虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

モールで作る危険のない針

2016-03-02 20:01:13 | 幼児教育の基本

 

モールを使って、簡単な針の作り方を考えました。

 

適当な長さに切ったモールに毛糸をかけます。

 

モールを折り重ねて、しっかりねじて針を作ります。

 

フエルト等にあらかじめ目打ちで穴を開けておくか、

上の写真のような100円ショップで売っている絨毯の滑り止めようの布を用意すると、

幼児にも危険のない形で裁縫体験をさせることができます。

ポシェットなどを作るのがお勧めです。

 

また、モールで作る針で、こんな作品も作れます。

モールがない時は、楊枝にセロテープで紐を貼り付けて

危なくない針を作るのもいいです。尖っている部分が危ない場合、

綿棒にテープでひもを貼るのもOKです。

ゼリーの容器に穴を開けると、かわいいカゴや人形用の帽子ができます。

 

紙コップで作ると穴をあけるのが簡単です。


子どもには子どもだけが持っている直観的な理解の仕方がある

2016-03-02 09:31:22 | 連絡事項

いつも読ませていただいているe-子育て.comのスタッフブログの

ちょっと複雑な文章題、4年生の場合という記事で、

「大人と子どもの感覚のずれ」を理解しないまま教える弊害が指摘されていました。

 

羊先生の

「子どもの算数の理解が止まってしまう原因と根っこが近い気がします」という

結びの言葉がとても腑に落ちるとともに、


ちょうど夕べ息子と話していた内容と重なっていたことを思いだしました。

(羊先生の記事おかげで、捨てかけていた会話のメモをゴミ箱から救い出して

この文章を書いています)

 

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昨夜、わたしは朝のレッスンのことを思い返しながら、

「おかしなことなんだけど、

お母さんが実感している言葉が出始める時期の子を飛躍的に伸ばすコツって、

その子のお父さんやお母さんに、

子どもの前でほんの数分黙っていてもらう練習をすることなのよ」と言いました。

 

母 「数分といわず、数秒でもいいわけだけど、子どもが幼いほどそれが難しいようでね、

お家でも子どもをまったく視界に入れずに用事をしているか、

子どもを絶え間なく構って言葉をかけてしまうか、どちらかになってしまうようよ。

幼いうちはインプットの時期だから、言葉をシャワーのようにたくさんかけるといいって

ステレオタイプに信じ込んでいる人がたくさんいるけど、

現実には子どもがしゃべる間のようなものがなくなってしまうし、自分の頭で考えたり、

自分の意志を使うのを絶え間なく邪魔されているようにしか見えないことが多いのよ。

まだ言葉が自由に話せない子たちとの距離感って難しいのよ。

ある面、子どもと自分の区別が全くないかのように 間主観的にわかるって

言葉で表わされるような関係のなかで子どもは成長していくものなのよ。

 

でも、それと似ているのに子どもの意志や感情から離れたところで

大人の目線上で子どもと一体化するような状態があってね、

むしろ乳幼児の子育てであたり前になっているようなところがあるのよね……

そうした関係の上で言葉が大量の注がれているようなところがあるの。

 

でも、1、2分だけ、何もしゃべらずに子どもを眺めるのって、簡単なようで

かなり難しいみたいでね、

そうしてちょっとの間、黙っていて、子どもが何を見ていて、何に興味を抱いているのか、

どんな時に嫌な表情をして、どんな時に顔が輝いているのか気づいてもらうように

お願いしていても、

たいていの親御さんが、不安でたまらなくなって教えたり指示したりしてしまうのよ。

 

そりゃ、何か『する』のは、大事なことに思えるけど、

何かを『しない』のは、わざわざする価値があるように思えない……と

いうのもあるんでしょうね」

 

息子 「言葉が多すぎて問題が起こることってよくあるよね。

ぼくは、毎日一定の時間は、原始的な言葉のない状態で過ごすのっているなって

思ってんだけど……

自分の心のなかの言葉もないような状態!

言葉使えば使うほど、言葉という装飾品のせいで、

現実が見えなくなっていることがよくあるからね。

そうして言葉なしに、色や形や状況を見ていると、人間って外から学ぶだけでなく

自分の内から学ぶことができる存在なんだってわかってくるよ。

そうしたことを一番強く感じるのは、ピアノを弾いている時とか絵を描いている時とか、

本を読だり映画を見たりしている時でさ。

 

たとえば、絵を練習する時に、いろんな資料があるけど、一番すばらしい資料は

自分の右手と左手を見て、感じた通りに描くことだったりするんだ。

自分で感じとることが、一番の先生ってわけ。

映画を見てて腹が立ったら、どうして自分は怒ったんだろうって自分の感情の変化を

分析していくことで学べることは多いよ。

素直に世界を観察して、自分の内側で気づいたことを正確に受け取るには、一度、

勝手に漏れ出す言葉を外にも内にもなにもない状態にしてみるといいのかもしれないね。

お母さんが、

親に子どもの前でちょっとの間、言葉を発しないでいることを学んでもらうだけで、

不思議なくらい子どもの成長がよくなるって思っているのは、

そういうことと関係があるのかも。

言葉が多すぎる問題ってさ、最近、ネットで小学生の算数の教え方が話題になってるのを

読んでいろいろ考えていたところだったんだ」

 

母 「小学生の算数の教え方って?」

 

息子 「かけ算の文章題を教える時に、『かける数』『かけられる数』って

言葉を使って教えるよね。

それが、わかりにくいんじゃないかって議論をネットでやっててさ。

 

それを見てて、言葉を多用し過ぎる弊害というか、確実性を高めようとして

言語化できない概念まで言葉で表現しようとすることで、

子どもの学習能力を落としているよなぁと思ってさ。

言語はある意味、記号に過ぎないんだから、

言語化できない直観で捉えるようなものまで言語化しようとすれば、

自然に発展するものを、小さな枠に押し込めてしまうことにも起こるんだなって

感じたんだ」

 

母 「言語化できない直観で捉えるもの……?」

 

息子 「そう、さっきの『かける数』『かけられる数』にしても、

もし子どもの目の前に皿やかごに同じ数ずついちごを入れたものを見せたとするよね。

子どもはそれを目にするだけで、

直観的に『かける数』にあたるものと、『かけられる数』にあたるものの違いを

感じとって、自分に求められていることを直観的に理解することができるはずだよ。

それを『かける数』『かけられる数』という言葉に言いなおして、

伝え間違いが起こらないように確実性を高める時、

実際には、子どもが自分で目で見て感じとっているものと、

その言葉をつなげることができないまま、そこが切断された状態で

学習が進みがちなんじゃないかな。

 

子どもには子どもだけが持っている直観的な理解の仕方があるように思うよ。

それは学習の根っこの部分とつながってる。

大人の考え方の多くは、より確実にしようとするあまり、

言語化した時点で、大きな樹の葉っぱの部分になってしまう。

そうして葉っぱの部分を繰り返し教えて定着させることが教育だと思われているけれど、

やっぱり何度も根っこに立ちかえることだって必要なんじゃないかな?」