【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

半世紀前はいくつ昔?

2017-11-09 06:53:31 | Weblog

 今日の本の出版社を見て私は静かに驚いています。今は安倍首相の御用新聞になってしまったところにも、半世紀前にはジャーナリズムの気骨が生きていたらしいので。

【ただいま読書中】『現代史の目撃者』デーヴィド・ブラウン/リチャード・ブルナー 編、内山敏 訳、 読売新聞社、1968年、460円

目次:「N・Y・タイムズとキューバ侵攻事件」「25年かかった特ダネ」「自動車の中でスクープ」「“ベルリンの壁”の下の地下道」「ヒトラーがここで寝た」「虎穴に入らずんば……」「不可視人間をさがせ!」「キューバ革命の初期のころ」「氷島とアラスカ犬の話」「原爆のナガサキ一番乗り」「1945年の門戸開放政策」「開闢以来最大のニュース」「最後の元帥杖」「独裁者がさかさ吊りになった日」「グアム島での二日酔い」「スターリンからの二通の手紙」「東京の謀略戦」「シャルル・ドゴールと会う」「ナチスを出しぬく」「ヒトラーの計画を阻止した記事」
 歴史的な「特ダネ」を得た記者たちの裏話です。
 「N・Y・タイムズとキューバ侵攻事件」では、特ダネを掴んだ記者と本社の間の論争が結構開けっぴろげに語られています。CIAが亡命キューバ人の進歩派(すでにキューバでの地下工作を進めていた)ではなくて右派(暴力的で、亡命キューバ人社会でもキューバ本国でも不人気なグループ)に肩入れして、成功の見込みがひどく少ない計画を進めていることは、フロリダでは明々白々でした。しかしニューヨークはそんなことは信じません。いくらか事実があるにしても、それを報道したら政府を非難することになります。ということで記事を載せるために記者は苦闘します。ところがいざ事態が起きてしまうと、こんどは周囲のマスコミがでっち上げや憶測記事を派手に打ちあげるものですから、事実に基づいた記事しか送らない記者は本社から「なぜもっと派手な記事を書かないんだ」と非難されます。書いても非難され、書かなくても非難。やれやれ、です。そして後日談として、政府首脳は「NYタイムズが事前にもっと書いていてくれたら、失敗する作戦に乗り出さずにすんだのに」と責任転嫁をしてきます。まったく、とほほ、ですね。
 本書にある「特ダネ」は、すでにすべて「歴史」となっています。厳密には「歴史のこぼれ話」。ただそこに見える人の心の働きや行動は、今とそれほど変わりません。規制や検閲に対しては、知恵を働かせ抜け道を探し、世界にどうやって「真実」を伝えるか記者たちは必死に動き回っています。こういったダイナミックさがある限り、「特ダネ」は生まれ続けるでしょう。



特ダネ

2017-11-08 07:04:40 | Weblog

 昔から不思議なのは、新聞記者が「特ダネ」に非常にこだわっていることです。一紙しか読まない読者には「それ」が「特ダネ(他紙には載っていない記事)」かどうかはわからないのですから。そうそう、そういった特ダネにこだわる新聞記者が、官庁では記者クラブで安穏と横並びになっているのも、不思議です。

【ただいま読書中】『僧兵盛衰記』渡辺守順 著、 吉川弘文館、2017年、2200円(税別)

