夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

AIGの大赤字と保険の胡散臭さ

2009年03月09日 | Weblog
 AIGの大赤字について3日に述べた。不安と隣り合わせの保険を商売にしている会社を助けなければならないと言う経済の仕組みがまるで分からない、と書いた。その疑問に答えてくれるような記事が8日のメルマガ「頂門の一針」1467号に「山堂コラム 日本から吸いとれ」として載っているので、そのごく一部を御紹介したい。郵政民営化への私の疑問にも答えてくれている。以下は所々、省略してある。

 AIG、去年の10~12月の四半期で5兆9800億円の欠損(史上最大)。その欠損どこに行ったのか? ハゲタカどもがみんなで山分けして食っちまったんだろう。
 それでも新しいオバマ政権はAIGにまだジャブジャブ公的資金を注入するのだという。その金は日本から吸い上げる。クリントン(新国務長官)のおばさんが作り笑いしながらやって来たのも一番の目的はそれ。
 「日米構造協議」乃至「年次改革要望書」ですでに枠組みができている。「構造協議」で米国が日本に圧力をかけ始めたのはブッシュの親父の時代。急速に推し進めたのがブッシュの息子。それと組んで郵政民営化や規制緩和に狂奔した小泉・竹中のグロバリ改革路線―――武部や秀直らがいくら擁護しようとも、「猫騙し・小泉劇場」から覚めた有権者にはもう分かっている。
 ハゲタカの狙いは日本の郵貯と健保年金のカネであること。分かったら止めればいいのに官僚は懲りない。まだやっている。厚労省からの天下り役人ども(年金積立独法)。
 オラたちのカネ(厚生年金積立金)を株などに賭けてすった額、去年の10~12月は5・7兆円。AIGの欠損と時期・赤字額ともあまりに符丁が合い過ぎる。
 厚生年金の積立金。回り回ってAIGへ注入の米国公的資金に化けちゃってる―――としか思えない。

 ね、分かり易いでしょう。AIGはそれでもまだ足りず、アリコ、アリコと我々を攻め立てている。アメリカンホームダイレクトも同じだ。地井さんもいい加減にCM出演やめればいいのにねえ。せっかく「ちい散歩」などで首都圏では人気を取っているけど、自分で墓穴を掘っている。
 私は常々「邪推でいい」と思っている。我々にはわずかな情報しか与えられていない。そこから真実を見抜く事など無理な話。だから様々な情報を組み立てて、邪推でもいいから、自分なりの結論を追究しようではないか。テレビ・新聞の情報だってどこまで信用出来るか。毎日新聞が調査をして小沢氏は党首をやめるべきだ、との声が圧倒的に高い、との報告をしているが、その調査の正確さを我々は検証する事が出来ない。言うならば、どんな事だって可能なのである。

 テレビでは相変わらず小沢問題で番組を組んで意気盛んだし、新聞は政府の高官の「国策捜査ではない」との発言が問題だ、と言っている。私はこの「政府高官」との言い方が気に入らない。まるでものすごく立派で偉い人のようじゃないか。はっきりとどこの誰だ、と言えよ。
 それは別としても、結局は誰も彼も「同じ穴のむじな」なのである。上記のコラムのように小泉が我々を騙した事は明白になっているが、現在の内閣は違うのだ、とは言えないし、野党だって、政権を取ったらどうなるか分かったもんじゃない。政治資金規正法を作ったって、抜け穴ばかりではないか。支出では1円でも領収書が必要だ、などと言っていたが、何だ、収入は取り放題じゃないか。よくも我々選良を騙してくれたもんだ。もっとも、選良を騙しても怖くない、騙されても騙されても懲りない我々の欠陥もあるんだけど。でも、よく恥ずかしげも無く、テレビに顔を出せるよなあ。まあ、それくらい面の皮が厚くなければ、とうてい政治家は務まらないのだとは思うが。

 共同通信の調査では、民主党の人気が少し落ちて、自民党の人気が少し上がったらしいが、それでもどちらも決して高いとは言えない。つまり、それが今の国民の意識なのだ。誰も彼も信用ならないと。きのう、田中真紀子氏が繰り返し言っていた。騙されていてはいけない、真実を見よう、と。


