夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

「徳光和夫の感動再会」に感動してしまった

2008年06月12日 | Weblog
 TBSテレビの「徳光和夫の感動再会“逢いたい”」を初めて見た。この手の番組は苦手なのだ。今日は見たい物がほかに何も無くて、だいたい、夕食時にテレビを見ながら、などと言うのは良くない事なのだが、無言で、も嫌だし、そうかと言って、私は喋りだすと、止まらなくなる習性がある。それでチャンネルを回した(でも、今はこんな言い方はおかしい。チャンネルは、今や、リモコンのボタンを押す、しか無いのだ)。
 テレビと言うとすぐに思い出すのは、秋篠宮妃殿下の父上の発言である。「うちにはテレビがありませんので」とおっしゃったのである。さすがに、ビートたけし氏も驚いた。「あまりテレビを見ませんので」なら分かるが、テレビがありません、なのだ。でも、素晴らしい家庭だと、私は思う。

 余計な事を言ったが、「感動再会」だが、失明は時の問題だと言う女性が、子供の時の水泳のコーチに逢いたいのだと言う。それは「決して諦めるな」と教えてくれたコーチなのだ。スイミングクラブの移転やコーチ自身の転籍などで、消息はなかなかつかめない。そしてやっと分かった消息。さて、コーチは逢いに来てくれるのか。扉の向こうにそのコーチが居る。
 扉を開ける寸前にCMになる。それは予期していた事だが、その時に入ったのはアサヒビールのCMだ。私が同社の社長なら、烈火のごとく怒る。なんで一番いい所に我が社のCMを入れるのか。
 CMが入る事は分かっているが、入ったCMに、私なら絶対に反感を持つ。人を感動の寸前にまで持って行っておきながら、お預けをくらわすとは何事か、と。視聴者は犬じゃないんだ。もっとも、そうしたCMのスポンサーが我々を犬並みにしか思っていないのであれば、話は別だ。こうして、以後買わない事に決めた商品は山ほどある。でもそれで一向に困らない。

 案の定、その再会シーンは感動的だった。パラリンピックを目指すと言うその女性の願いは、再びその元コーチ、今は公務員になっている彼に指導してもらう事である。そして彼は彼女の応援をする約束をしたのである。
 恥ずかしい話だが、鰻丼を食べながら、不覚にも私は涙を流してしまった。だから、こうした番組は嫌いなのだ。

教育の再生とは何か

2008年06月12日 | Weblog
 きのうのブログで、流蛍さんに賛同して、教育の再生が必要だと言った。ただ、私の教育とは青少年の教育だけを指すのではない。世の中のすべての人々を対象にした教育である。通り魔の殺人者は厳格な家庭に育ち、そこから大きな挫折が生まれる事がある、と10日のテレビ朝日で説明をしていた。土浦の通り魔事件と共通しているのだと言う。
 家庭での厳格な教育はもちろん、賛成である。そして両親は、そうした厳格な教育に対応出来得る人間でなくてはならない。つまり、子供に対して厳格なだけではなく、自分自身にも厳格でなければいけない。
 自分に厳格であれば、果たして子供に十分目が行き届いているかを反省する事も出来るはずだ。酷い言い方とは思うが、この事件では親の目配りが足りなかったと、私は思う。子供の一挙手一投足を見ていれば、それが分かる。分からなくては親の資格は無い。
 厳格さと言うのは、当然ながら、愛情に裏打ちされたものであるべきである。子供が何に悩んでいるのか、察する事の出来ない愛情なんて存在しない。たとえ分からないとしても、分かろうと努力するのが愛情である。