 僧兵の起源はずいぶん古いようです。5世紀の中国では寺院から武器が見つかった記録がありますし、大乗仏教の経典「梵網経」には「寺に一切の武器を置くことの禁止」が書かれています。
 荘園が発達すると自衛手段が必要になります。寺院所有の荘園の場合、その自衛手段が僧兵だったのでしょう。また、平安時代前期に天台宗叡山で後継者争いが激化したときにも、僧兵が活躍しました。南都六宗の双璧は、興福寺と東大寺ですが、この両者は激しく争っていました。それが結果として「僧兵(集団)」の隆盛につながります(わずか一反の土地争いで死者が出た例が紹介されています。「一所懸命」は寺でも同様だったようです)。
 藤原氏の氏神である春日社(現在の春日大社)の神人(じんにん、春日社の下級神職)の存在も重要でした。この神人は「国民」とも呼ばれ、雑人の「大衆(だいしゅ)」とともに奈良の僧兵の有力メンバーとなります。興福寺は春日社を支配していて、興福寺の雑人と春日社の神人が合体して「僧兵」の本格的な活動(強訴、神木動座)が始まりました。
 天台宗の「山門(延暦寺)」と「寺門(圓城寺)」の座主あるいは戒壇設立をめぐる長い長い抗争(僧兵同士の騒乱)は、死者が出たり堂塔が消失したりの「損害」を生じましたが、両派の争いによって優れた人材が輩出されました。基本的に山門の側が格が上で僧兵も数が多かったので、寺門側は「学」で対抗しようとしたのです。しかし寺門出身の座主は短命に終わる人ばかりです。叡山の大衆には貴族出身者が多かったため、貴族間の争いがそのまま寺に持ち込まれたのでした。全然「出家」になっていません。
 院政時代になると、南都と北嶺の争いが恒常的に起きますが、そこでも抗争の主力は僧兵でした。神輿が“大活躍”したのは、日吉社です。「神輿振り」と呼ばれ、北嶺の僧兵活動として特筆される働きをしています。朝廷は都に入れないように平氏や源氏の武士に命じますが、結局押し切られているところを見ると、僧兵の“武力”は武士並みだった、ということのようです。
 南都と北嶺の争いに困った白河法皇は、七つの社に平和祈願をしていますが……この「社」が騒乱の火種そのものではありませんか?
 都で南都と北嶺が正面衝突をしたら「戦争」ですから、朝廷はとにかくことを穏便に鎮めようとしました。また、都と朝廷の警備のために、武士を活用します。滝口の武士や北面の武士はこうして誕生し成長しました。
 興福寺は藤原氏の氏寺で、その別当(現在の管長)には関白の子弟が多く就任しました。そして、興福寺や春日社に対して反逆的な振る舞いをした藤原氏の氏人に対して、僧兵たちの会議が「放氏」という制裁を下すことがありました。これは「藤原氏からの追放」を意味します。これは「弱い部分を切って強い藤原氏を残す」という意味もあったようですが、鎌倉〜室町時代には22件四十余名が追放されたそうです。ただ、南北朝頃から僧兵の力は弱ってきました。武士が力をつけ、朝廷のようには幕府を動かすことが僧兵にはできなくなってきたのです。ただ、幕府は幕府で、農民一揆や国人衆(土着の武士団)への対応で忙しい思いをしていたのですが。
 戦国時代、加賀の一向一揆では僧兵が重要な役割を果たしました。また、筒井順慶・宮部継潤・安国寺恵瓊など僧兵出身の大小名もいました。しかし織田信長の「叡山焼き討ち」「一向一揆の殲滅」によって「僧兵の最期」が訪れます。
 「僧兵」と言えば、強訴によってやたらと都人を困らせる存在、というイメージを私は持っていましたが、もっとダイナミックに日本の歴史を動かしていたようです。ただ「僧」と「兵」とはミスマッチだと私には思えるんですけどね(少なくともお釈迦さんは喜ばないでしょう)。



国鉄

2017-11-06 21:10:49 | Weblog

 国が所有する鉄のことでしたっけ?

【ただいま読書中】『人はどのように鉄を作ってきたか ──4000年の歴史と製鉄の原理』永田和宏 著、 講談社ブルーバックス、2017年、1000円(税別)

