虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

感情が優れている子 と お勉強

2016-04-27 18:54:22 | 子どもの個性と学習タイプ
 

 

今日のレッスンにはユースホステルでの8月のレッスンに参加してくれていた

年長さんと小学2年生の女の子の

弟くんが参加してくれていたので、それぞれの親御さんから

とてもうれしい事後報告をいただきました。

年長さんのお姉ちゃんは神経過敏で不安が強い子で、

ほぼ全員が楽しく活動していた工作のワークショップでもひとりだけ活動していなかったり、

お勉強っぽい活動は強く拒絶するところがあって、

育てやすい弟くんに比べて非常に手がかかるという点でお母さんから相談を受けていました。

それがユースホステルでのレッスンで、1つ年上のしっかりした女の子たちに親しくしてもらって、

ゲームをしたり、工作したり、お勉強したりして過ごした後で、

お母さんが驚くほど意欲的になって、「私もお姉ちゃんたちみたいにお勉強できるのよ。もっと練習したら。

だから1年生の算数の問題集を買って!(トップクラス問題集です)」と頼んだり、

自分から進んでどんどん工作をするようになったそうなのです。

私は、ユースホステルから帰る電車でこの女の子といっしょだったのですが、

そういえば、いつもはちょっと口をとがらせてネガティブな言葉をつぶやくことが多い子だったのに、

目をキラキラさせて自分への自信がみなぎっている様子に驚いたのを思い出しました。

もうひとつうれしい報告は小学2年生の女の子です。この子は女の子の算数クラブのメンバーのひとりで、

頭の回転が速く、手先も器用でしっかりした子なのですが、何をするのもおっくうそうに取り組むところを気にかけていました。

特に「勉強は大嫌い」と断言して、たいてい解けるのに、ぐずぐずと取り組みがちでした。

それが今回のユースホステルのレッスンで、小学4,5年生の子らと

中学入試の問題にチャレンジしたことをきっかけに、「勉強面白い!あそこで解いた問題集買って!」と

お母さんにねだり、高いモチベーションで学ぶようになったそうなのです。

それだけでなく、これまで苦手に感じていたお友だちについて別の視点から見直して

とても好きになったようなのです。

 

最初の★ちゃんは、おそらく内向的感覚型の子なのですが、

後で紹介した年長さんも小学2年生の女の子もどちらも内向的感情型と思われる子たちです。

実は、ユースホステルのレッスンの後で、友だちや年上の子らの影響で

勉強に強い興味を示すようになったという報告を受けている子のほとんどが

感情が優れていると思われる子らなのです。

感情が優れている子たちは

どのような体験を経て、勉強に興味を抱くようになるのか、そこにヒントが隠れているように

感じています。

先日、外向的感情型感覚寄りと思われる5年生の●ちゃんのお母さんと

内向的感情型直観寄りと思われる○ちゃんのお母さんとゆっくりお話する機会がありました。

●ちゃんは小学校に就学する前から虹色教室に通ってくれている女の子です。

言語能力が高く、素直で物覚えが良い子ですが、

じっくり考えたり、工夫したり、推理したりすることは苦手で

レッスン開始時は、強い算数嫌いに陥っていました。

 

●ちゃんが幼い頃、言葉の発達が早くて人と関わりながら学ぶことが大好きな●ちゃんに、

親御さんだけでなくおじいちゃんおばあちゃんまであれもこれもと教えようとしていました。

が、言葉も英語もすんなり覚える●ちゃんが、数に関することだけはなかなか習得しませんでした。

それで、つい本人を委縮させるほど、足し算やお金の読み方について問うことを繰り返してしまったのです。

 

虹色教室に通うようになって、●ちゃんの算数嫌いは徐々に解消していきましたが、

教えられたことを理解したり、記憶したりするのは得意だけれど、

自分で直観的に気付いたり、自分で考えたり、自分で推測したり工夫したりすることは

苦手な様子でした。

 

●ちゃんは与えられた課題をきちんとこなすまじめな子ですから

公立小学校の勉強につまずくことはないのですが、

小学校中学年頃から「私立中学を受験したい」と本人が希望し、おまけに志望校が女の子の行く学校としては

トップクラスの偏差値の学校だったため、

もう少し自分で思考を深めていく力が必要だと思われました。

 

そのため、ただ「できるようにさせる」のではなくて、どんな問題にも応用していけるような

課題の本質的な部分だけを教えて自分で答えを導きだすようにする時間を設けるようにしてきました。

 

解き方の公式を教えてもらって、短時間ですぐにできるようになりたい●ちゃんは

1年近く、考えようともせずに「わからない、わからない、教えて!」と言っては、それに抵抗していました。

しかし、ゆっくりですが確かな実力がついてきて、考えることを持続することができるように

なってきました。

 

高学年になった●ちゃんは、中学入試のために塾に通い始めました。(虹色教室は週1回、1時間ほど学習するだけですから)