親指シフトキーボード始末記

2009年03月08日 | Weblog
 先日、キーボードは進化していないのか、と題して親指シフトキーボードへの不満を書いた。トラックバックも頂き、今もなお、親指シフトキーボードを大切に守り続けている人々が居る事を改めて確認した。そうは言っても、マックに関する限りは安閑とはしていられない。私の理解している限りでは、富士通のウインドウズ用の親指シフトキーボードを購入し、特殊なソフトをダウンロードしたりして使う必要がある。
 ウインドウズなら、富士通の1万円に満たないソフト「Japanist」さえ導入すれば、JISキーボードだって親指シフトキーボードとして使える。富士通の親指シフトキーボードなら言う事は無い。私はリュウドが作ったウインドウズ用の親指シフトキーボードをXPで使っている。
 しかし同じような事をマックでは出来ない。本来はマック用の親指シフトキーボードさえあれば、特殊なソフトなど無くても、日本語変換ソフトごとに多少異なる設定をするだけで、親指シフト入力が出来た。ADPポート使用のキーボードの時まではそれが可能だった。だが、進化したマックはADPポートではなく、USBポート使用になった。そこでリュウドはUSBをADPに変換する変換器を作り、あるいはiMATEと言う他社の変換器の使用を推奨した。この方式を私は採った。
 ところが、OS9(現在では過去のOSになってしまった)では使えたものの、現在のOSであるXでは使えない。9でも当初は使えたが、今は全く信号が送れなくなってしまった。変換器はメーカーで調べてもらって、正常である事が証明されている。なのに使えない。つまり、マックに関してはキーボードは進化を止めてしまった。止まってしまった進化をソフトで何とかしようと四苦八苦している情況だと思う。
 そして私はマックG4(今ではこれもまた過去の機種になってしまったが)をずっと使って来なかった。親指シフト入力が出来ないのでは、とても使えない。ローマ字入力が出来ない訳ではないし、単に慣れていないだけなのだが、仮名を頭の中でローマ字に変換して再び仮名にして漢字に変換すると言う仕組みがあまりにも迂遠で嫌なのだ。せっかくの機種も宝の持ち腐れになっていた。

 ふと、10年以上も前にリュウドが作った親指シフトキーボードならどうか、と思った。そこで取り出して変換器を通して繋いでみた。何と、正常に入力出来るではないか。ただし、最上段の記号と数字の入力が出来ない。数字は附属のテンキーで入力出来るし、記号類は単語変換でどうにかなる。だが、OSのXでは、「む・ろ・ぷ」などの文字が入力出来ない。これでは使えない。
 過去の色々な操作を記録したメモが取ってあり、それを読むと、X用の変換器用ドライバーをインストールしていなかった事が分かった。すぐにダウンロードしてインストール。何と、OS9同様に使える。思わず手を叩いてしまった。万歳、万歳。まだ昼の12時過ぎだが、祝杯を挙げたくなってしまった。今夜は旨い酒を飲むぞ。
 やはり持ち腐れになっていたX用の高機能のソフトの数々が使える。マック自身、CPUの機能も高いし、メモリーも豊富だ。
 新しいキーボードと古いマックの組み合わせと、古いキーボードと新しいマックの組み合わせ。どちらに軍配が上がるか。当然に後者である。結局、キーボードは進化していないのである。

 パソコンを複雑なデータ処理に使っている人と、文章作成に使っている人とどちらが多いだろうか。書店のパソコンの書棚には「ワード」と「エクセル」のマニュアルが腐るほど並んでいる。ウインドウズのデータを貰うと、ほとんどがこの両者を使っている。「エクセル」にしても、データその物は日本語である。
 つまり、ほとんどの人がパソコンをワープロ感覚で使っている。それなのに、その入力方法はまだるっこいローマ字入力なのである。それに何の疑問も持たない事を私はとても不思議に思う。仮名入力の単純さや速さを体感していないから仕方が無いのだとは思うが、それだけでは済まないと思う。
 私はこのブログを始めとして、自分の売れない著作でも、筋の通らない論理を批判している。なぜそんな通らない論理が通っていると思ってしまうのか、不思議でたまらない。そして、もしかしたら、入力の難しさに戸惑ってしまう部分があるのでは、と疑っている。親指シフトの仮名入力なら、思った事がそのまますらすらと文字になる。本当にそれはまさに瞬間的に出来る。物理的に考えたって、「あいうえお」は同じだが、残りはローマ字ではすべて2打鍵になる。1打鍵の親指シフト入力が圧倒的に有利である。

 様々な新しいソフトを開発する事も重要だが、肝心の日本語入力をもっと簡単に確実に出来るような事をなぜ考えないのだろうか。その理由は明らかだ。ソフトなら買う人も多いし、商売になる。だがキーボードとその入力システムでは商売にならない。それだけの事である。音声入力などと言う前に、キーボード入力を何とかせよ、と言いたい。

「一年の計は元旦にあり」は間違いと言う東京新聞のコラムに疑問あり

2009年03月07日 | Weblog
 今日の東京新聞のコラム「筆洗」に「一年の計は元旦にあり」は間違いだと書いてある。中国・梁代の『元帝纂要』に「一年の計は春に在り」とあって、多分、性厳格な人がいて、どこかで「元旦に」と限定しただけのこと、と言うのである。
 なぜこのような話が展開しているかと言うと、春は色々なものが始まる季節だと言う事から、「一年の計」の中で、何か未経験な事への挑戦を考えてみるのにふさわしい時期ではなかろうか、と提案しているからだ。何か新しい事を始めるに当たって、一番難しいのは実は、始める事、それ自体なのだ、とにかく始めてしまえば、もう半分済んだようなものだ、と言う。
 そうだろう。こうした事自体は納得が行く。そして、だから今からでも「一年の計」を立てるのは遅くはない、と言い、それが冒頭の「一年の計は元旦にあり」は間違いだとの話になるのである。この言葉の原形は「春に」の方らしいから、慌てずに計画を練りたい、と言う。