 「製鉄は簡単だ」と著者は言います。砂鉄と木炭、あとはホームセンターで手に入る材料で「炉」を組んだら数時間で「鋼塊」を得ることができるそうです。もっとも「簡単だ」と言えるようになるまで4年間の試行錯誤が必要だったのですが。
 純鉄の融点は摂氏1536度。銅は摂氏1084度ですから、青銅器時代が鉄器時代に先行したわけがわかる気がします。ただし鉄に炭素を溶解させると凝固点降下が起きて最大1154度まで融点が下がります。これは銅の融点に近いので、青銅器文明を確立できた人類にとっては「鉄と炭素」の組み合わせさえ発見できたら鉄器文明への移行は割と容易だったはずです。
 鉄は温度によって結晶構造が変化します。また、同じ温度からでも、急冷すると焼き入れによって硬度が増し、ゆっくり冷やすと焼き鈍しで軟らかくなります。つまり、同じ「鉄」でも、様々な特性を持った製品が作り出されるのです。
 製鉄の歴史を著者は「炉の高さ」で二分します。1)炉高が1mで、固体のまま低炭素濃度の鋼塊を作る製鉄法 2)炉高が2m以上の溶鉱炉法(2はさらに鋼の融点直下で完全に溶かさず銑鉄を脱炭して「錬鉄」を作る方法と、1856年ベッセマーが発明した転炉以降の、溶解した鋼を作る方法に二分されます)。溶鉱炉法でできる銑鉄は炭素の含有量が多いため、脱炭する必要があります。また、16世紀以降には高価な木炭ではなくて安価な石炭が加熱に用いられるようになりましたが、石炭の硫黄が赤熱脆性(900度くらいでもろくなる)の原因になるという問題があり、加熱炉では石炭、脱炭炉では木炭が用いられました。
 古代エジプトのピラミッドからは紀元前3000年頃のビーズの飾りが発見されていますが、それには隕鉄から作られた鉄が使われていました。小アジアのアナトリア地方では紀元前2500〜2200年前の前期青銅器時代の王墓から隕鉄で作られた鉄剣が発掘されています。隕鉄は、製鉄の手間は省けますが、非常に硬くて加工は難しいしろものです。当時アナトリアに住んでいたプロト・ヒッタイトの人々は、高度な技術を持っていたようです。
 産業革命から後、ルツボ炉、反射炉(パドル炉)、転炉など、様々な炉が開発されました。そのたびに、鉄が含むリンや窒素などの不純物が問題となります。「製鉄」と一口に言っても、事態は非常に複雑です。スクラップのリサイクルも、この「不純物」が問題となります。特に最近の鋼材は様々な用途に特化したものがあって、それをまとめてスクラップとすると不純物だらけになってしまうのです。それでも、鉄鉱石からの製鉄よりは二酸化炭素排出量が削減できるので、無駄にはできません。
 製鉄の原理そのものは、実は400年前から進歩していないそうです。進歩したのは「規模」。以前には考えられなかった大量生産が可能になりました。また、木炭の節約は顕著です(400年前には銑鉄1トンを作るのに木炭が5トン必要だったのが、現代では550kg)。
 そうそう、「不純物」として酸素があります。脱炭の過程で酸素を高速で吹きつけて炭素を燃焼させますが、残った酸素が溶解して一酸化炭素ガスの気泡として残留することがあります。これは強度を低下させるため、こんどはアルミニウムを投入して酸素と反応させて固体のアルミナにして酸素を完全除去します(アルミキルド鋼と呼ぶそうです)。しかしこんどはアルミナの一部(特に微小粒子)がスラグに吸収されずに鉄の内部に残ります。これは、細い鋼線や薄い鋼板で破壊の起点となることがあります。話はやはり複雑です。
 日本では「たたら製鉄」が有名ですが、実際にその技術を保存している人たちは、著者の研究申し込みを断ったそうです。ただ、時に詳しく調べる機会を与えられることがあり、その時には著者は大喜びで科学的なデータを取っています。
 いつかテレビで、刀鍛冶に弟子入りした人が、熱した鉄塊に鍛造を始めるタイミングがつかめず苦闘していましたが、鍛冶屋が目安にしたのは「湧き花」と呼ばれる、鉄の微粒子が燃焼してできる細かい火花だそうです。人間の「眼」を「温度計」にして作業をするわけですが、これは教えてもらわないとわかりませんよねえ。
 本書の最後には(私には)「電子レンジ製鉄」が登場します。材料の混合物を入れたルツボを電子レンジで「チン」すると、鉄ができちゃうのです。金属を「チン」しちゃって良いのか?と私は仰天ですが、内部から急速に加熱されるためか、従来の製鉄法よりも不純物を少なくできるそうです。これが産業レベルで実用化されると、「製鉄」はまた姿を変えるのかもしれません。



第4の権力の使い方

2017-11-05 19:25:52 | Weblog

 独裁者ってマスコミを攻撃する傾向がありますが、御用新聞は“身内”として扱う傾向がありますね。ということは、マスコミに対してそういった二面性を示す権力者に対しては、その主張の内容以前にその態度から警戒心を抱いた方が良い、と言うことに?

