夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

台湾産の「国産うなぎ」と「もったいない」の関係

2008年06月21日 | Weblog
 20日の東京新聞のコラム「筆洗」に国産と偽った台湾産のうなぎの話があった。
 普通の商品にならない幼魚、通称ビリを輸出して「里帰り」させた形にしていたが、実際には日本に“実家”の無い、ただの台湾産が多く含まれていたと言う。
 これは初めての事で、しかも量はわずかだそうだ。だからか、同紙はとても同情的に「ビリも活用しないと、もったいない、の思いからだろうが、それで信用に傷をつけたことの方が、よほどもったいない」と締め括っている。まあ、この話はこの程度の話ではある。初犯でしかも微量。ただ、この話ちょっとおかしい。

 なぜかと言うと、ビリは普通には商品にはならないと言う。それを台湾に輸出して里帰りさせれば、立派に商品になる事になる。それはれっきとした産業であり、「活用しなければもったいない」との話にはならない。それに、ここに「日本に実家の無い台湾産」が絡んで来る。それは「もったいないの思い」とは全く関係が無い。悪く言えば巧妙に話をすり替えているし、良く解釈すれば勘違いをしている。

 それだけではない。ここに二度出て来る「もったいない」に私は違和感を感じた。
 最後の「信用に傷をつけたことがもったいない」は、確かにそう言える。「もったいない」とは、「真価を発揮出来ずに惜しい」の意味である。この信用に傷を付けたのは愛知県一色町。養殖うなぎの生産日本一だと言う。だから、信用に傷を付けて「もったいない」。
 だが、信用を大切にしようとするなら、このような偽善行為は最初から念頭には無いはずだ。台湾産が混じっていた事に気が付かなかったとは言えない。結果的には明白になっているのである。この事は「活用せずにもったいない」などと言う甘い事ではない。台湾産を国産と偽ったのである。国産は安全でしかも旨いとみんなが認識をしている。まあ、台湾産は安全性は確保しているとしても、旨さまで確保出来ていると言えるのか。うなぎの養殖がそんなに簡単に出来るなら、高価な商品だけに、誰だって手を出すはずである。

 先日、近所のスーパーで中国産と銘打ったうなぎを買った。非常に安い。店員に聞くと、中国でもきちんと検査をしているから安全で、しかも同店でも独自の検査をしていると言う。騒がれた後の方が安全なんですよ、それに、国産と偽った中国産もありますからね、とも言う。そのうなぎにはその店の安全性の証明書が付いていた。
 物は試しと買った。だが、味はいまいちだった。こってりとした旨みが無い。確かにうなぎではあるが、非常に淡泊で、うなぎを食べたと言う充実感がまるで無い。

 一色町が信用を傷付けたのは少しももったいなくはない、と私は思う。身の丈に合った事をしたまでの事である。もったいない事をしたのではなく、馬鹿な事をしたのである。
 そして、台湾産が混じっていた事を、ビリを活用しないともったいない、と擁護するのはとんでもない。これは全く、船場吉兆の女将の方針と寸分違わず同じである。もったいないから次の客に回したと言うが、ぼろ儲けを出来ないのが惜しいから、が正解である。汚い根性を満足させられないから惜しい、と、真価を発揮出来ずに惜しい、はまるで次元が違うのである。
 吉兆の料理はきちんと真価を発揮している。食べなくても、それが客の前に出ただけで、その料理は十分に真価を発揮したのである。自分の店がそうした店である事をこの女将は十分承知している。にも拘わらず、料理を二度使いさせようと汚く考えたのである。

 台湾産のうなぎは、堂々と台湾産と名乗ってこそ、真価を発揮出来る。台湾産が国産うなぎの真価を発揮出来ない事くらい、小学生にも分かる。いや、台湾産だって、十分国産うなぎと言えるくらい旨いのだ、とでも言いたいのなら、JAS法は悪法だから是非とも改める必要がある。我々は「国産」の言葉にそれだけの価値を認めているのである。もっとも、牛肉の場合には、「国産牛」はその地位を譲って、「和牛」が最高位になるが。
 「もったいない」を安易に使い過ぎると、その意味がいい加減に処理されてしまう危険性がある。このコラムがそれを端的に示している。昨日は「対話」と言う言葉のいい加減な意味の横行を書いたが、世界から素晴らしい言葉だと絶賛されている「もったいない」も、うっかりすると、同じ境地に立たされる。新聞だからこそ、言葉をもっと慎重に使うべきなのだ。私、今、東京新聞、好きなんですよ。