 さて、この「一年の計は春に在り」が元旦ではない、と言う事に疑問は無いだろうか。私は咄嗟に、あれっ? 昔は一年は春から始まっていたではないか、と思ったのだ。
 旧暦では今年は2月4日が立春で、1月26日が元日である。立春後に元日になる年もあると何かで読んだ覚えがある。
 暦の本によると、立春から春が始まり、それはまた年の始まりでもあった、とある。立春を年初とする考え方は中国では漢の時代に始まると言う。漢の建国は項羽と劉邦の戦いで知られているが、紀元前202年である。コラムの梁がいつの時代なのか私にはよく分からないのだが、世界史の事典では502年の建国とある。
 では500年代には現代のような冬の最中の1月1日が年初になっていただろうか。多分、それは無いだろう。そうした暦があったのなら、日本にも当然にそれは伝わっていただろうからである。
 日本では明治時代まで旧暦だった。旧暦の二十四節気の「正月節」は「立春」である。二十四節気は一年を二十四に区切ったもので、その区切りは自然の季節にも合い、何年経ってもずれの無い事柄を基準にしている。それは何か。昼夜の長さである。
 昼夜の長さの等しい日を「春分」「秋分」とし、昼の一番長い日を「夏至」、一番短い日を「冬至」としたのである。
 因みに、正月節が「立春」、正月中が「雨水」、2月節が「啓蟄」、2月中が「春分」である。「立夏」は4月節になる。

 梁代の『元帝纂要』にある「一年の計は春に在り」の「春」はまさに「立春」ではないか、と私は思う。従って、これはまた「一年の計は元旦に在り」と言っている事になるのではないのか。正月を「初春」とか「新春」と呼ぶのは一年が春から始まった名残のはずである。
 コラム氏は現在の元日は春ではない、と言う新暦だけで考えているのではないだろうか。梁代の『元帝纂要』は旧暦の時代だったはずである。どなたか御教示下さい。

 

『こんな国語辞典は使えない』への反論に反論する

2009年03月06日 | Weblog
 自分の著書を検索してみて、えっ? と思った。『こんな国語辞典は使えない』についての批判である。
 私の攻略法が「ある辞書の説明に納得できないと、他の辞書にあたり、そちらの説明の方が理解しやすければ、先のある辞書の説明を攻撃するというもの」と言うのだが、何を根拠にそう言うのかさっぱり分からない。きちんと読んでいないのでは、と思うしか無い。

 「天下の広辞苑などというが、文学を専攻する者、日本語を扱う職にある者にとっては、広辞苑なんて小さな簡便な辞書に過ぎないというのは常識である」と言う。それは専門家にとってはそうなのかも知れないが、私は普通の一般人の立場では広辞苑は権威あると思われているのだ、と言っている。裁判の判決文では、多くの裁判官が言葉の説明をする際に「広辞苑では」とその説明を引用している。権威あると思われているからこそ使われているのである。そしてテレビではニュースワイドショーのスタジオのコメンテーターの背後に「広辞苑」が置かれていたりして、コメンテーターが話をするたびにそれが画面に入って来る。私たちは広辞苑を使っているんですよ、とのアナウンスではないか。権威の無い物を飾ったって何の役にも立たない。
 批判しているこの人は国語の専門家らしい。小学生から高校生まで教えて来た経験があると言う。私は素人の立場で、日本語で生活している人間としての立場で考えているに過ぎない。専門家がどう言おうと、それが筋が通らなければ納得出来ないと言うのは当たり前ではないか。それとも素人は黙っていろ、とでも言うのか。

 「天地無用」について、私は「天地が要らない」のだから、天地を逆さまにしても構わない、と言う意味にもなるのではないか、と疑問を呈した。「天地がいけない」なら、「天地を守ってはいけない」の意味にもなるのでは、と書いた。それについて、この専門家は「天地す」が「上下する」の意味で使われていた事を調べるべきだった、と非難する。
 そうか、「天地す=上下する」なら「上下する無用」は「上下してはいけない」との意味になるのか。「上下」とはどのような意味なのか。岩波国語辞典では「上下する」は「あがりさがりする・のぼりくだりする」としか説明していない。我々の理解だってこれと同じだ。これがなんで「上下を逆さにしてはいけない」になるのか、それを説明せずに、「天地す=上下する」で万事解決だと思い込んでいるその考えが一般人には通じませんよ、と私は言っているのだ。
 だから『新選国語辞典』のみは「天地」の意味として「上と下をとりかえること」も意味の一つとして挙げているのである。そうしないと、「天地無用」が「上下を逆さまにしてはいけない」にならないと考えたのである。日本語の専門家がそう考えたのである。
 「天地す=上下する」でどうして「天地無用=上下を逆にしてはいけない」の意味になるのかを説明するのが専門家の仕事ではないか。「天地す=上下する=上下を逆にする」のだ、と説明出来るのか。それをせずに文句を言ったって何の説得力も無い。

