夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

小学校の謝恩会に出席した

2009年03月16日 | Weblog
 今週から日曜日はブログを休む事にしました。と言うのは平日は外での仕事があり、帰って来れば家庭の事情で、私が家事をこなさなければなりません。買い物もその一つです。それやこれやで平日に時間をやり繰りしてブログを書くのが結構大変なのです。そこで、日曜日を書きためておく日としました。ただ、世間の動きと関連もあるので、そうとばかりも出来ない苦しさはあります。しばらく様子を見る事にします。
 今、今週からと書いた。カレンダーは日曜日から始まっている。でも小学校の頃、曜日は月火水木金土日と数えた記憶がある。だから当時は「今週から」と言えば、22日の日曜日を指していたはずだ。いつから変わったのだろう。因みに私が習ったフランス語では、曜日はやはり月曜ランディから始まっていた。最後がサムディ・エ・ディマンシュ、土曜日そして日曜日である。
 
 縁あって、小学校の謝恩会に出席した。私は自分の謝恩会の記憶が全く無いし、息子の謝恩会に出た記憶も無い。多分、普通の日なので、母親が出席したのだろう。今回も父親の出席は一人だけだった。出てみて驚いた。とても大がかりなのである。来賓と先生方と職員、そして六年生とその親。場所は講堂。
 まずは子供達の寸劇で先生への思い出が語られる。そして子供達の楽器の合奏。電子ピアノはもちろんの事、マリンバ、ビブラフォン、ドラムまである。我々の子供の時はあんなに楽器なんか無かったね、と囁き合った。全員が何らかの楽器の演奏が出来る。素晴らしい事だ。そして子供達の合唱。
 合唱は先生達も親達もその技を披露する。うん、ちゃんとハモっている。
 良かったのは、先生が二人ずつくらいの生徒を名指しで色々と思い出を語った事だ。それは六年生全員が30人そこそこだからこそ出来る。我々の小学校時代のように、一クラス50人とか60人とか居て、それが4クラスも5クラスもあっては、とてもじゃないが、出来ない相談だ。多分、今の方がずっと学校が多いのだろう。
 そして最後に我々一人一人に生徒一人一人が花束を贈呈してくれるのである。お菓子の入った籠も一緒である。聞くと、籠も手製だと言う。花束をもらった我々は、子供と親が向かい合って並ぶその中を見送られる。何とも気恥ずかしい事だった。
 
 子供を見守るのは大人の役目である。だが、本当にそれが出来ているか。教師が子供を叱ると、教育委員会に言うぞ、と脅す子供が居ると言う。普段から家庭でそうした話が出ている証拠である。叱られて親が学校に文句を付けに来るとの話も読んだ事がある。子供同士の喧嘩にも親が出て来る。昔は「子供の喧嘩に親が出る」と子供達が笑って蔑んだ。今は親が子供からも蔑まれるようになってしまった。
 子供のしつけの出来ていない親などざらに居る。みんな自分の事、そして仕事に夢中になっている。そんなにも金が欲しいのか。夫が失業したりしていれば妻が働くのは話は別だ。毎日のように遅刻する子供が居る。親は、ちゃんと起こしているんですけど、と言う。起きていないから遅刻している。起きていなければ、起こしている事にはならない。一応、形だけは起こしているのである。実が伴っていない。
 こうした事が怖いのは、そうした子供達が今度は親になるからである。もちろん、出来の良い子供も一杯居る。だから世の中は何とかなっているのだ。
 
 隣の家のご主人は、エレベーターや廊下などで会って、お早うございますと挨拶しても、うんでもすんでもない。小学生の子供がいてもおかしくない年齢のようで、私の方が遙かに年長である。幼児だって、こんにちは、などの挨拶が出来ると言うのに。管理人に、私の所は犬が吠えてうるさいので、嫌がられているのかなあ、と言ったら、そんな事ないよ、あの人は銀行勤めだから、そうなんじゃないの? と言われた。それで私はほっとはしたが、でも合点は行かない。潰れそうになってどこかと合併しただらしのない銀行じゃないか。なんで他人を蔑むような態度に出るのか。銀行が駄目になるはずだ。
 折から「銀行の言うままになっていると、潰されますよ」とか言う本が売れているらしい。内容の大方の予想は付くが、読んでみたいと思う。
 縁あって、小学校の謝恩会に出席した。私は自分の謝恩会の記憶が全く無いし、息子の謝恩会に出た記憶も無い。多分、普通の日なので、母親が出席したのだろう。今回も父親の出席は一人だけだった。出てみて驚いた。とても大がかりなのである。来賓と先生方と職員、そして六年生とその親。場所は講堂。
 まずは子供達の寸劇で先生への思い出が語られる。そして子供達の楽器の合奏。電子ピアノはもちろんの事、マリンバ、ビブラフォン、ドラムまである。我々の子供の時はあんなに楽器なんか無かったね、と囁き合った。全員が何らかの楽器の演奏が出来る。素晴らしい事だ。そして子供達の合唱。
 合唱は先生達も親達もその技を披露する。うん、ちゃんとハモっている。
 良かったのは、先生が二人ずつくらいの生徒を名指しで色々と思い出を語った事だ。それは六年生全員が30人そこそこだからこそ出来る。我々の小学校時代のように、一クラス50人とか60人とか居て、それが4クラスも5クラスもあっては、とてもじゃないが、出来ない相談だ。多分、今の方がずっと学校が多いのだろう。
 そして最後に我々一人一人に生徒一人一人が花束を贈呈してくれるのである。お菓子の入った籠も一緒である。聞くと、籠も手製だと言う。花束をもらった我々は、子供と親が向かい合って並ぶその中を見送られる。何とも気恥ずかしい事だった。
 
 子供を見守るのは大人の役目である。だが、本当にそれが出来ているか。教師が子供を叱ると、教育委員会に言うぞ、と脅す子供が居ると言う。普段から家庭でそうした話が出ている証拠である。叱られて親が学校に文句を付けに来るとの話も読んだ事がある。子供同士の喧嘩にも親が出て来る。昔は「子供の喧嘩に親が出る」と子供達が笑って蔑んだ。今は親が子供からも蔑まれるようになってしまった。
 子供のしつけの出来ていない親などざらに居る。みんな自分の事、そして仕事に夢中になっている。そんなにも金が欲しいのか。夫が失業したりしていれば妻が働くのは話は別だ。毎日のように遅刻する子供が居る。親は、ちゃんと起こしているんですけど、と言う。起きていないから遅刻している。起きていなければ、起こしている事にはならない。一応、形だけは起こしているのである。実が伴っていない。
 こうした事が怖いのは、そうした子供達が今度は親になるからである。もちろん、出来の良い子供も一杯居る。だから世の中は何とかなっているのだ。
 
 隣の家のご主人は、エレベーターや廊下などで会って、お早うございますと挨拶しても、うんでもすんでもない。小学生の子供がいてもおかしくない年齢のようで、私の方が遙かに年長である。幼児だって、こんにちは、などの挨拶が出来ると言うのに。管理人に、私の所は犬が吠えてうるさいので、嫌がられているのかなあ、と言ったら、そんな事ないよ、あの人は銀行勤めだから、そうなんじゃないの? と言われた。それで私はほっとはしたが、でも合点は行かない。潰れそうになってどこかと合併しただらしのない銀行じゃないか。なんで他人を蔑むような態度に出るのか。銀行が駄目になるはずだ。
 折から「銀行の言うままになっていると、潰されますよ」とか言う本が売れているらしい。内容の大方の予想は付くが、読んでみたいと思う。