【ただいま読書中】『チャップリンとヒトラー ──メディアとイメージの世界大戦』大野裕之 著、 岩波書店、2015年、2200円(税別)

 1889年4月16日チャールズ・スペンサー・チャップリン誕生。1889年4月20日アドルフ・ヒトラー誕生。わずか4日違いでこの世に登場した二人は、51年後にそれぞれ別の世界で「独裁者」として君臨することになります。
 1940年6月23日ヒトラーは「征服者」として前日陥落したばかりのパリに入りました。そのニュースが世界中を巡った6月24日、ハリウッドでチャップリンは「独裁者」のラストシーンの撮影に入りました。あの有名な「演説のシーン」です。まだ「中立国」だったアメリカではヒトラーを「反共の砦」「破綻状態のドイツを救った英雄」とする見方もあり、この「演説」は「危険な企て」でした。実際、チャップリンはあちこちから(身内からさえ)否定的な見解や脅迫さえ受けます。
 本書では「誕生日が近い」「ちょび髭」「芸術家を志した」「ショーペンハウアーの読者」といった「共通点」だけに注目するのではなくて、二人の「メディア」を「戦場」とする「闘い」をテーマとしています。「メディアでの闘い」は、歴史上この二人によって大規模な戦闘が初めて開始され、それは現代のインターネットでの「闘い」に引き継がれているのではないか、が著者の見解です。
 チャップリンの「キッド」は世界50ヶ国以上で上映され、史上初の世界的大ヒット映画となりました。また「チャップリン」という「キャラクター」が世界中で真似されるようになりました。つまりチャップリンは「映像メディアの世界化」「キャラクター・イメージの発明」という二つの偉業を成し遂げたわけです。
 ナチスははじめはチャップリンを無視していました。しかし1926年、突然「攻撃」が始まります。最初は「ドイツで『黄金狂時代』を論じた映画人がすべてユダヤ人だ!」というものでしたが(実はユダヤ人ではない人も混じっていましたが、そんなことはお構いなしの攻撃でした)、それはすぐに
「チャップリン・ユダヤ人説」「チャップリン個人への人格攻撃」になります。ただイギリスの戸籍を調査した結果では、その説には根拠はないようです(「ロマ」の血は混じっているようですが。また、チャーリーの異父兄のシドニーの父はユダヤ人だと兄弟は信じていました(これまた確定的な根拠はないようですが))。ただ「ユダヤ人は滅ぼすべき“敵”である」「チャップリンはナチスの敵である」「したがってチャップリンはユダヤ人である(でなければならない)」という“三段論法”をナチスは使ったのでしょう。ドイツ国内だけではなくて、アメリカでの「担へ銃」再公開を「チャップリンはドイツの敵」と非難し、ブルガリアでの再公開にはドイツ大使が抗議して上映禁止にしています。
 1927年はじめにトーキー作品「ジャズ・シンガー」が公開されます。「映像」が「音声」を持ちました。これにより、チャップリンもヒトラーも運命が変わります。本書では「ヒトラーの職業は『演説家』『扇動家』」とされます。しかし、プロパガンダで聴衆を熱狂させるテクニックは天才的なものでしたが(チャップリン自身、ヒトラーのプロパガンダニュース映画を見て「ヒトラーは天才的な役者だ」と評しています)、個人演説会では聴衆の数に限界があります。しかしトーキー映画を使えば、全国に自分の影響力を及ぼすことができるのです。ヒトラーはそれを見逃しませんでした。このメディア戦略によって33年にナチスは政権の座に上り詰めます。
 トーキーが大流行となった世相に反して、チャップリンは「街の灯」をあえて「サイレント」で撮影しました。ただし自分が作曲した曲を散りばめて「サウンド版」として「芸術家チャップリン」の新境地を開きます(「サイレント映画のチャーリー」というキャラの変容(没落)を恐れてのことでした)。そして31年にチャップリンは世界一周旅行に出発。その途中に「小さな政府、物価統制、貿易は国際主義、労働時間短縮、最低賃金を上げる、ヨーロッパ通貨の統合」といった主張を盛り込んだ経済論文を執筆します(世界恐慌発生の数週間前に株をすべて売り抜けていることを見ると、チャップリンの経済感覚は相当のものだったようです)。ドイツを訪問すると、群集は大歓迎でしたが、ナチス系の新聞は激しくチャップリンを非難し続けました。最後に訪問した日本では5・15事件が起きますが、チャップリンも暗殺の対象とされていました(対米開戦の口実にできる、という目論見だったそうです)。