 「行きませんか?」と言う問い掛けの言葉について、私は否定の言い方がなぜ誘いの言葉になるのか不思議だと書いた。その説明が『大辞泉』にあって、「行きませんか」は「行きませむか」であり、「行きましょうか」の意味だ、と書いてある。私だって「む」が意思を表し、「ん(ぬ)」が否定である事は百も承知である。問題は「意思=む」がどうして「否定=ん」と思われる形になってしまったのか、にある。
 同書はそれに対して明確な説明はしていない。ただ、これは良いヒントになる。だから私はそのヒントで自分なりに考えてみたに過ぎない。説明が無いのだから自分で考えるしか無いではないか。その結果、私は「む」と「ん」は通用すると考えたに過ぎない。
 「む」は非常に弱い発音である。ローマ字にすれば「mu」ではあっても、その「u」は極めて弱いのである。ほとんど「m」としか聞こえない。それなら「n」になったって一向におかしくはない。
 中国語の「馬=むま」は日本語では「んま」となり「うま」となった。同じような物に「梅=むめ→んめ→うめ」もある。大体、意思を表す「む」が弱い発音である事がおかしいのである。だから「蛍の光」では「今こそ別れめ」と歌うのである。「今、別れむ」では弱過ぎるのだ。それに「別れん」とも間違える恐れがある。
 もしかしたら、この批判論者は「u」を殊更強く発音する傾向のある関西人なのか。
 そうした事が明らかに違うと言うのなら、なぜ「む」が「ん」になったのかをきちんと説明すべきである。『大辞泉』の説明が間違いなら、間違いだとはっきり言うべきである。説明をせずに、文法を持ち出してそれは馬鹿馬鹿しい考えだと非難するだけなら、誰だって出来る。私だってこの考えがおかしいと知っている。
 しかし言葉と言うのは理屈ではない。どんなに間違っていると思っても、それで正しいと思われて通用している言葉は少なくない。

 私は国語辞典は日本語の規範であるべきだと考えている。確かにこの人の言うように、「用例の解釈を確認する手段」ではあるが、規範ではないのに、どうして解釈の確認が出来るのか。規範ではないのなら、確認したって、そんなのは単に自己満足に過ぎないじゃないか。単にその辞書と自分の考えが合致しただけに過ぎない。
 「国家が定めたのならいざ知らず、日本では辞書は規範とはなり得ない」と言うが、国家が定めれば、それは規範となるのか。冗談じゃない。国家が定めた常用漢字がどんなに変則的なのか、送り仮名の付け方にどんな無理があるのか、国語の教師なら知っているはずである。そうか、それで良いと思っているのか。

 こうした批判を読んで、なるほど、国語の教師はこう考えるのか、と合点が行った。と言うのは、日本語の専門家グループが『問題な日本語』を書き、全国の高校の教師達の賛同を得たと言うからである。私は同書をじっくりと読み、何て考えの浅い本なのかと呆れた。だからほとんどの項目に反論の原稿を書いた。全国の高校の教師のお墨付きである事がとてもじゃないが、信じられない。
 例えば酒処などで「おビールをお持ち致しました」と「ビール」に「お」を付けるのは、自分を上品に見せたいからだ、と言う。ビールは誰の物でもなく、敬う相手が居ないから、がその理由だ。強いて言うなら自分の物だと言う。あははは。自分のビールなら自分で飲んで自分で金を払うしか無い。それでは商売にはならない。
 結局、様々な言葉を通して、この執筆者達には居る相手が見えていない事が分かる。自分さえ良ければそれで良し、なのである。

 素人が何をほざくか、と言いたければ言うがいい。日本語を生活の道具としているのは我々庶民である。絶対に日本語の専門家ではない。専門家がどう考えようと、文法的にはこうだ、と言おうとも、それで納得出来るかどうかが我々には重要なのである。何よりも言葉としての実感が物を言う。理屈ではない。専門家はどうしたって自分の知識に寄り掛かって考える。それしか頼る物が無い。
 そこに専門家と庶民との間の大きな溝がある。本当はあってはいけない溝がある。その溝を越えられない人間が学校で日本語を教えているのかと思うと、ぞっとする。そんな風に教えられた子供達に同情してしまう。そうか、だから今の子供は言葉を知らず、国語の能力も低いのか。
 こうした反論に更に反論があるなら、上に挙げた疑問に明確に答えて頂きたい。ついでに、現代語の辞典に古語の用例の方が多くて親切(古語には出典があるが、現代語には出典は無い。単に執筆者が考えた用例とも考えられる)なのは、どのような場合に役立つのか、明治・大正の文献を読む高校生にとって、具体的にどのような役に立つのかもお示し頂きたい。
 まあ、私の素人ブログなどお読みになる機会はまず無いでしょうけどね。私がこうした事を書いているのは、他人の本をろくに読みもせずに自分の既成観念だけで物を言い、けなしているそのブログが、検索すると最初の方に出て来て、いつまでも大きな顔をして居座っているのが腹に据えかねるからである。

英語の7月と8月の由来の東京新聞の説明はおかしい

2009年03月05日 | Weblog
 東京新聞の「教育に新聞を」(Newspaper In Education 略称 NIE)の英語の質問箱(3月3日)に、英語のSeptemberは9月だが、元々は7月だったそうで、それはなぜなのか、との質問に対する答の形で7月と8月の由来が載っている。
 September、October、November、Decemberのそれぞれsept、 octo、 nove、 deceは欧米の各国語で綴りの多少の違いはあるが共通で、7、8、9、10を表している。本来はそれぞれ7月、8月、9月、10月だったのだが、ユリウス・カエサルが7月に自分の名を割り込ませ、アウグストゥスが8月に自分の名を割り込ませてしまったので、以降、順に2カ月ずつずれてしまった、と説明している。

