古代中国では儒学者が医者を兼ねることもありました。奈良時代の日本には僧医がいました。中世のヨーロッパでは、修道院が病院も兼ねていました。だったら、デカルトが医学についていろいろやっても、不思議ではないのかもしれません。
【ただいま読書中】『デカルト医学論集』ルネ・デカルト 著、 山田弘明・安西なつめ・澤井直・坂井建雄・香川知晶・竹田扇 訳、 法政大学出版局、2017年、4800円(税別)
デカルトの「医学」に関する5つの論文「解剖学摘要」「治療法と薬の効能」「動物の発生についての最初の思索」「味覚について」「人体の記述」が集められた本です。デカルトが生きた17世紀は、西洋医学が大きく変わりつつあった時代でした。古代ローマ時代のガレノスが立てた医学が中世全体を通じてヨーロッパを支配していましたが、そのうち、解剖学はヴェサリウスによって否定され(1543年『ファブリカ』)、生理学はハーヴェイの「血液循環論」(1628年)によって否定されました。そんな時代に生きていたデカルトは33歳の1629年に友人に「解剖学の勉強を始めたいと思っています」と手紙に書いています。実際に彼は「哲学者」であると同時に、毎日のように動物の解剖実験などを行う人でもありました。そういえば『方法序説』にも血液と心臓の運動の話が取り上げられていましたね。ただ、私の記憶では、あの本ではハーヴェイの考え方にデカルトは否定的だったようですが。
「解剖学摘要」は仔牛の解剖です。心臓や血管、食道などの解剖について詳細に述べられますが、デカルトはスケッチが下手です。言葉は実に精細に使っていますが、心臓内部や脳の構造などのスケッチは、まるでデカルト座標の上に展開された数学的な図形のようです。鶏の卵が受精後1日ごとにどのようにヒナが育つか、の解剖記録は労作です。2日目には心臓が出現、10日目には肝臓、12日目には脾臓、と記録されていますが、ニワトリの脾臓ってどんなのでしょうねえ。
デカルトの時代にはまだ顕微鏡は「物珍しい道具」であって「学術的な器具」ではありません。だからでしょう、動物の発生については「精液」が重視されています(卵細胞は見えないから「存在しないもの」だったのでしょう)。おっと「母胎(今のことばだったら「子宮」)」ももちろん大切だとされていますが。あとは奔放な想像力が駆使されます。「精細な精液」「粗大な精液」「両親の精液」……あら、母親からも精液がやって来るようです。
デカルトの意見では、人体には「3つの炉」があり火が燃えているそうです。炉があるのは「心臓」「脳」「胃」。「熱いハート」で火が燃えているのは直感的にわかりますが(というか、ガレノス以前の古代ギリシアの医学でもこれは言っていたはず)、胃の炉とは? おそらく食物を胃が熱処理して吸収している、ということでしょう。「消化酵素を使えば炉は不要だよ」と教えてあげたら、デカルトさんは喜んでくれるかなあ?
本書は非常に面白いのですが、この面白さを私と同じレベルで楽しむためには、ガレノス医学・ヴェサリウス・ハーヴェイについては知っておいた方が良いでしょう。でないと「昔の人は変なことを言っていたものだ」で片付けられて、もったいないことになりそうです。ただし私自身はデカルトについてはあまり詳しくないので、“そちらの方の面白さ"は味わえていないでしょうから、あまりエラそうなことは言えませんが。