桝添さんは、税金や政治資金を扱うに当たって、独自のポリシーがあるようです。きちんとした「ポリシー(政策)」を持つとは、さすが政治家!
【ただいま読書中】『ルポ 風営法改正 ──踊れる国のつくりかた』神庭亮介 著、 河出書房新社、2015年、1800円(税別)
2010年ころから、まず大阪で、ついで全国で風営法を厳格に適用した「ダンス規制」が行われるようになりました。各地で若者が集まるダンスホールが閉店に追い込まれ、ついで中高年に人気の社交ダンスもそのターゲットにされます。警察は「人が集まると風紀が乱れる」「大量殺人が起きるかもしれない」「ダンス教室を許すと、水着の女子高校生と抱き合って踊ることが流行するかもしれない」とその行動を説明します。大量殺人? だったら通勤の駅も規制します? 水着の女子高生? それは誰かの願望が投影されていますか? タンゴをアルゼンチン文化とするアルゼンチン大使も「あきれた」という意味の外交官的発言をしています。
警察の行動が「おかしい」と思った人々は行動を始めます。風営法を「ダンス規制法」と呼び変え、「カラオケは規制されないのに」とわかりやすい比較を置き、「2012年から中学体育でダンスが必修となってるよ」とこれまたわかりやすいイシューを引っ張り出す戦略で、署名運動などは盛り上がっていきます。
「クラブを規制しろ」と警察に熱心に働きかけた人たちの中には「クレイジークレイマー」(宮台眞司)も存在していました。「保育園の声がうるさい」と文句を言ったり「電車で隣に乗った男の息が臭い」と110番通報する人たちの仲間です。もちろん、本当に迷惑を受けていて困っている人もいるのですが。
明治政府は「盆踊り禁止令」と「鹿鳴館」で西洋の社交ダンスを推奨しようとしましたが、「男女が公衆の面前で公然と抱き合うのは汚らわしい」という評価から、ダンスに「不健全」のイメージが日本ではずっと貼り続けられることになります。警察は「ダンスホールの内部は外から見えてはならない」という構造上の規制をしますが、いかがわしいから規制が必要なのか、規制されるからいかがわしくなるのか、ちょっと不思議な話になってしまいます。私は「外から見える」方が健全なダンスになると思うんですけどね。結局1940年にすべてのダンスホールは閉鎖となります。戦後に復活したダンスホールは、占領軍相手の商売もあり、キャバレーとの境界が曖昧なものになっていました。48年には風俗営業法が制定されます。規制の目的は「売春」と「賭博」。ところが規制される職種は、売春宿は外され、カフェー・キャバレー・麻雀屋などとダンスホールとされました(「売春防止法」は1956年です)。その後、ビリヤードが外されパチンコやナイトクラブや深夜喫茶が加わったり、規制の対象は少しずつ変わっていきますが、「青少年の健全育成」と「性産業への規制」は不変でした。70年代後半にはディスコが大ブームとなりますが、それに対する締め付けが始まると、アンダーグラウンドで「クラブ」が流行します。変な言い方ですが、「クラブ」は風営法が育てた、とも言えます。
取り締まる側も大変です。騒音苦情・110番通報・薬物や傷害事件などから、まずはみっちり内定調査、次いで警告、それでも事態が変わらなければ摘発、という手順を踏んでいます。著者は警察庁の理事官にロングインタビューをしていますが、警察には警察の事情があることがよくわかります。ダンスには「光」と「影」があります。犯罪がらみのダンスホールも確かに存在しています。しかし、健全なダンスホールの摘発は、被害者がいないところに犯罪を成立させるわけですから、警察官の中には「困ったものだ」と思っている人もいるようです。しかし法律は法律。だったら法律を変えれば良い、ということになります。そこで、クラブ「NOON」の経営者金光は、署名運動を起こすと同時に法廷闘争を始めました(ほとんどの店は、逮捕されたら略式起訴でさっさと罰金を納めてしまいます)。この法廷でのやり取りが、爆笑ものです。どのくらい笑えるかは、ぜひ本書をお読みください。そして、驚きの判決が。ここで示される判決文のロジックは、シンプルで、ラディカルです。(ただしまだ最高裁の判決が出ていないので、確定ではないのですが)
国会議員も、法律改正に動き始めました。ところがそこに、警察の大逆襲が。ここに書かれているその手口は、すごいものです。しかし、改正運動側もまた反撃を試みます。このへんの丁々発止は、なかなかスリリングです。さらに、不合理な規制を笑いものにしようとする「テクノうどん」という試みも。これは「踊っているのではなくて、音楽に合わせてうどんを踏んでいるだけです」という運動です。手ではなくて足でこねるからうどんに腰が出ます。で、踊り終わったら、もとい、踏み終わったら、そのうどんを美味しく頂きます。
