくわかりました。

それで、すぐに答を教えるのでなく、そうした疑問を抱く☆くんの成長を

大切に見守っていく…という対応をしています。

こうした子に良い対応は、科学館に連れて行ってあげ、

本人の想像力が自由に膨らむままにしてあげたり、☆くんの話をよく聞きながら、

疑問を言葉にして詳しく表現できるように支援したり、

☆くんの興味を刺激するささやかな体験を増やしてあげることだと思います。

読書の習慣がつくように、環境を整えてあげるのも大事でしょう。

性急に大人が動くと、心を傷つけてしまう場合があります。

☆くんは、ゆっくり自分の考えを温めたいのです。

こうした疑問を抱く子は、外の環境への興味が薄い子が多く、生活習慣を覚えたり、

幼稚園に適応したりすることが難しい子もよくいます。

そうした時に、適応させることに力を入れすぎたり、

本人の中から生まれる疑問を無視した教育を押し付けると、

良いところが見えなくなったり、消えてしまったりするようです。

うちの息子も、この内向的思考の中にどっぷりつかっていたいタイプだったので、

幼い頃は他の子より遅れている面は大いに目をつむってきました。

信じてあげること。静かなその子の自由になる時間をたっぷり用意してあげること。

他の子と比べないこと…

が、自分の中から生じる疑問を追及していくこのタイプの子の成長に

欠かせないことだと思います。

 

「宇宙はどうやって生まれたの?」とたずねる☆くんに、

どう答えたらいいのか…もう少し補足しますね。こうした質問をする子は、

環境に敏感で知的好奇心が強い外向的な思考をする子と

自分の主観を通して世界を深く理解しようとする内向的な思考をする子の

2タイプがあると思います。

知識欲が旺盛な前者の子には、図鑑などを見ながら正確な知識を伝えてあげたり

さらに学習として発展する手助けをしてあげると良いと思います。

しかし、後者の内向的思考を好む子に、周囲が前者の子と同じ対応をすると、

心を傷つけてしまう場合があります。こうしたタイプの子は、知識が得たいのではなくて、

自分で考えたいのであって、考える行為そのものを愛しています。

たとえ行き着いた答が、客観的事実と異なるものでも、

自分で納得する答を求めているのです。

私も子ども時代、内向的な思考にどっぷりつかっているのが好きだったので、

どういう答がこうしたタイプの子を納得させるのかよくわかります。

私は幼稚園くらいのころ、「太陽はいったい誰のものなのだろう?」という疑問を

持ちました。それで毎日長い時間をかけてそれを考え続け、

さまざまなものを観察したあげく行き着いた結論は、

「太陽は私のものだ」という答えでした。

これはそのまま当時のつたない表現力で大人に伝えれば、笑われるか、

「誰のものでもありません」と事実を突きつけられるかのどちらかです。

しかし、私の「太陽は私のものだ」という考えには、

当時の私の思考や環境の全てが折りたたまれて含まれており、

今思い出しても面白いものがあるのです。

なぜ、私がそうした結論にいたったか…というと、

私はこの「太陽はいったいだれのものか?」を考えている時に、

この世界の自分以外のだれひとりとして、

今の私と同じ「時」と「場」を共有することはできないという事実を悟ったのです。

だから、地球上のあるスペースを占めている何時何分何秒という「時」の上に立つ自分が

その目を通して「見えている世界」というのは、私のものではないだろうか…?

と考えていたわけです。そういう考えにいたるまで、自分が見る世界は、

自分が目を閉じていても同じだとだれが証明するのだろう?

私が死んでも、世界は同じなのだろうか…?

というどこまでもどこまでも続く考えごとが連なっていたのです。

ですから、もし、当時の私に向かって、

「太陽なんて誰のものでもありません。なんてバカなことを考えるの?」と笑ったり、

事実を教えようと躍起になる人がいたとしたら、私は自分のカラに閉じこもるか、

自分を否定して考えるのをやめてしまったことでしょう。

うちの息子も、小学生の時に、「宇宙はアメーバーのようなものかな?」

という問いかけをしてきたことがあります。

宇宙を自己増殖するものとしてイメージしていた息子の考えは、

今さらに発展して深いものとなっているように感じます。

こうした内向的な思考を好む子は、実生活の面で幼く見えるので、

その言葉や考えが、大人によって簡単に決め付けられたり笑い話にされているのを

よく見かけます。

子どもの個性や性格のタイプについて理解のある親御さんや先生が増えることを

願っています。