壁際椿事の「あるくみるきく」

東京都内在住の50代男性。宜しくお願いします。

『賭ける魂』、型を築け、そして捨てよ

2010年11月24日 | 読書(文芸、フィクションほか)
『賭ける魂』(植島啓司著、講談社現代新書)を読みました。著者は大学の宗教人類学の先生で、ギャンブル好きの方です。

本書冒頭、「競馬と精神文化」をテーマに神戸新聞のベテラン記者の取材を受けたことを紹介し、こんなくだりがあります。
「なぜ競馬を(他のギャンブルより)特に好きになったんですか?」
「それは馬という生き物のせいでしょうね」(中略)
われわれが競馬に熱中するのは、生命が不断に連続していて、それがけっして「死」によって中断させられるようなものではないということを確信したいからではないか。(中略)
競馬はよく競輪や競艇と一緒にされることが多いのだが、むしろ闘牛や闘鶏にきわめて近いのである。(引用終わり)

宗教人類学者ならではの分析です。

が、しかし、本文中で以降、ご自身の競馬経験を何度も述べられていますが、自分が買った馬券の根拠として、血統に触れられていないなぁ、という印象を抱きました。

●序文より、「生きるとは「いま」を生きることである」
●たとえ客観的な可能性は五分五分でも、信じることなくして、勝てることはない。
●ギャンブルで強いのは、(敵に、そして運の神に悟られないよう)自分の型を持たない人間であろう。
●運は、ある水平ライン上を上下しているのでない。長い目で見れば一方的に下降していく。(ラインは水平でなく右肩下がりだ、ということです)

そういえば、阿佐田哲也氏の本にも、「若い頃は運をも力で引き寄せられたが、年を取るとそうはいかない。だから、8勝7敗。大きく負け越さず、凌ぐことが大切だ」という記述がありました。

本の趣旨とは離れますが、P147、医者との応答は笑えました。これぞ、「the対症療法」でしたから。「いや、別に何も間違っているいるわけじゃない。」(引用)。医療かもしれないが仁術でない。

クールなギャンブラーには、矛盾しますが、信じ思う熱い心も必要なんです。