 33年ヒトラーは首相に任命され「平和外交・国際協調、ヴァイマール憲法の遵守、多党制の維持」などを謳いますが、言葉と行動は見事に正反対であったことは歴史を見ればすぐわかります。そしてゲッペルスの宣伝省は様々な検閲を本格的に開始しますが、チャップリンの映画も「全面禁止」とされました。その理由は「チャップリンはユダヤ人だとナチスは信じていた」「チャップリンが平和主義者で、その主張が大衆に人気がある」「ヒゲ」と著者は考えています。(ちなみに、チャップリンは「ユダヤ人だという非難」に対してまったく反応しませんでした、これは「自分はユダヤ人ではない」と反論することがユダヤ人差別の主張と重なってしまうからでしょう(「自分はユダヤ人ではないから問題はない」と言うことは「ユダヤ人には問題がある」と言うことに等しいからだ、と推定していたのは、誰だったかな。何かで読んだのですが、タイトルを忘れました)。「ヒゲ」はたしかに「イメージ」を気にするヒトラーには大問題でしょう。「自分の個性」であるはずの「ちょび髭」をチャップリンが(それも自分より先に)つけているのは、文字通り体面にかかわります。だから映画だけではなくて、ポストカードや書籍もすべて販売が禁止されました。さらに「チャップリンが盗作をした」キャンペーンと嫌がらせ訴訟を起こします。ところがドイツ以外の国では「二人のヒゲ比べ」が堂々と行われました。もちろん「笑う」ためですが、ヒトラーにとっては「他人に笑われること」は許しがたい侮辱でした。
 チャップリンは『独裁者』で「独裁者」を描写しましたが、この構想は初めてではありません。実は1920年代から「ナポレオン」を映画化しようと真剣に計画を練っていたのです。それも「反戦」の立場から。しかし様々な事情から計画は中断。チャップリンは「別の映画」を撮ることにします。「独裁者」と「チャーリー」とをチャップリンが一人二役(イギリスのミュージック・ホールでの定番ギャグ)で演じ、「独裁者」はセリフを喋り「チャーリー」はパントマイムで演じることで、風刺と「チャーリーをトーキーに順応させる」ことの一挙両得を狙います。ところがその噂が流れると、ドイツはもちろん、チャップリンの母国イギリスも妨害運動を起こします。まだ撮影前なのに「イギリスで公開できるものかどうか検閲するから脚本をよこせ」との要求です。アメリカでも「ドイツを刺激してはならない」という人びとから抗議や脅迫の手紙が続々と。
 39年、ついに開戦。ドイツは連合国の「敵」になります。しかし「独裁者」を制作するな、というチャップリンへの圧力はさらに増しました。こんどは「反戦のメッセージ」が危険視されたのです。しかし「全体主義へは『笑い』が武器になる」と、チャップリンを支持する人もたくさんいました。
 構想段階から、チャップリンが残した下書きや口述筆記や脚本の没原稿、撮影してもカットされた場面なども参照しながら、著者は「独裁者」を精密に分析していきます(即興にも見える「地球儀とのダンス」も精密に流れが組み立てられていることは私には意外でした)。しかし、せっかく撮影されたのに捨てられた場面が多いのには驚きます。私の中のもったいないお化けが騒ぎますが、でもそうすることでチャップリンは「テーマ」をくっきりと浮き彫りにしていったのです。こうしてチャップリンが推敲と編集に苦闘している間、戦局はどんどん厳しくなります。すると世論とマスコミは“手のひら返し”をします。「チャップリンはすでに完成している作品の公開をしぶっている」と勘違いして、「早く公開しろ」とチャップリンを非難するようになったのです。1年前に自分たちが何を言ったのか、マスコミには記憶力がないようです。記憶力ではなくて、恥の概念と自尊心かもしれませんが。
 編集、再編集、再撮影、再編集、またもや再撮影……そしてやっと公開。批評家たちは一斉に酷評。右派は「共産主義的だ」、左派は「生暖かいセンチメンタリズムに過ぎない」、映画専門の批評家は「『チャーリー』のキャラに合っていない」と。しかし、観客は絶賛し最後の演説は大衆が愛する名文句となり、前年公開の「風と共に去りぬ」を越える大ヒットとなります。
 ちなみにイギリスの批評家たちは「笑いこそがナチスへの武器だ」と、アメリカの斜に構えた批評家とは一線を画しています。
 結局「メディアの戦場」では、チャップリンがヒトラーに勝利しましたが、これには“後日談”があります。アメリカの右派はチャップリン攻撃を続け、とうとうアメリカからの追放に成功してしまったのです。よほど彼の主張が気に入らなかったのでしょう。「機動戦士ガンダム」には「貴公はヒトラーの尻尾だな」という名台詞がありますが、アメリカにも「ヒトラーの尻尾」はたくさんいたのですね。そして、ネット上の発言を見ると、現代にも「ヒトラーの尻尾」はうようよしているようです。