すると、いきなりその塾で算数では誰にも負けないという好成績だったため、

友だちにも先生にも認められ、「私は算数が得意!」「算数が大好き!」と言うようになり、

意欲的に勉強に励むようになりました。

今、虹色教室には国語の入試問題を学ぶために通っているのですが、

いっしょに通っている○ちゃんがつまづいた算数の入試問題だけ、

●ちゃんもいっしょに考える時間を設けています。(○ちゃんも中学入試を考えている子です)


見えないものが見えるように 触れられるように  続きの続き

2016-04-27 07:27:26 | 日々思うこと 雑感

(ひと押しで、一番下の段まで宝が落ちる仕掛け作りに知恵を絞る)

 

わたしの話を聞いて、しばらく考え込んでいた息子は、こんな言葉を返しました。

 

息子 「もっともっと上を目指して、知識を増やして、技能をマスターして……

という形で、『単純なものから複雑なものへ』と進歩していくイメージばかり

重要視されがちだよね。

子ども向けにパッケージ化された体験はどれも、単純なものをひたすら

足し合わせていって、より複雑なものを構成していく価値観でできているようにみえる。

 

でも、実際には、それとは逆方向に

『複雑なものが単純なものに書き換えられていく』ってプロセスも、

大事なんじゃないかな。

難しいものを簡単な言葉で言いかえることや情報のダイエットをするって

意味じゃないよ。

 

ほら、ブレークスルーが起こると、

それまで苦労して大量の情報を使っても上手くいかなかったことが、

シンプルな新しいやり方であっさり片付くようになるよね。

それまでの膨大な情報を必要としていたことが、

一瞬にして少ない情報で行われるようになるってこと。

 

そんな風に複雑なものが単純化されることって、

ひとりひとりの頭の中では、よく起こることだと思うよ。

単純なものを複雑化していくのなら、努力次第で、

誰がやっても同じプロセスを踏んで行くよね。

でも、複雑なものを単純化する時には、何に着目して、それをどう捉えたか、

どう認識したか、どう意味づけたかが関わってくるから、

人それぞれ違ってくるはず。

複雑なものをどう単純化するかは、ただ知っているのか、

理解しているのかを分けるポイントにもなると思うよ」

 

わたし 「複雑なものの単純化……。今まであまり考えたことがなかったけれど、

確かに教室の子どもたちにしても、無秩序なものから秩序を見つけ出したり、

ただ『できる』だったものを、応用のきく『わかる』の形にコンパクトに

書き換える時があるわ。

自分で意味を作りだす力を使って。

複雑なものを単純化するプロセスでは、それぞれの子の

資質や個性がはっきり出やすい気がするわ」

 

息子 「同じものを見ていても、それをどう解釈するかは人それぞれだから。」

 

わたし 「そういえば、遊びにしろ、工作にしろ、算数にしろ、ひとりひとりの子が

強く意味を感じる部分の違いは見ていて面白い。

今ある環境ですぐに評価されるものもあれば、最終的にはその子の一番大事な

力となるはずなのに、今は無駄に見えるか、良い成果を出すのを

邪魔しているものもある。

お母さんがそういう力を活かしてあげられることもあるし、

この子はこういう能力があるんだな、と心にとどめておくしかできないこともあるわ。

★(息子)は、幼稚園時代から、サイコロやチップやトランプを

さんざん散らかした後で、その並べ方や出し方の中に潜在している

秩序に気づいたり、不思議を感じる点を見つけ出したりするのが得意だったわよね。

教室にも、着眼点や秩序の見いだし方は違うけれど、

そうしたランダムに見えるものから

応用のきくシンプルな気づきを得る子らはたくさんいるわ。

遊びの世界で、子どもがそうやって自分らしい資質を使うのを見るのはうれしい瞬間よ。

考えてみたら、子ども時代、お母さんが

複雑なものを単純化する対象は、いつも目に見えているものの

目には見えない部分だったわ。

★のように見えないルールというものではないんだけど。

お母さんにも、子どもの頃のお母さん独特の『複雑なものを単純化』する

感性のようなものがあった、あった。

団地のぐるりにピラカンサっていうオレンジ色の小さな実を大量につける

木が植えられていたのをしょっちゅう眺めていたのよ。

どんな葉の形でいつごろ実がなるか、なんて、植物図鑑的な興味は

微塵も持たないまま何年も過ぎたのに、飽きもせずに眺めていたのは、こんなことを

考えていたからなのよね。

このオレンジ色の実のひとつひとつが顔で、それに一つひとつ心が宿っていたとしても、

お互いに同じ根っこでつながっているなんて気づかないはず。

知らないからけんかして、相手が枯れてしまったら、

結局自分も枯れてしまうなんてことはあるのかな……といったこと。

ピラカンサを見ながら、人間の場合、地球上を移動はしているけれど、移動しながらも

地球の一部としてひっついているってことはあるのかな、とか、

星の光は長い時間をかけて地球に届いて、

ずっと昔の姿を今目の前で見ることができると

聞いたけど、心は、光と同じような性質かな、とか考えていたわ。

団地の壁に貼りついている蛾を眺める時も、蛾の模様が偶然の産物には見えなくて、

進化の過程にどうやって、意味を持った画像が取り込まれていくのか、

誰のどんな目に映ったものが、

何世代もかけて美しい模様を作っていくんだろう、とかね。

受験に役立ったわけじゃないけど、それを思い出すと、自由でのびのびした幸せな

心地になるから、教室で接する子たちには、そういうその子ならではの

頭や心の使い方の自由を守ってあげたいと思う。」

 

