夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

新記録の出るスピード社の水着に疑問あり

2008年06月13日 | Weblog
 今や、スピードの水着が時の話題である。次々に新記録を樹立している。選手もその素晴らしさを喜んでいる。しかし私は、待ってくれと言いたい。スピードを生み出すその心地よさに感動するのは分かる。分かるが、それはちょっと話が違うのではないか。
 私の一番の趣味は水泳である。足ひれ(フィン)を着けた時のそのスピード感は本当に感動的である。いつもの倍以上の速さで泳げる。つまりは、一流の選手とほぼ同じようなスピードで泳げるのである。体に当たる水の強さも全く違う。まるで激流の中で、流れに逆らって泳いでいるような感覚がある。そうか、一流選手はこんな感じで泳いでいるのか、と実感出来る。
 クロールは手のかきが8割で、足のキックは2割程度の力しか無いと言われている。なのに、足ひれを着けると、キックがほぼ10割と思えるほどになるのである。手のかきなど、何の力にもなっていない、と私には感じられた。それくらい、足ひれの効果は大きい。

 へっぽこが足ひれを着けた時の素晴らしさと、一流選手がスピードの水着を着た時の素晴らしさが似ているのではないか、と私は思う。つまり、足ひれが出すスピードは完全に道具による効果であり、スピードの水着が出す記録もまた、道具による効果である。
 だから、待ってくれ、と私は言いたいのである。足ひれを着けたへっぽこの「倍くらいの速さ」とはまるで違い、1秒とかの差の問題ではあるが、借り物による1秒である事は間違いないはずだ。
 それはへっぽこの足ひれと同じではないか。つまり、同じくらい卑怯な手段ではないのか。世界の一流選手が水着に頼ってはあまりにも情けないではありませんか。
 北島康介選手よ、お願いだから、水着に頼るのはやめて欲しい。あなたの素晴らしさは世界が認めている。この上、何も水着などで記録を縮める必要は無いではないか。もし、その水着を着た選手と競って破れたとしても、あれは水着のせいだ、と笑ってやれば良いではないか。くやしかったら、普通の水着で勝負しろと。
 もちろん、これが「みみずのたわごと」であるのは百も承知である。

 前にも書いたが、高価な水着を着用出来ない選手が居るのだから、自分もそうした水着は着ないで泳ぐ、と言って、見事な泳ぎ振りを見せた外国選手が居る。それこそ金メダルにふさわしい選手ではないか。我々は、そうしたスポーツマンの精神を競技で見たいのである。0コンマ何秒かの記録争いを見たいのではないのである。
 日本のバレーボールの素晴らしさに感動した。監督がコートにひれ伏してしまったあの感動的な場面を私は決して忘れない。そうした力と技の素晴らしさに比べて、この水着による記録の何と情けない事よ、と私は勝手に思っている。
 もっとも、全員がこの水着を着る事になれば、あとは実力の勝負になる。そしてそれは、上げ底での実力争いになる。上げ底に何の意味もありはしない。
 つまり、こんな水着が出来てしまった以上、この水着を着る事が最低限のルールになる。もしかしたら、スピード社の画策にうまく乗せられたのか。

 記録は破られるためにある、と、誰だったか忘れたが一流選手が言った。そう、記録なんてそんな物なんですよ。でも、素晴らしい精神は誰もが決して忘れはしない。それを我々に見せてくれるのが、あなたがた超一流選手ではありませんか。北京オリンピックで水着のお陰で世界新記録が出ても、私は全く感動しないだろう。これからも水着で競うなら、私は以後は水泳競技は見たくない。せいぜい自分で泳いで楽しむ事にしましょう。