夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

秋葉原通り魔事件で「容疑者」の言い方に疑問がある

2008年06月11日 | Weblog
 秋葉原の通り魔事件で、七人の死亡が確認された段階でも、毎度の事だが、「容疑者」と呼ばれているのが、どうにも腑に落ちない。確かにまだ罪は確定していない。しかし殺人を犯しているのは確かな事実なのだ。5分後に取り押さえられ、殺人未遂の現行犯で逮捕された、と新聞は伝えている。逮捕された時はまだ「殺人未遂」だが、それでも「現行犯」である。殺人と明確に分かった段階では「殺人の現行犯」になった訳だが、それでもなお、「容疑者」呼ばわりをする。
 十何年も前になるか、それまで「犯人」扱いをしていたのに、人権の保護の観点からだろうが、「容疑者」と呼ぶようになった。罪が確定していないから「容疑者」なのらしい。罪状は明白になっても、「容疑者」なのだから。
 この事件の場合は、「加藤智大容疑者」になるが、「加藤智大」と呼び捨てにするのではないから、ずっと丁寧な印象になる。私はまるで敬称付きで呼んでいるように思う。全くあほらしい。誰が見たって、七人もの命を瞬間的に奪った殺人鬼である。「殺人犯加藤智大」とでも呼ばなければ、不公平極まる。それだってまだ生ぬるい。「殺人鬼加藤智大」である。
 司法は常に殺された人間よりも殺した人間の方を大事にするように見えて仕方が無い。

 10日のテレビでは、仲間の二人が死亡した青年が取材され、慟哭しながら語っていた。「彼を一人で死なせる訳には行かない。自分もそばに行きたい」と訴えたのに、警察官は「君が行っても意味が無い。彼は今手術中で、入れないんだ」と答えたと言う。
 こうした時に冷静になれる警察官と言う存在に私は非常に恐ろしさを感じる。恐らくは死に掛けていると青年は思っている。だからこそ、見捨ててはおけない。その心情が警官には理解が出来ない。そして事件の情況を問いただしたと言う。
 青年だって何が何やら分からなかったはずである。そんな時に情況を聞いて、それが以後の立件に役立つとでも言うのか。今するべき事は、一人でも多くの人の命を救う事に全力を投入する事に決まっている。誰が考えたって、そうだ。
 それなのに、自分の警察官としての任務だけに忠実になれる人間を私は信じる事が出来ない。

 同じ日のテレビ朝日の昼のニュース番組では、コメンテーターが事件の背景を解明して、再発を防ぎたいと語っていた。馬鹿な事を言うものではない。7年前の池田小の8人殺害事件で、犯人の犯行の背景を解明して、それが事件の再発の役に立ったとでも思っているのか。役に立たない証拠を現に目の前にしておきながら、こんな発言が出来る。前の日の別のニュースワイドでは、あるコメンテーターは言葉が詰まって、ほとんど何も言えない状態だった。それで当然なのである。役にも立たない事を冷静にしゃべるコメンテーターを、私は信用出来ない。
 この番組を私はまるで信用していない。以前、川内康範氏と森進一氏のおふくろさん騒動で、二人が新幹線ですれちがったと言う話を面白おかしく仕立てていた。新幹線のダイヤまでテロップにして、騒ぎ立てた。そんな事、二人は新幹線ですれ違ってしまった、と一言するだけで十分だ。更には、川内氏の手紙のある一部分だけを五回も繰り返し見せての展開だった。馬鹿な事をするなあ、と思っていたから、私はしっかりと数えて見ていた。この手紙では別の所にもっと重大な事、川内氏がなぜあのように怒ったのか、その理由を解き明かす事が書かれていたのに、多分、言葉が難しかったのだろう、番組はそれを取り上げなかった。自分が分からないから無視したのである。
 これでは司会者が馬鹿に見えてしまって気の毒だ。番組制作者の怠慢である。