 結局、歪んだ性格の人間が育ってしまっている。人間がその性、善なる存在だとは思わない。十分に悪の心も持っているはずだ。だが、その悪をいかに増やさないよう、外に出さないように抑えるか、それが教育だと思う。もちろん、教育は学校だけではない。家庭でも社会でもしなければいけない。その教育とは上から与えられる物ではなく、互いに与え、与えられる物である。親だって子供から学ぶべき事は数多くある。誰もがそうした存在のはずである。
 ところが、人はえてして、功なり名遂げると、慢心してそれを忘れてしまう。その典型的な例を我々は日常茶飯事に見ている。政治家がそう、裁判官がそう、弁護士がそう、高級官僚がそう、財界人がそう、マスコミがそう。もちろん、それぞれ、その一部の人の事である。ありとあらゆる所でその現実を目の当たりにしている。彼らは自分の考えを発信する事にだけ熱心で、他者の考えを聞こうとする心を持たない。

 東京新聞のコラム「筆洗」に、柳田邦男氏の言葉を引いて、「思いやりの心の磨耗」だとあった。まさにその通り。思いやりの心がどこかに消えてしまっている。福田首相は、諸物価の値上げを「しょうがない」と言って、批判を浴びた。舛添大臣は原爆症患者の全員を保護するつもりは無いと言い切って、思いやりの無さを如実に見せてくれた。この人はテレビの「TVタックル」だったか、庶民的な面を見せて人気を博し、議員に当選して、そして大臣になった。あの顔は一体何だったんでしょうね。ごみ出しをしている姿を拝見した事はあるが、それは同氏の家庭の問題に過ぎない。年金問題では国民をペテンにかけたしね。
 余計な事だが、私のパソコンの日本語変換ソフトでは、何度やっても「ぎいん」と入力すると「偽印」になる。まさに「偽印」にふさわしい議員諸先生が大勢いらっしゃる。

 そして我々庶民もすっかり思いやりの心が無くなってしまっている。私の住んでいる所は柄が悪いのだろうが、道の真ん中に堂々と自転車をとめて買い物をする主婦が少なくない。すべて自分さえ良ければそれで良し。私はそのたびに、「誰だー、こんな所に自転車を置くのは」と大声を挙げるが、何の返答も無い。周囲にその主婦以上の思いやり欠如人間がいなければ、彼女は永久に目が覚めない。私はたくさんのチェーン錠を買い込んで、そうした無法自転車にことごとく鍵を掛けて回りたいくらいである。我ながら心の狭い事よ、と嫌になるが、こうした人間は一度嫌と言うほど痛い目に遭わないと、本当に目が覚めないのである。いや、案外、喉元過ぎれば、の性格かも知れない。だからごきぶりのように生活力も旺盛なのだろう。ホント、ごきぶりだよ。

 これまたつまらない事だが、おととい、私はプールから帰って来て、突然左手首が痛くなった。原因が分からない。仕方なく、湿布薬を貼って寝た。そして夜中に突然、思い出した。25メートルの間に誰もいない事を確認して、私はクロールで泳ぎ始めた。本当に向こう側にはその時、誰も居なかったのだ。
 ところが、あとわずかで25メートルと言う所で、ビート版につかまって浮いている女性にぶつかったのである。クロールでは、左右どちらかの手が必ず一番前にある。だから左手がその女性に当たったのだ。正統的なクロールでは前方など見ない。見るのは左右の水面ぎりぎりの所だ。したがって、コースロープは位置が分かるように色分けがしてある。だから前に邪魔な人間がいたって分からない。
 そこは自由に泳げるコースだったが、水中に入る以上は、そのコースに誰か泳いでいないかを確認するのは当然の義務である。つまり、自分の事しか見えない。我々は常に自分勝手な人間に囲まれて生活をしているのだと自覚している必要がある。悲しい事だが、それが現実である。

 私は交差点の横断歩道では、必ず左側の歩道の所で待つ。右側では無法な車が突進して来た場合に、避けるのが難しいが、左側ではまだ余裕がある。電車のホームでは出来るだけ先頭には立たない。地下鉄日比谷線で対向車と衝突した事故があってからは、対向車側には座らない。先頭車にも最後部にも乗らない。車内では居眠りをしない。本なども読まない。常に周囲に気を配って乗っている。自転車に乗っても、常に前後左右に目を配っている。無法人間はそれこそどこにでも居るのである。
 そんな事をしていても、駄目な時は駄目だ。それは十分承知している。でも、努力だけはしていたい。