虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

創造的で生産的な何かを生み出す会話って? 1

2011-02-11 23:39:20 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)
まささん
にクレパス絵画展の紹介をしていただきました。

受験前で自宅にいる息子は、勉強に疲れてくると家族とちょっとした議論をして気分転換を図っています。
といっても娘は何かと忙しいし、ダンナは一方的に自分の意見を押し付けるばかりで議論は苦手。
それで、たいてい私と息子が延々と語り合うことになります。

普段の生活で、私の心に引っかかっていることと、息子の心に引っかかっていることというのは、全く異分野の内容です。
でもそれなのに、
同じひとつのキーワードが、どちらの問題の解決とも大きく関わっていることがよくあって、同時に「そうか!」とひらめくことがあって面白いです。

さまざまな現代の問題というのはつながっているものなんでしょうね。

昨晩、息子がはじめに話していたのは、ネット上の本のレビューについての
不満でした。

「反対意見や批評って、よく聞いてみると一理あるものもあるし、
大事だとは思うんだよ。そうした意見を全て無視してしまう態度はぼくも嫌なんだ。
でもね、ほとんどのアンチ派の人たちの問題は、
きちんと本を読まずに反対意見を言ってるってところなんだ。
ちゃんと読まないとその本の持っている本当の意味での悪い部分って見えないものだよね。どんなすばらしい本にも、長所と短所を兼ね備えているものだから、攻撃しようと思ったら急所を攻めればいいわけだけど、文句をつけているのが、背が低いとか、顔が悪いとか、まともに読んでいないことが露呈するものばかりなんだ。
もっとも、いいいい言ってる人も、ちゃんと読んでいる感じがしないんだけどさ。」

息子はこうした本のレビュー以外でも、ネット上での討論に不満があるらしくちょっと考え込んでいました。

「ネット上の会話がもう少し創造的で生産的な会話になるには、
どういう形がいいのか、いつも考えているんだけどね。
匿名の掲示板でも難しいけど、実名でそういう場を作ったところでやっぱり難しいな。
みんなそれぞれ考える力が高い人もいるし、良い考えも出ているのに、
会話が生産的な何かに結びついていかないんだよ。

たとえば最初にアウトプットした人の意見がきっかけで、いろんな意見が引き出されてきたとするよね。
最初の意見は未完成なものだったとしても、
まずアウトプットしてみようという試みといろんな意見の引き金になったことで意味があるのに、
そこで、最初の意見のおかしいところに突っ込む人があらわれたりして、
他の人も意見が出しずらくなってきて停滞していくなんてことがしょっちゅう起こるんだ。
小説家のレビューみたいなものでも、真剣に話しあったら得るものがたくさんあるし、創造的で生産的な何かが生まれてくるはずなんだけどな」

「そうした会話が表面的なものに終始していくのを解決するには、やはり哲学が必要なんじゃないかしら? 哲学のような根本的なものを問う視線がないと、いつもおしゃべりを垂れ流すだけで終わってしまうわよね」

と言うと、ネット上の討論する場のシステムのあり方の方が気になっていたらしい息子は、ちょっと笑ってから次のように答えました。

「そうだよね。議論を俯瞰するメタな視線が必要だ。
ただ難しいのは、ルール違反者を批判してコントロールするなると、そうする側もルール違反者と同じような性質を帯びるってことだよ。
あくまでも謙虚なひとりの参加者として、それぞれの人の意見や人権を大事にしながら、会話が創造的な流れを作っていくようにするにはどうすればいいのか、そこが問題なんだ。」

次回に続きます。


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子育てって、より偏差値の高い学校に子どもを進ませるための競技なの? 4

2011-02-11 19:27:03 | 教育論 読者の方からのQ&A
「子どもたちの学力が低下しているのだから、
内発的動機を育てるとか、自発性や創造性を育てるなんて理想論を言っていないで、まず基礎の徹底反復をせよ。
知識を詰め込め。競争させろ。甘やかさずに叱りつけて勉強させろ」
受験肯定派は熱く激を飛ばします。

確かに学力低下には手を打たなきゃならないのはわかるけど、
どうもこの手の意見を聞くと、もやもやっと納得できない気持ちになるのです。
そのどこに納得できないのかうまく言葉にならなかったのだけど、
『プロフェッショナルたちの脳活用法』
(茂木健一郎 NHK「プロフェッショナル」制作班 NHK出版生活人新書)
を読んでいて、もやもやの原因に気づかせてくれる言葉にぶつかりました。

ロボット技術者の小柳栄治氏の次のような言葉です。

「現在、世界中で数多くのロボットコンテストが開催されていますが、子どもたちが発達段階や能力に応じて、゛ちょっと背伸びさせる゛要素がコンテストにはたくさんあるんです。
自分自身も、コンテストに育てられたロボット技術屋だという側面がありますね」

私のもやもやの元とは、小学校って、基礎の徹底の大合唱をすればするほど、
学習面でも、勉強以外の場でも、
知的な面で゛ちょっと背伸びさせる゛要素が、少しもなくなっていくという点なのです。

子どもは、音読とか計算とか、教えられた基礎を繰り返しさえいればいいんだから……と、難しい問題考えるとか、効率的に解くとか、独創的な創造力を使って考えるといったことは、公立小学校ではタブーになっているのです。