 確かにそれは正しいのだろうが、二つの月が割り込んだと言うからには、じゃあ元は一年は10カ月だったのか、との疑問が出る。元から12カ月だったのなら、消えた2カ月は何だったのか。そして1月から6月までは元々の数字のままなのか。
 こうした疑問が当然に出て来るはずなのだ。だが説明は「いつの時代にあっても権勢欲というか自己顕示欲が強いものですね」で終わってしまっている。なんじゃ、これ、である。執筆者は翻訳家で河合文化教育研究所研究員とある。なのに、これでは説明になってないじゃないか。

 古い暦では1月から4月まではローマ神話の神々の名に因んで付けられていた。
1月 マルス Mars
2月 アプロディテ Aprodite
3月 マイア Maia
4月 ユノー Juno
 見ての通り、英語のMarch、April、May、Juneである。しかしこれらは現在は3月から6月である。ここにも2カ月のずれがあるではないか。
 2カ月ずれたのには次の理由がある。
 11月はローマ神話のヤヌスJanus、12月は同じくフェブルウスFebrusの名に因んで付けられていた。11月はJanuarius、12月はFebruariusである。ヤヌスは門の神で、ローマの鍵を持ち、戦時には扉を開き、平和時には門を閉じるとされた。二つの顔を持って常に前と後ろを見、敵と味方を見、過去と未来を見ていた。
 マルスは軍神である。ローマは戦争によって国土を広げて行った国だ。従って、マルスが一年の始まりを受け持っていたのである。
 当時は人間の活動が始まる春が一年の始まりで、春分から一年が始まった。それが春分を年初にしなくなり、門の神であるヤヌスを年初の神とするのがふさわしいと考えられるようになり、11月と12月が年の始めに割り込んで、3月以降がずれたのである。これが改訂したヌマ歴で、それは紀元前153年の事とされている。

 さて、これで現在の1月から6月と9月から12月が揃った。抜けているのは7月と8月である。その2カ月がユリウスとアウグストゥスだと言うのがこの記事の説明である。二人が割り込んだために2カ月のずれが生じたと言うのだが、そのもっと前から2カ月のずれは生じていたのである。
 その7月と8月の元々の名前は7月がキンティリスQuintilis、8月がセクスティリスSextilis。これがラテン語の5と6であるのは2カ月ずれているからである。
 つまり古い暦(ヌマ歴)では1~4月はローマ神話の神、5~10月はラテン語の数字、11~12月はローマ神話の神だった。その改訂歴(ヌマ歴の改革)では1~6月がローマ神話の神で、7~12月が2カ月ずつずれたラテン語の数字なのである。
 キンティリスがユリウスになり、その後、セクスティリスがアウグストゥスになったのである。割り込んだのではない。取って代わったのである。

 以上の話は『暦と占いの科学』(永田久 新潮選書)の説明を基にして、私なりに整理した。9月から12月が2カ月ずれている理由として十分に通用し、何の疑問も残らないはずである。私は一介の編集者。教育研究所研究員より正しい説明が出来るのはおかしいのではないのか。短い説明では無理だ、とは言わせない。二人の権力者が割り込んだがためにずれたと結論付けているのは明確に間違いなのである。
 もっと前からずれていて、二人の権力者が古い月の名とすり替えただけの話だと簡単に説明出来るはずである。これが間違いだとするなら、正しい説明を是非ともお聞かせ願いたい。

鳩山大臣は元気あるねえ

2009年03月04日 | Weblog
 この所、何かと鳩山大臣が話題になる。昨年だったか、相次いで死刑執行に判を押したと言う事で、朝日新聞に「死に神」と名指しされ、世間が朝日に噛み付いた。判決から六ヶ月以内に執行すると法律で決められているのだから、法律を守って非難されるいわれは無い。
 この前の郵政民営化に対する疑問を呈した事に続き、今度は中央郵便局の建て替えに待ったを掛けた。日本郵政社長は「今更そんな事を言われても困惑する」と言っているが、どうも立て替えが諸手を挙げての賛成ではなかったらしい。テレビで色々と聞いていると、きちんと詰めない前に郵政側が独断専行した疑いもある。
 西川社長の言によると、高層ビルの運営の上がりで郵政にきちんと目を配るのだそうだが、それなら、国営だった時には目配りが出来ていなかった事になる。庶民は民営化で郵便料金が安くなると期待したのに期待外れだったと言う人も居る。それどころか、僻地の郵便局の存続が危ぶまれている。
 きれい事を言っているが、どうも本音は単に儲けたいだけなのではないかと思う。民営化した企業はみんなそうだ。それこそ恥も外聞も無く、国民の幸せもどこ吹く風とばかりに、遮二無二金儲けに突っ走っている。
 それはそうと、石原都知事もおかしな事を言っていた。「文化財だとか、なんでもっと前に十分検討しなかったのか」などと文句を言っているが、東京の文化財なんだから、中央郵便局がどれほどの文化財であるかを知っていなくてはならない立場に居るのはあんたなんじゃないの? と言いたくなる。いつもは私は石原氏びいきなのだが、今度ばかりはこっちが文句を言いたい。
 そう言えば、鳩山大臣はいい事を言っていた。「自分は文化人ではないが、文化には関心がある」と言うような発言だった。いわゆる文化人の中には「文化って何だったっけ」と疑問を抱かせるような人々が居るものねえ。