音が出なくなったスマホ

2017-11-04 20:32:17 | Weblog

 家内が「落としたら、音が出なくなった」とスマホを見せに来ました。たしかにラジオアプリでも音楽アプリでも音が出ません。ところがためしにイヤホンをつないでみたら、ちゃんと音が聞こえます。スピーカーの問題? ところが電話をかけてみたら着信音はちゃんと鳴ります。するとスピーカーの問題ではなさそう。一体何が?
 ちょうど電気店に用があったので、ついでにアップルの修理コーナーで見てもらおうと二人で出かけました。ところが「本日の受付は終了しました」の張り紙が。休日なのですでに予約が一杯なのです。困ったなあ、と受付前で二人で困ってみせていると、受付の女性が「どうしました?」と。そこで予約を取るつもりで相談をすると、大体の症状を聞いて「もしかしたら、アプリの不調かもしれません。ラジオアプリを一度削除してまた入れてみたらどうでしょう?」と。早速その場で(というか、受付から数メートル離れたところで)アプリ(らじるらじる)を再インストールすると、ラジオがスピーカーで聞こえるようになりました。ついでに音楽アプリも復活しました。無料で直して下さって、ありがとうございました。礼。

【ただいま読書中】『雑多なアルファベット』エドワード・ゴーリー 作、柴田元幸 訳、 河出書房新社、2003年、1000円(税別)

 先日『うろんな客』で気に入った作家の本です。「アルファベットの本」だと、私の一番のお気に入りは『ABCの本』(安野光雅)ですが、あれとはずいぶん雰囲気が違います。本の体裁は実に小ぶりで絵もわざと小さくしているのかと言いたくなるくらい小さなものです。そして、そしてそれに添えられた二行詩が、またちょっとだけ捻りがきいてはいますが、あまりに短いので「ちょっとだけの捻り」が実に微妙な効果を出しています。このまま真っ直ぐ成長させたら「わび・さび」の世界に突入できるのではないかな。
 たとえば「W」は「The way to Hell / Is down a Well」(訳文は「地獄の道も 井戸から」)。なんとなくにこにこできます。「小さな幸せ」をそのまま「本」にしたもの、と私は言っておきましょう。



2017-11-03 07:04:39 | Weblog

 サシの入った柔らかい牛肉とかトロを食べるとき、私たちは「肉」ではなくて「脂」(あるいは両者の“ブレンド”)を味わっているんですよね? だったら「肉」「魚」を食べている、ではなくて「脂を食べている」と言うべきでは?