虹色教室には小学1年生で、
はじめて見る高学年向けの割合や図形の問題を、
たちまち理解して解いていくような高い数学的センスを持っている子がいますが、そういう子に限って、
「もう知っててできるから、何度もやりたくない」と
基礎計算の反復学習を嫌がるのです。
もちろん、基礎計算はきちんとできているのです。

でも、学校の学習が「できるようになる」ことを目指すのではなく、
単に「子どもには基礎の徹底反復が必要という考えが今流行しているから」という理由で、家で家族と会話する時間もなくなるほど
同じことを繰り返させるので、能力は高いのに
すっかり勉強嫌いになりつつあるのです。

そうしたときに、

「難しい学習をさせるから、ひねくれて、基礎訓練をしようとしなくなった」
という学校中心の考え方でそうした子を裁くのと、

「知的な面でちょっと背伸びがしたい子もいる。そうした子の知的なチャレンジ精神を大事にしてあげつつ、基礎の大切さをきちんと教えていこう」
と捉えて、
そうした子が強く持っている知的好奇心を、他の子たちにも広げていくのとではずいぶん結果が違ってくるように思うのです。


教科学習はで、そうした差をつけるわけにはいかないのなら、
理科工作や算数パズルといった遊びの中ででも、
自分の知力の限界にチャレンジする爽快さを味合わせるのも大事なのではないでしょうか?


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知人の職場の新入社員が、「先輩、この漢字なんて読むんですか?」とたずねてきたので、「あそこに辞書があるわよ」と言ったところ、
同期の子に、「先輩がいじわるして教えてくれない~」とこぼしていたそうです。
家庭や学校が職場の困ったちゃんを育てていないか、反省……ですね……。

勉強しない高校生の姿を見ると、「小学生から基礎を徹底させなくては!」という話になるのですが……(それに基礎は確かに大事ですが)

私が小学生たちの勉強を見ていると、将来、勉強ができなくなったり、しなくなったりする原因となりそうなのは、
『「1分以上じっくり考える」という経験をしたことがない』という頭の使い方と同時に、
『簡単でシンプルなものを直視できない』という現代っ子特有の気質もあるように見えるのです。


そうした悪習慣が、知識を詰め込んで、基礎を反復させるだけで直るのか
疑わしいのですよ。
まず、大人が何が大切なのか、きちんと把握することこそ先決ではないでしょうか?

こちらも過去記事ですが、よかったら読んでくださいね。↓
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小学生の算数の学習を見ていると、
非常に多くの子たちが、
現代っ子に共通する「学年が上るにつれて算数が苦手になる大元」となりそうな
困った癖を持っていることが気になっています。
それは……

『簡単でシンプルなものを直視できない』

『単純な情報にしっかり意識を向けていられない』

ということです。
そのため、小学2~3年生に2本の棒を渡して、

こちらの方が4センチ長いです。
「4」はどの部分に当たるの?

とたずねると、比べている短いほうの棒全体が4であると答えたり、
いつまでも首をかしげて、「わからない」と答えたりするのです。

小2の学校の学習では少しもつまずいていない子が、
「どちらが長いか、2本の棒を比べるにはどうすればいいの?」という質問に
棒の一方をそろえることができず、
「どっちがどれだけ長いの?」と長い部分を指させようとしても、
「わからない」と言う場面もありました。

そこまで混乱する子はめずらしくても、
筆算の割り算の最中に、自分が扱っている部分に意識をとどめておけなくて、
いつもごちゃごちゃになってしまう

概数の四捨五入するポイント部分に意識を向けて置けなくて
ごちゃごちゃになってしまう

という様子をよく見かけます。

教師経験のある知人は、「最近の子たちが、シンプルな部分に注意を向けられなくて、シンプルな問題にもかかわらず、あらゆる複雑そうなところから情報を集めてこようとして、さっぱり問題が解けない」
と語っていました。
これは私も、いつも気になるところなのです。

ゴムでっぽうを打つときに、ゴムに注目していられない
こまを回すときにコマを見ていられない

忙しく目を動かし、たくさんの情報を集めようと四苦八苦した結果、
今していることの中心核となる部分がどこか見抜けないし、
それが単純だと意識をとどめておくことができないのです。
それは幼児教育をしてきた子、小学校受験を勝ち抜いてきた子にもよく見られます。

テレビや情報の多い環境などの影響や、
昔遊びの減少、
親が学習を教えるときに、子どもにシンプルな部分に集中させず
「子どもが、まだその対象を難しく感じている混乱状態で情報だけをたくさん与える」
「操作や解法そのもの」を丸暗記させていること
などが原因ではないかと感じています。

この単純なものに意識をとどめておけない

という困った癖は、高学年になって、線分図を扱ったり、
速度や単位量あたりの計算など、
非常にシンプルな図の中に整理していけば簡単に解ける問題を、

「複雑だ~」「難しそうだから難しそうな部分をあっちもこっちも見なきゃ」という意識であちこち気持ちを散らして、さっぱり解けるようにならない

という状態に結びつきます。

幼児期、おもちゃがない状態ですぐに退屈しないで、外遊びができる

靴投げのようなシンプルな遊びをしつこくできる

ブロックや積み木も小さなパーツをどんどん増やすなどして、
情報処理のあり方を幼児期から複雑にしない

テレビやゲームを受動的に見たりしたりする時間を減らす

親がしつけやルールを教えるとき、
たくさんのことを同時に教えない、求めない

といったことが、とても大事なのではないでしょうか?
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