わたし 「お母さんは今やっている仕事が好きだし、自分にあっていると思う。

それに、小さい教室で自由がきくからこそできることがあるって感じてる。

算数や工作を教える時には、経験からくる慣れや自信を持ってもいるわ。

 でもね……。

 

このところ時間がなくて休みがちだけど……

教室でやったことや気づいたことをブログに記録しているでしょ。

飽き性でコツコツ続けるのが苦手だから、持続しているってものが見える形で残る

だけで満足というのもある。

それに何より、ブログをコミュニュケーションツールにして、

アイデアを伝えたり、いっしょに疑問を共有したり、意見を交換したりできるしね。

 

……そんな風に、いいことばっかり並べながら、なんかぐちぐちと言いたいような

煮え切らない気分になっちゃうのは、読む側にすれば、お母さんのブログ自体、

今日話していたような情報が増えすぎて、

全体像が見えないものになってるだろうなってことなのよ。

だからといって、教室での活動を、『こういうことをしています』と一目でわかる

形にまとめてアピールするとなると、

活動のひとつひとつが個別のニーズに応えている面が大きいから難しいの。

 

ただ、このまま放っておくわけにいかないって焦ってもいるのは、

パッケージ化された体験がどんどんあたり前になりつつある、という事情もあるの。

お母さんの教室も、

『活動とそれをしたらどんないい結果を得られるか、先々どう役立つか』という視点で、

どんなパッケージを提供してくれるんですか、と暗にたずねられているように

感じることが増えてる。

それに対して、相手が満足するような答えを返すことはできるし、

たいてい、相手に満足する結果を手にしてもらうこともできはする。

教えることは得意だし、工夫しながら微調節を繰り返してきた仕事でもあるから。

 それが、さっき、いい面も悪い面も、外にあるものとしても、

教室内の課題としてもパッケージ化された体験を意識しながら仕事をした、と言った理由。

 

最近は、赤ちゃんからスタートするプリント学習の教室とか、

3年保育といわずもっと幼い時期からの集団保育も珍しくないから、

家庭での体験の先に集団生活があるんじゃなくて、

集団生活のために家庭が待機場所としてあるように見える子もめずらしくないの。

だから、お母さんは、教室といったって、家庭や近所の大人や友だちとの関わりや

会話や活動に近いものを目指したいのよ。

 

でも、それは自分のしていることの質を考えないことではないの。

外から見ると、行き当たりばったりで、漠然と時間を過ごしているように見える時も、

その状況で追える最善を考えてはいるから。

 ある面、質を高めるほど、気づくことが増えるほど、

自分が扱えるものの種類が増えるほど、

こういうことをしています、とひとことで表しにくいところがある。

その一方で、細かいことに配慮するほど、相手が気づきにくいものを

提供しているわけで、わかりやすい説明が必要になってくるのにね」

 

 わたしの自分でも整理のついていない愚痴もどきを聞いた息子は、

「あーお母さんが教室でしているのは、何かのメソッドって感じじゃないからなぁ」

と言って笑いました。

 

息子 「ほら、何かをマスターさせるための教授法じゃないよね。

それに、朝食を食べると授業に集中できる、とか、自然と触れ合うべき、

外遊びは頭にいい、とかいった正しいと思う考えを実践していくのともちがうよ。

 じゃあ、何をしているのかというと、相手に見えなかったものを見えるようにしたり、

感じられるようにしたり、触れられるようにすることじゃないかな。

 

算数の表とか、まわりの長さとか、旅人算は何を計算しているのか、とか

マス目の入った数字の羅列やプリントに印刷された線や公式という名前の

暗記物にしか見えなかったものを、

日常の感覚で直観的に把握できる形に変えることとか。

工作にしても、おもちゃとか身の回りにあるものの内部の動きを

可視化させて、子どもが自分の考えを目で追えるようにすることが

目的になっているしさ。

お母さんたちの相談に乗るとしても、

カウンセリング的な役割を果たしているのではなくて、

子どもについて見えなかった面が見えるように手助けしているんだと思うよ。

子どもを知るためのパラメーターの種類がやたら少ない人がいるから」

 

わたし 「パラメーターの種類が少ないってどういう意味?」

 

息子 「能力値を体力10、集中力8 みたいに表したらって例えだけど、

○○ができる能力とか、スポーツ教室の級みたいに、すごく少ないカテゴリーでしか

自分の子どもを把握していない人がいるってことだよ」

 

わたし 「ああ、わかったわ。

それと、★の話を聞いて、自分が教室でしていることをひとことで表すと、

確かに、見えないものが見えるように、触れられるように……ってことだなということも。

でも、それを自分のしていることとして、ひとこととして説明するのは無理そうだけどね」