 さてと、きのうからは今度は小沢氏の秘書問題だ。小沢氏は元は田中角栄氏や金丸信氏の腹心の部下だったから、建設業界に顔が利く。そこから西松建設とのおかしな繋がりも想像出来る。昔、私は代議士秘書募集に応募しようと思った事がある。電話をすると、女性秘書らしい人が出て、「代議士の秘書と言うのは、代議士が何かの事件に関わった時、代議士の身代わりになって刑務所に入る覚悟が無ければ出来ない」と言われた。
 それとは全く別に、窮地に陥っている自民党や国家権力の介入の疑いもまたある。あまりにもタイミングが良過ぎる。日本郵政と言い、この事件と言い、どうも魑魅魍魎が跋扈しているような気がする。今日本を実際に動かしている政治家や企業には人間としての顔が無い。あるのは金の亡者の顔だ。名もなく貧しい一介の庶民は、互いに相手を信頼し合ってこそ暮らしが成り立つ。それしか頼る物が無い。だから「信頼」には敏感になっている。世の中の誰が信頼出来て、誰が信頼出来ないのかが自分の身に関わる事で分かって来る。
 金に騙されたりなんかしない。金の怖さは十分に知っている。悲しい事に貧乏人だからこそ分かるのである。

AIGの大赤字が世界を席巻するのはおかしい

2009年03月03日 | Weblog
 アメリカの大手保険会社AIGが9兆円もの大赤字だと言う。とうてい立ち行かないからアメリカ政府が援助だとか何とか言っている。そうした経済への不安がニューヨーク株式を続落させ、それが東京の株式市場にも影響を与えている。それなのになぜか日本では相変わらずアリコ、アリコと大連呼のテレビコマーシャルが続いている。事業が立ち行かないで、保障が出来るのかとても不思議だ。
 私は以前から保険業務に大きな疑問がある。大きな保障に対して小さな掛け金。掛けている人間は助かるが、保険会社はどうやってやって行けているのか。それは保障を受けなくて済む人間が大勢居るからだろう。互いに助け合うと言う保険の精神が生きていると考えれば合点が行く。
 だが現代の企業が助け合いなどを目的にしているはずが無い。目的は金儲けしか無いはずである。生命保険などではなかなか死にそうもない人間に保険を掛けさせ、掛け金を集めておいて、歳を取れば資格が無くなる。これではやらずぶったくりである。現に私は掛け捨ての生命保険でこうした目に遭っている。特に期間の長い保険では当初の約束事などは忘れている事が多い。うっかりしていた私も悪いが、生命保険の基本とはそうした物だろう。

 ただ、アリコなどは普通なら入れないような人をも保険の対象にしている。そこが多くの保険とは違う。日本とアメリカとでは違うのかも知れないが、そうした点が赤字の原因なのか。あまりにも大き過ぎる赤字だから考えようも無いが。
 良い商品は宣伝などしなくても売れる。宣伝をしなくても売れている商品を我々は幾つも知っている。だからばんばんCMを打っている商品は、よほど売れないのか、もっともっと売りたいか、のどちらかだろう。CM料金の高さを考えればそうなる。
 それとこうした保険では自転車操業の疑いがあると私は勘ぐっている。多くの人々が助かるような保障をしていれば、幾ら掛け金を集めても足りなくなる。そこで、掛け金を払う人を更に集める。そのためには有利に思えるCMをばんばん打つ。だから本体が大赤字でもCMを打つのだろう。いや、打たなければやって行けないのだろう。

 今日はひな祭りだと言うのに、夕刊は「世界株安の不安再燃」などと大見出しを掲げている。そもそもは投資会社の破綻に始まり、そして今度は保険会社の大赤字で経済不安の後押しをしている。保険は言うならば、不安をあおって商売をする。実際に保険のお世話になっている人も居るが、本来は保険が役立っては困るのである。若かった私に生命保険を勧めた勧誘員は「保険は厄除けですから」と言った。
 投資と言い、保険と言い、実質を伴わない金の動きが世界を制している。こんなおかしくて人を馬鹿にした話は無いではないか。保険会社が潰れたらなぜ困るのだろうか。保険を掛けていた人が困る、と言う事にはなりそうも無い。掛け金が将来の年金のようになる積み立てなら別だが、万一の保障のための保険なら、今まで何事も無かった事で十分ではないか。障害保険金とか、入院保険金とか、死亡保険金とか、保険金を貰わなくて済む方が絶対に良いのである。
 アリコのCMで「死亡保障は付けられます?」と年配の女性が聞くのがあるが、そのお歳で何で死亡保障が要るんですか、と聞きたくなる。死亡保障とは一家の大黒柱が万一の時に備えて掛ける保険ではないのか。残された家族が困らないようにと。働いてもいない、家事をやっているのでもなさそうな年配のご婦人が死んだ時に必要なのは、葬祭費用なのではないのか。
 要らぬ憎まれ口を叩いてしまったが、不安と隣り合わせの保険を商売にしている会社を助けなければならないと言う経済の仕組みが私にはまるで分からない。