江戸時代には、三大改革なんて妙なものがあったと私は日本史で習いました。今から数百年後に、日本史で「平成の改革」なんて項目があって、そこで「憲法解釈の変更」とか「ダンス規制」なんてものが扱われているのではないか、と私は思っています。好意的に扱われていたらいいんですけどねえ、(私たちが江戸時代の政治家の行為を見て言っているように)「昔の権力者は、変なことを平気でやっていたんだなあ」なんて言われているのだったら、ちょっと辛いなあ。
「大きなお願いだからお賽銭をはずもう」という人は、「たくさん払うのだからその見返りは当然期待できる」と期待しています。
「こんなに謝っているのに許してくれないのか」と文句を言う人は「これだけ謝ったのだから、当然それに見合った見返りがあるべきだ」と考えています。
「こんなに愛しているのに……」という人は「愛」によって何か“対価”が得られると考えています。
「祈り」「謝罪」「愛する」は、コスパを考えてする行動でしたっけ? 「賽銭」「謝罪」「愛情」は“投資”に用いる“通貨”でしたっけ?
【ただいま読書中】『分身』(ドストエフスキー全集1収載)ドストエフスキー 著、 江川卓 訳、 新潮社、1978年(80年2刷)、1500円
冴えない九等文官のヤコフ・ペトローヴィチ・ゴリャートキン氏がごそごそと目ざめるところから本作は始まります。なぜか正装をして身分違いの馬車に乗ってお出かけです。行き先は、かつてゴリャートキン氏の後ろ盾だった国政参事官(五等官)ベレンジェーエフ氏の屋敷。氏の一粒種のクララ孃の誕生パーティーが開催されるのです。ゴリャートキンは自分こそクララにふさわしいという自負を持っています(そう思っているのはゴリャートキンだけなのですが)。だから出かける途中で店に寄って新居にふさわしい家具などを物色し予約してしまいます。プロポーズは受け入れられると信じ込んでいます。しかしゴリャートキンは招待されていませんでした。入邸を拒絶され、強引に侵入し、丁重にしかし断固とした手つきでたたき出され、雪降る夜のペテルブルグを絶望を道連れにゴリャートキンは駆け抜けます。まるで惨めな自分自身から逃げるように。だけどゴリャートキン氏自身が、人の悪口が大好きで他人に無礼で自分には甘いという、見事な嫌われ役だったのですが。
夜のペテルブルグは異世界でした。そこでゴリャートキンは不思議な人物とすれ違います。よく知っているのに知らない人です。その人は堂々とゴリャートキンの住居に入っていきます。同じ外套、同じ顔、同じ仕草……彼はゴリャートキンの「分身」だったのです。
分身は、ゴリャートキンの職場にも「新参者」として登場しました。職場の誰もその存在を怪しみません。「見た目も名前も同じ人物」が二人職場にいるという「不思議さ」を誰も怪しまないという「不思議さ」が物語を支配します。
さらに新ゴリャートキン氏は有能で人当たりが良く(つまり大して有能でもなく当てこすりばかり言って人に敬遠をされている本来のゴリャートキン氏の裏返しのような存在で)、あっという間に人気者になってしまいます。ただしどちらも自意識が肥大しているところは共通しています。ともあれ、(本来の)ゴリャートキン氏はどんどん“居場所”を失っていくのです。
ここでかっとなったゴリャートキン氏が新しい分身を殺したら自分も死んでしまった、とかのパラドックスになるのかな、なんてことを一瞬私は想像しますが、ゴリャートキン氏はそこまでの“勇気”はありません。相変わらず当てこすりの連呼で現実を変えようと努力をするだけで、結局“現実”はどんどん(ゴリャートキン氏にとっては)悪化する一方です。その分他の人の環境は改善されていくのが皮肉ですが。かくして馬車に乗せられたゴリャートキン氏の行き先は……
タイムマシンで過去や未来に行ってそこの自分自身にであるのはタイムパラドックスの原因とアイデンティティの危機になってしまいますが、本作ではタイムマシン抜きで「パラドックス」とアイデンティティの危機を招いてくれました。どうしてこんな発想ができたのかなあ、と私はひたすら感心するばかりです。ドストエフスキーと言ったら「長い!」が定番ですが、本作は非常に短いので、ドストエフスキー入門としても使えるかもしれません。
アインシュタインの有名な式「E=mC^2」を見ていて「光子のエネルギー」はどうなるんだろう、なんて変なことが気になりました。光は波でもあり光子でもあります。そして、「光子」は波ではなくて粒子です。だからもしも光子のエネルギーが存在するのなら光子の質量は存在することになってしまいません? それとも光子のエネルギーに関しては、光子の速度を用いて計算してはいけなかった?
