夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

世の中は川の流れだ

2009年03月19日 | Weblog
 東京のJR王子駅でトイレの汚水を川に流していた。東京都はそれを2年も前から知っていて放置していた。しかもJRは旧国鉄時代からずっとで、もう40年も前からだと言う。呆れて物が言えない。
 ホームで全面禁煙のたばこをホームで売るJRの汚さを書いた。自社の発電で制限以上の川の水を取った(盗った)。ね、やはり同じでしょ。川の流れなんだから、同じなのである。汚水は流域を汚した。文字通り「汚い」のだ。
 先日田中真紀子氏が「真実を見よう」と言っていると書いたら、真紀子氏がテレビに出られる訳が無い、とのコメントを頂いた。そうかも知れないが、彼女が黙ったら喜ぶ人が居るはずだ、と私は書いた。そして気が付いた。彼女は呼び掛け続ければ良いのである。それは田中家の財産がどのようにして築かれたかをもまた白日の下にさらす事になる。
 
 私は世の中の出来事で、新聞などが分からない記事を書いている事を採り上げて、何で記事が分からないのかを追究する本一冊分の原稿を書いた。分からない理由を色々と考えていると、ある一つの事実が見えて来る。我々に与えられているわずかばかりの情報では、それが真実であるかどうかは分からない。だが、自分自身の頭でさんざんに考えた結果なのだから、真実に近いはずだ、と言う趣旨である。
 それを人は「邪推だ」と言うかも知れないが、邪推で結構、この自分が考えた事なんだから、それで良いではないか。自分で考えずに他人の意見をそのまま取り入れてしまうから、間違いがそのまま通ってしまう。
 採り上げた内容は二年も三年も前の物が多い。だがそれが良いのだ。なぜなら、これまた川の流れなのだから、しかもその流れは非常にゆったりとしているから、三年前に流れたその残滓が今もまだ残っている可能性がある。そこにまた新しい汚物が流れて来て、ああ、またあいつが流したのか、と言う事が分かり、「あいつ」の正体が分かると言う寸法である。
 だから、内容は少しも古くはならない。古くなればなったで、判断の材料がそれだけ増えている事になる。
 この原稿が一つの出版社で認められなければ、新たに書き足す事があれば付け足して、削る事があれば削り、また別の出版社に持ち込む。ある出版社は、採用不採用は当社の考えなので、駄目でも別の所に当たって欲しいと勧めている。
 
 三年程前から「邪推」を続けているせいで、私は物を見る力が自分では付いて来たと思っている。以前は、書かれている事をその通りに受け取っていた。分かっても分からなくてもそのままだった。分からないのは自分の考えが足りないのだと。何よりも欠けていたのは、分かっていない、と言う事実を分かっていなかった。上っ面だけを見ていたからだ。そして多くの人々がかつての私と同じだと思っている。
 昔読んだ本を読み直してみて、とんでもない事が書かれているのを発見して驚いている。何でこんな馬鹿馬鹿しい事を真に受けていたんだ、何で気が付かなかったんだ、と我ながら悲しく悔しい。でも、気が付いただけ増しなのだ。
 駄目本を具体的に例を挙げて斬っている原稿も書いているが、書き手がよほど有名でないと、多分、日の目を見ないでしょうね。
 
 突然話が変わるが、今「増し」と書いた。「増し」は文字通り「増える」である。だから「日増しに暖かくなる」とか「一割増し」などと言う。そしてその言い方が「どちらかと言えば、その方がいい」との意味にも使われる。比べてその方が色々な面で「増している=優れている」のである。だから「その方が増しだ」と書くのが当然で、それでこそ意味が明確になるのである。
 ところが、手元の用字用語辞典を見ると、ほとんどが「一割増し」は良いが、「そのほうが増し」は仮名書きにせよ、と書いてある。そして、「日増しに」はどうすれば良いのかは書かれてはいないのだ。なぜなら、仮名書きだ、と言う理由がいい加減だから、「日増しに」などの「一割り増し」とは違うが、さりとて「その方が増しだ」とも違うような言い方になるとどうして良いか分からなくなるのである。
 いい加減な本が大きな顔をして売られている、と書いた所で、日本語のいい加減な表記の話になった。別にそうした意図があった訳ではない。たまたまそうなっただけだが、このように、いい加減は身の回りに蔓延しているのである。ごくごく当たり前の顔をして図々しく登場しているのである。それを見過ごしにしているのは、我々自身がいい加減だからである。