凶悪事件の時効撤廃

2009年03月02日 | Weblog
 凶悪事件の時効撤廃を願う16事件の遺族達が「宙(そら)の会」を発足させ、集会を開いた。「宙」には「無限の時間」の意味があると言う。
 時効とは正式には「公訴時効」と言うそうだ。公訴つまり起訴出来なくなる。犯罪が発覚しても時効後なら罪を問えないと言う訳だ。軽い罪ならともかく、凶悪犯罪に罪を問えないのははなはだ不合理である。
 しかし見直しへの慎重論は強いと言う。法律的には時効の理由は書かれていないが、これが理由だと言う幾つかの説があると3月1日の東京新聞が伝えている。それを読んでびっくりした。
 最も驚いたのが、次のような理由だ。
 「犯人が処罰されずに日時が経過した場合、犯人が社会で築いた人間関係を尊重すべきだ」
 犯人が処罰されずに日時が経過したのは、単に犯罪が巧妙だったからに過ぎない。あるいは一時外国に逃げていた、などもあるだろう。その間に「犯人が社会で築いた人間関係」だと? そんな人間関係がどれほどの価値があると言うのか。そんな理由が通るとでも思っているのだろうか。
 その次に驚いた理由は次の通り。
 「時間の経過で証拠が散逸し、正しい裁判をするのが困難」
 証拠が薄弱で起訴が出来るのか。正しい裁判などと言う前に、起訴の根拠が問われるのではないのか。裁判が出来なければ当然無罪になるだろう。あるいは、別のもっと軽い刑で処罰されるのだろう。そうした場合に、時効などが問題になる訳が無い。
 記事には三つの理由が挙げられているのだが、その三つ目も感覚を疑ってしまう。
 「被害者を含む社会一般の処罰感情が希薄化する」
 何言ってんだ。殺人事件なら、被害者は殺されている。処罰感情があろうはずも無い。たとえ殺されていなくても、被害者の感情が希薄化するなどと、どこからそんな無責任な事を考え出す事が出来るのか。被害者の遺族でさえ「犯人に対する気持も、娘を思う気持も当時と何も変わらない」と、娘を殺された母親は語っている。
 こうした話に「社会一般の処罰感情」などを持ち出すのがおかしいのである。社会一般にとっては言うまでもなく、他人事である。一時的には同情の涙を流しても、ある期間が過ぎれば簡単に忘れ去ってしまう。いや私は忘れない、などと言える人が果たしてどれほど居るだろうか。たとえ事件を覚えていても、被害者の、あるいは被害者の遺族のような感情があるはずも無い。

 凶悪犯罪で、一番重要なのは、犯人と被害者または被害者の遺族なのだ。被害者の遺族が出て来るのは、被害者が殺されたからである。遺族は殺された被害者の代理人として登場するのである。分かり切った事を繰り返す。重大な傷害事件なら、犯人と被害者の問題である。殺人事件なら、犯人と被害者の遺族の問題である。
 この両者の問題を解決すべく、解決など出来はしないのだが、解決に向けて努力するのが検察と弁護人、そして最終的に裁判官になる。その途中の段階で、時間切れですよ、と無責任で被害者にとって残酷な宣告をするのが「時効」である。はっきり言えば単なる責任逃れじゃないか。世田谷一家殺人事件のように証拠が残っていても犯人逮捕に結び付かないような難事件もあり、それを警察の責任にする事は出来ないのは承知の上で言うが、結局は捜査の力が及ばなかったのである。それを「時効」と言う免罪符で逃れる事が出来ると言うのか。
 驚いた事には、何度も驚いているが、殺人などの時効が25年になったのは、何と05年の刑事訴訟法改正なのだ。それまでは15年だった。25年だって、20歳で事件を起こせば、25年を何とかやり過ごせば、45歳以降は正々堂々と暮らせると言う訳だ。現代の長生き社会では、健康ならあと30年や40年はまともな人間として暮らせるのである。15年だった時などは、何と35歳で大道を歩けるのである。何と理不尽な事か。
 言うまでも無いが、深い傷を負わされた人間は生涯、その傷と向き合って生きなければならない。殺された人間は何も言えず、ただただ沈黙しているしか無い。遺族は悲しみを生涯胸に秘めて暮らさなければならない。それなのに、発覚をある一定期間逃れさえすれば、元のままの傷付かない人生が送れるなんて、凶悪犯にあまりにも甘過ぎる処置ではないか。凶悪犯に時効を許すなら、許す人間も同罪である。