【ただいま読書中】『続・英国脱出』リチャード・ローマー 著、 矢野徹 訳、 集英社、1978年、1200円

 カナダはえらいことになってしまいました。これまで抑圧されているという意識が強かったフランス系カナダ人が「英国人が大挙して押し寄せてくる」という知らせに危機感を募らせ、ケベック州にこれまであった分離独立運動に爆発的に火がついてしまったのです。ケベック出身のカナダ首相は、自身はフランス系の愛国者意識が強いため分離独立運動には肯定的ですが、連邦の首相としては「カナダ」がばらばらになることを放任できません。しかしフランス系カナダ人の抑圧意識は、なんと200年前まで遡っています。
 ここで非常に印象的なのは、ケベック州首相とカナダ首相およびカナダ副首相との話し合いが「政治の分離」と「経済での共同市場」とを「両立可能なもの」とすることを大前提としていることです。たとえケベックが政治的にカナダから独立したとしても、共同市場が維持されるのなら「カナダ(およびケベック)」が被る損害は最小限にできる、という理性的な計算です。「分離」は「感情」で行われますが、そこから何かを救い出すのは「理性」のようです。
 イギリスの内閣も分裂します。アメリカに北海油田開発を乗っ取られるという危機感を目の前の危機よりも感情的に優先する人たちが内閣から去ります。ここでも「アメリカの言いなりになってたまるか!」という「感情」が強く機能しています。危機のまっただ中で腰を据えて議論をしていて良いのかなあ、なんてことを私は思います。
 かくしてカナダでは、ぼろぼろになった内閣の再編成とケベック州では住民投票が行われます。そして「国家解体」を「暴力沙汰」ではなくて「外科手術のような手つき」で行うための委員会が発足します。ここで面白いのは「国家」が「一枚岩」ではないことです。当然のことですが、国家は「国民」によって構成され、国民は「各個人」なのです。だから異論や不協和は「あるのが当たり前」なのでした。
 ただ、ちょっと「不協和音」が混じってきます。国際的な政治パニック小説だったはずなのに、なぜか『ジャッカルの日』のような描写が挿入されるのです。このままだとカナダも英国も「行くところ」まで行ってしまいそうですから、「場面転換」のためのなにか「衝撃」が用意されているのかな、なんてことを私は思います。さてさて、カナダと英国の「民主主義」と「民族主義」は、どんな道をたどっていくのでしょうか?



2017-11-02 06:42:36 | Weblog

 車検の代車で軽自動車に二日ほど乗りました。前回の車検の時にも別の軽が代車で、あれはずいぶんきびきび走ったので軽を見直したのですが、今回のはどうも鈍重であきらかに馬力不足の印象でした。軽と言っても色々なんですね。

【ただいま読書中】『英国脱出』リチャード・ローマー 著、 矢野徹 訳、 集英社、1978年、1200円

 73年『最後通告』74年『エクソン接収』に続いて75年に発表された作品です。期せずして、私は著者のデビュー作から順々に読んでいるようです。
 今回窮地に立たされるのはイギリス。イスラエルにこっそりと武器を輸出したのがばれてサウジアラビアが激怒、アラブの産油国が一致してイギリスに投資していたオイルマネーを「全額」引き上げるというのです。それも即日。これはサウジなどにとっては痛手です。巨額の損失が生じますから。しかしイギリスにとってはもっと痛手です。「破産」を意味するのですから。さらにサウジは「金がない国には原油は輸出しない」と断言します。経済恐慌+オイルショックです。英国首相はアメリカ大統領に電話をします。経済援助の懇願と同時に、大量移民の受け入れを。経済崩壊と原油不足と食糧不足に見舞われる予定の「破産した国」からは最低600万人のイギリス人が国外移住をする見込みで、その多くはアメリカを目指す予測がすでにあるのです。それを聞いてアメリカ大統領は焦りまくります。
 『日本沈没』では「日本列島の住人すべて」に海外移住の必要がありましたが、こちらも大変な騒ぎです。いくら「大英帝国の絆」があるにしても、100万単位での移民を打診されたカナダもあたふたします。英語を話す人間が大量に流入することを嫌ったケベック州(フランス系の住民が多い)が、独立宣言をしそうなのです。ところがカナダ西部の州は人手を欲しがっていて、連邦が移民を受け入れないのなら自分たちは独立して独自にイギリスからの移民を受け入れる、と決議します。イギリスの災難によってカナダはバラバラになってしまいそうです。
 イギリス首相は、面と向かっての交渉のため、カナダ、アメリカ、そしてイランを巡る旅に出ます。しかし飛行機が不時着。各地で暴動が起きているイギリスは戒厳令を敷き、首相抜きで難局を乗り切らなければならなくなります。アメリカを訪問しているイギリスの大蔵大臣に対してアメリカ政府は「北海油田をきちんと開発すること(イギリスにできないのなら、アメリカがするぞ)」と要求します。
 さあ、大量の移民は受け入れられるのか。分裂の危機にあるカナダはどうやって州同士の関係を修復するのか。そして、イギリスはどうやってこの破産状態から立ち上がろうとするのでしょうか。



