夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

鳩山法務大臣の死刑執行と朝日新聞の「死に神」論

2008年06月22日 | Weblog
 朝日新聞が死刑を執行している鳩山法務大臣を死に神と称して、大臣が激怒した。
 鳩山大臣は不用意な発言をしたりして、私はあまり良い感じは持っていないが、激怒したのはよく分かる。誰だって死刑執行の判を押すのは嫌だろう。だが、死刑は司法が決めた事である。執行の無い死刑なんてまるで意味が無いではないか。
 朝日は以前、死刑囚と被害者の遺族が面会する制度の話で、遺族に「僕らと彼ら」と言わせた。経緯はどうであれ、結果として紙面に載った言葉はそれである。読者はそうした言葉で判断するしか手段が無い。
 遺族が言った「彼ら」とは言うまでもなく、死刑囚達を指す。この遺族は弟を殺されている。一人殺しただけで死刑なのだから、この死刑囚に情状酌量の余地は無さそうだ。言うならば、殺人鬼である。それを「彼」と言う、この遺族の心情が私にはとうてい理解が出来ない。そしてそれをそのまま記事にする朝日に対しても不信感しか残らない。
 「僕らと彼ら」ではなく、「殺された被害者の遺族と殺人鬼」と正しく言い直したら、読者はどのようにこの話を読んだだろうか。「殺人鬼」が言い過ぎだと言うなら、「弟を殺された私と殺した男」と言い替えてもいい。
 「僕らと彼ら」には「殺人」の「さの字」も感じられない。「僕ら」などと被害者の遺族の代表でもあるかのような発言も許されないはずだ。遺族みんながこの遺族と同じ気持とはとうてい思えない。

 遺族が死刑囚と会い、死刑囚は多分、心からお詫びをしたのだろう。「同じ空気を吸ってしまった」と、この遺族は語った。温かな心を持つ人ほどそうなる。弟は死んでしまった。目の前にいる死刑囚は生きている。生きている人間にせめてもの事、償いをさせて心安らかに死に臨ませてやりたい。そう思っても不思議は無い。
 遺族の心温かな心情は理解出来なくはない。しかし私が被害者だったら、絶対に夢枕に立つ。
 おいおい、そんなに簡単に殺人者に同情するなよ。少しは俺の事、かわいそうだと思ってくれよ。おれ、あれから何も出来ないんだ。千の風になる、なんて思っている人もいるらしいけど、そうなれるんならそれでもいいか、と思うけど、ただ、薄暗い所にぽつんとしているだけなんだ。とても寂しくて辛いんだ。
 遺族が考えを変えてくれるまで、何度でも夢枕に立ってやる。

 司法当局はなぜか殺人を犯した人間に同情的である。好意的と言ったって間違いは無い。それに対して殺された人間にはまるで無感動である。かわいそうだとは思わないらしい。弁護士はなんのかんのと言って殺人鬼の罪を少しでも軽くしようとする。それが弁護士の任務だとしても、私なら、そんな仕事は御免こうむる。
 殺された人間は一体どうしてくれるんだ。そうした弁護士達は被害者を生き返らせようと努力をした、とでも言うのか。無理な発言である事は百も承知している。しかしあまりにも不公平ではないか。

 生きている殺人鬼は法廷で発言する事が出来る。だが殺された被害者は何もしゃべれない。その代理である遺族は発言権が無い。何と言う不公平。だから殺人鬼は殺意は無かったなどとほざく事が出来る。弁護士がよってたかって、そのように仕向ける事も可能なのだ。なぜ、殺された人間は無視されなければいけないのか。生存していないのだから仕方が無い、などとふざけた事は言わせない。
 その一方で、冥福を祈る、などと無責任な言葉を吐く。冥福とは死後の世界を信じていてこそ、その意味がある。そして冥福を祈るためにはそれこそ絶える事無く、祈る必要がある。そのような事を何もせずに、ただ、他人事のように「冥福を祈る」と言うのである。あまりにも無責任過ぎる。

 死刑の執行を躊躇する側には、冤罪の疑いがある、との理由もあるらしい。しかし、それは考え方が逆立ちをしている。冤罪などあってはならないのである。それがあり得るのは、司法当局の怠慢に過ぎない。そんな事のために死刑の執行を躊躇出来るのか。
 裁判官は自信を持って死刑を言い渡したのである。それを法務大臣が執行してどこが悪い。 
 朝日新聞は死に神と称したコラムである「素粒子」を、短く評論をしているだけで、他意は無いと弁解したとテレビ朝日のニュースが伝えた。馬鹿を言ってはいけない。そんな軽口のような冗談を夕刊の題字の下と言う最も目に付く所に書くなんて言語道断である。訴えたい事だからそのような場所に書いたのではないか。それに冗談ならもっと上等であるべきだ。品位を疑わせて何の疑問も持っていない。

 先の遺族の死刑囚との面会の記事は、光市の母子殺人事件での遺族である本村洋さんの記者会見の記事とまるで表裏関係になるような配置であった。最高裁が審理を広島高裁に差し戻した06年4月18日の事である。
 「裁判が終わるまでいかなる文、手紙も読みません。謝罪の気持ちがあるなら裁判の後にして欲しい」「自分の命を失う恐怖を通じて、与えた罪の重さを知る契機になれば」と言うのが本村さんの真意である。
 表裏関係になったのは多分偶然だ、と思っていたが、今回の「素粒子事件」での朝日の態度を見ると、やはり殺された被害者の事はまるで考えていない事が明確に分かった。殺人鬼の肩を持つかのような発言に、国民は激怒すべきだと私は思う。