【ただいま読書中】『光と人間 新装版』大石正 編、朝倉書店、1999年(2015年新装版)、1800円(税別)
最初の口絵に載せられた夜景の写真が印象的です。シカゴはナトリウム灯でオレンジ色の夜景です。東京は水銀灯と蛍光灯で「白い夜」。パリはブロックで色合いが変えられていて「デザインされた夜景」。都市の“ポリシー”の違いなんでしょうね。
哺乳類は「光」の影響を受けて生きています。特に繁殖に関するホルモンは、「日が長くなる」「日が短くなる」に反応して分泌されたりされなかったりします。最適な時期に繁殖をするために「光」を用いている、ということです。人間の場合には繁殖時期はありませんが、それでも哺乳動物ですからそういった「光の影響」は体内に残されています。
哺乳類の目はけっこう特殊な構造をしていますが、その中でも霊長類の目は、桿体と椎体細胞があって色がわかる、という特徴を持っています(一部の昼行性哺乳類も色覚を持ちますが、2色性色覚で、霊長類は3色性色覚なのだそうです)。
「光」は、ふつうは(闇と対比して)好ましいものと扱われます。しかし、怪し火・鬼火・人魂なんてものもございます。日本各地には「あかり」「火」に関する妖怪がやたらと存在しています。満月の光も、狼男の変身と結びつけられると突然妖しいものになってしまいます。
黒体は温度が低いときは赤く、温度が高いと青白くなります。それを「色温度(単位はK(ケルビン))」で表現します。日中の太陽光は、太陽からの直進光と空や雲に反射や散乱をした空からの天空光に分けられます。直進光は、日の出日没時には3000K~南中時には5400Kと変化します。天空光は気象に左右され、晴天青空は12000K、曇天時は6500Kです(ちなみに、白熱電球は2800K、蛍光灯の昼光色は5700~7100K、電球色の蛍光灯は2600~3150K)。日の出日没時は直進光より天空光の方が優位なので高色温度の環境となり、昼間は直進光が圧倒的になるため低色温度の環境です。これは私にとっては意外な指摘でした。昼の方が色温度が高いと思っていましたので。こういった「自然のサイクル」の下で私たちは進化してきたわけですが、最近になって人工光の中(「暗すぎる昼」や「明るすぎる夜」)で生活をするようになりました。色温度や光の強さの違いによって、体温調節や睡眠など、人体はけっこう影響を受けるようです。最近だったら、スマホやパソコン画面の白色LEDを見つめることでも、何らかの影響を私たちは受けているのではないでしょうか。
色彩もまた、人の感情や文化に影響を与えます。ただ、本書のどちらかと言えば無味乾燥な記述を読んだら、かつて「色彩論」で激論を交わしたニュートンとゲーテは、一体どんな感想を持つでしょうね?
熊本の震災などで避難民が出るのは「自然災害のせい」です。この避難民はつまりは「(一時的な)ホームレス」と言うことも可能でしょう。ところが、「一時的」ではなくていつまで経っても避難生活を強いられているのは「自然災害」ではなくて「人災」だと言えそうです。「ホームレスは支援しない」と社会が言っているわけですから。それとも、まさか、一部の日本人に大人気の「自己責任」ですか?