「パソコンの進化」でトラックバックを頂いた

2009年03月01日 | Weblog
 パソコンは進化しているのに、キーボードは進化をしていない、と書いたら、早速トラックバックを頂いた。マックでも親指シフトキーボードのソフトとキーボードを作って売っている会社があると言う。頼もしい。私のマックG4とOSXはほとんど冬眠中なのでそれが活躍出来るとは有り難い。ただ、キーボードが進化していないのは変わり無い。音声入力も出来るとは言うものの、誰がどのようにして入力してもオーケーと言う事では、キーボード入力に勝る物は無いだろう。

 話はがらっと変わるが、私は東京―大阪のリニアで1時間、に大きな疑問を呈した。何でそんなにせっかちでないといけないのか、と。だが、今朝のテレビで「東京モンスター」とか言う番組(再放送)で、東京と大阪を1時間で結ぶのは大阪を東京と同一圏内にするためだと知った。言うならば、東京のすぐ隣に大阪を持って来るのだ。それはいずれ東京が満杯になるからだ。どこもかしこも超高層ビルになっても、まだ不足らしい。
 外資系企業が東京の丸ノ内に集中する理由は、他の企業と密接しているので、仕事の効率がすこぶる良い事にある。いくらインターネットが発達したって、やはりじかに「向き合って」が重要なのだ。人間と人間。そうした付き合い方が力を持っている事に私は少し安心した。
 そうした「丸ノ内」をもっともっと広げたい、との欲求が超高層を建てさせ、大阪を東京の隣に引っ張って来るのである。

 ただ、私はこうした構想に全面的に賛成はしたくない。こうした構想は言うならば、東京を単に商売の街にしてしまうだけである。ホント、何度も言うが、何でそんなに金儲けをしたいのか、しなければならないのか。
 東京オリンピックの前まで、東京には庶民の暮らす街の顔があった。それこそ下駄履きで乗れる路面電車が街じゅうを走り回っていた。見通しは良く、広々とした青空がどこからでも望めた。今、都心からちょっと離れた所でも、冬の昼日中に街を歩けば、日陰ばかりで寒くてしょうがない。何でこんな街になってしまったんだ?
 我々の暮らしは昔とちっとも変わっちゃいない。朝起きて顔を洗い、朝食を食べて会社なり学校なりへと行く。自分の仕事を終えて家に帰り、夕食を食べて風呂に入り、テレビを見たり、それぞれに自由な時を過ごし、そして寝る。
 昔はテレビではなくラジオだった。こたつに入って家族みんなでラジオを聞いていた記憶がしっかりとある。ラジオがテレビに変わっても我々の暮らしは大きくは変わらない。食生活が豊かになり、便利な製品も増えた。でもやはり毎日の暮らしに大きな変化は無い。

 私はパソコンを使い、インターネットでいち早く情報を手に入れたりもしているが、それだって、あまり重要とは言えない。私にとってパソコンは実はワープロの代用なのである。
 欧米人のタイプライターと同じような物を日本人は求めた。これは贅沢品でも遊び道具でもない。純粋に文化的な欲求である。それが梅棹忠夫氏達の「ひらがなタイプライター」になり、遂にワードプロセッサーの登場となった。
 当初のワープロは本当に能率が悪かった。文章のコピーなどは、コピーしたい部分をカーソルでなぞる。そのスピードは嫌になるくらいに遅い。なぞり終わると、今度はカーソルが文末から文頭へと戻って行く。そのスピードも同じように遅い。そうやってコピーする部分がワープロの頭脳に入るのである。
 次に、コピーしたい部分にカーソルを当て、コピーの指示をする。すると再び同じ速度でカーソルが動いて、記憶してある文章を一文字一文字と言うスピードでペーストして行く。
 ワープロより少し遅れてパソコンを採り入れた時、そのコピーの速さに驚いた。ほとんど瞬間的に終わってしまう。ワープロに慣れていた私は、コピーに失敗したのだと思い、何度も何度も同じ物をペーストしてしまった覚えがある。
 今だって、パソコンを必要とせず、ワープロ機能だけが欲しいと言う人は少なくない。この二つは本来は機能が違う。パソコンはタイプライターの代わりに登場した訳ではなかろう。タイプライターはその後、電動タイプライターも登場している。日本では漢字変換と言う厄介な作業があるから、ワープロがパソコンの親戚のような形で登場した。そっくりだから、一つになった、それだけの事である。だが、そこで間違いを起こした。ワープロ機能を過小評価したのである。

 富士通のパソコンにはJISキーボードの製品と親指シフトキーボードの製品とがあった。もちろん、今もある。標準はJISキーボードで、親指シフトキーボード製品は1万円か2万円高かった。何で親指シフトキーボードが標準ではないのか、と富士通に聞いたら、答は何と、「これはパソコンですから」だった。当時のパソコンはMS-DOSの世界で、一つ一つの指令を決められた文字(コマンド)を入力して指示する。それには日本語の出番は無い。つまり、富士通とても、ワープロとパソコンは異なる分野の製品だと考えていたのである。
 パソコンを純粋にデータ処理の道具としてではなく、ワープロのように使っている人の方が恐らくは多いだろう。そうした人々に対して、肝心のキーボードや入力方式の進化は本当に遅々たるものだ、と私は思っている。我々の暮らしの基本が変わらないのと同じように、ワープロその物の基本は変わらないはずである。