カクテルの不思議

2017-11-01 07:06:50 | Weblog

 前菜に「シュリンプ・カクテル」がありますが、これって飲み物でしたっけ? どう見ても「海老」そのものなんですが。

【ただいま読書中】『カクテルの歴史』ジョセフ・M・カーリン 著、 甲斐理恵子 訳、 原書房、2017年、2200円(税別)

 人類の文明の歴史の多くの部分は、アルコールの歴史と重なっています。1万年あるいはそれ以上前に都市国家を築き始めたのと同じ時期に、ヒトは自然発酵をしているアルコール飲料を発見し、ビールやワインを製造するようになりました。やがて「蒸留」技術が発見され、アラビア世界で精密な蒸留器が作られて「蒸留酒」が生まれます。一般大衆が買えるくらい安い蒸留酒の最初は「ジン」。ジャガイモや麦芽の澱粉から作られジェニパーベリーで香りづけされたジンは、最初は「薬」でしたが、18世紀前半のイギリスで「ジンの伝染(貧しい人びとの間での過剰摂取)」を起こしました。カリブ海の島々で糖蜜から作られた蒸留は、はじめはランブリオン(rumbullion)(イギリス南部の俗語で「飲み過ぎたあげくのどんちゃん騒ぎ」)と呼ばれましたが、のちに「ラム」と短く呼ばれるようになりました。アメリカでは大量に収穫されるようになったトウモロコシからコーン・ウイスキーが安く作られます。
 現在の「カクテル」は、アフリカの奴隷貿易・カリブ海のサトウキビ・アメリカのトウモロコシが揃ってから誕生しました。cocktailは本来「雑種の馬(雑種だとわかるように尾を切られている)」を意味しました。アメリカでは、強い酒に砂糖やビターズを混ぜた新しい飲み物が好まれ、それが「カクテル」と呼ばれるようになりました。禁酒法以降では、二つ以上の材料を混ぜたミックス・ドリンクがカクテルと呼ばれるようになります。アメリカでは「強いこと」「冷たいこと」がカクテルの必須条件でした。
 カクテルの原型はインドからやって来た「パンチ」です。インドのヒンドゥスタニー語の「panch」は「5」で、本来のパンチがアラック酒・砂糖・レモン・水(または紅茶)・スパイスの5つの材料を使ったことを示していたそうです。アジア以外ではアラック酒は入手困難なため、バーテンダーはかわりにラム酒を使いました。ベンジャミン・フランクリンはパンチを讃える詩を書いていますが、そこではジャマイカ・ラムが讃えられています。イギリスの上流階級もパンチに夢中になりましたが、そこでは中国の磁器のボウルが用いられるのが決まりでした。カリブ海からの果物が輸入されるようになると、それもすぐにパンチに導入されます。
 19世紀のアメリカでは、カクテルは「男の飲み物」でした。酒場で男だけ集まって飲んでいました。ただし労働者階級が集まる酒場では、手っ取り早く酔える酒が好まれていました。
 19世紀の終わりが近づくと、カクテルはアメリカから全世界に広がり始めました。国際定期航路の普及や第一次世界大戦でアメリカ軍が渡欧したことも、カクテルの国際化の後押しとなります。そこで貢献したのはイギリス海軍でした。彼らはパンチをインドからヨーロッパにもたらしましたが、ピンク・ジンとジン・トニックも生み出したのです。さらにヨーロッパのバーテンダーたちが創意工夫を加えていきます。それぞれに「誕生秘話」を持つカクテルが、次から次へと登場し、消えていきます。面白いのは「ブラッディ・マリー」の変種で、「日本酒、トマトジュース、醤油、ワサビ」で作る「ブラッディ・マル」です。どんな味なんだろう? もちろん、ジェームズ・ボンドの「ドライ・マティーニ」も登場します。
 そうそう、本書には『博士の愛した数式』(小川洋子)も紹介されます。あの本に「カクテル」が出てましたっけ?
 19世紀末、反酒場運動や禁酒運動によってアメリカでは「カクテル」に「夕食前のノンアルコールの一杯」「カクテルグラスに盛った前菜」という意味が付加されました。「シュリンプ・カクテル」はこの「新しい言葉の意味」によって登場したわけです。