最近報道に無視されていますが、シリアの難民もまた「人災による大量のホームレス」ですよね。それともこれもまた「自己責任」ですか?
【ただいま読書中】『クリと日本文明』元木靖 著、 海青社、2015年、3500円(税別)
先月読書した『タネをまく縄文人 ──最新科学が覆す農耕の起源』(小畑弘己)に、縄文人は栗を植樹したのではないか、と書いてあったと私は記憶しているのですが、では本当に栗は日本人にどのような意味を持った植物なのか、と興味を持って本書を手に取りました。
クリは「実」に注目してしまいますが「クリ材」もまた有用なのだそうです。つまり、食糧としてと林業としてクリは重要なのです。ただしこの「クリ」は「シバグリ」です。今私たちがふつうに「クリ」と思っている「丹波クリ」は江戸時代頃から日本に普及しました。こちらは「実」の方が注目されて「木材」の方はそれほど大切にされていない様子です。さらに昭和30年頃にクリタマバチが全国でクリに甚大な被害をもたらしましたが、その被害は丹波栗よりはシバグリの方がおおきく、ますます「クリ=丹波栗」となりました。
全国一の栗栽培は茨城県ですが、そのほかの具体的な事例として、熊本県が登場します。大正年間に先進的な農家が「水田+クリ」という複合経営にチャレンジします。これが成功して追随者が現れ、昭和初期の農村恐慌期にはますます栗栽培が増えていきました。ただ、まだ県外への移出はそれほどでもありません。1960年ころ、クリ栽培は飛躍的に増加しました。「オレンジベルト(柑橘系の生産地)」を避けた中山間地域で、複数の農家が共同で原野を開墾したり畑をクリ園に転換して栽培面積を増やしていったのです。さらに熊本で特徴的なのは「共同販売」です。出荷先も、県内や北九州から大都市圏へと拡大しました。誰か優れたリーダーが絡んだ「物語」があるのではないか、と思いますが、そのことについては本書では深く追究をしてくれませんでした。
クリは粗放果樹だそうです。そう言えば、田舎に住んでいたときに家の目の前が栗林だったのですが、そこを熱心に手入れしている姿って見たことがありませんでしたっけ。だけど、手間をかけずに高く売れたらこんな美味しい話はないわけです。もっとも、価値の高い「大玉のクリ」を得るためには、木の管理(低樹高栽培、徹底したせん定)が必要になるのだそうです。楽してもうけることはできないようです。
クリはそのまま食べても美味しいものですが、お菓子にすることも可能です。本書には、クリ菓子メーカーがいくつか取り上げられてその特色が分析されています。私はクリ菓子はけっこう食べてきたつもりでしたが、知らないクリ菓子がまだまだたくさんあるので、ちょっと悔しい思いをしました。
クリは世界中に分布していますが、食用は、ニホン・チュウゴク・ヨーロッパ・アメリカの4種だけです。ただしアメリカクリは20世紀初めの病気でほぼ全滅しているそうです。全世界での生産は、20世紀後半はほぼ50万トンで安定していましたが、世紀末頃から急に増えています。(2011年は200万トン)。これは中国での増産によります。山地での農業振興、日本人によるニホングリの導入指導、日韓とのクリ流通増加(「天津甘栗」でしょうか)、などによって中国ではクリ栽培が盛んになった、ということのようです。クリも「グローバル」の一部だったんですね。
「余暇」の「余」の字は過剰ではないです? 「暇」はもともと「余っている時間」でもあるのですから。それとも「暇の中でも特に余っている時間が『余暇』」?
【ただいま読書中】『世界の露店』株式会社アフロ・株式会社ピーピーエス通信社・ゲッティイメージジャパン株式会社・松村大輔・能城成美 写真、PIE BOOKS 編集、パイ インターナショナル、2016年、1800円(税別)
最初のページから奥付の前のページまで、ひたすらカラー写真だけが並んでいる楽しい本です。写っているのは、各国の露店とそこで働く人の姿(働いていない店主もいますが)。それとお客さん(お客がいない店もけっこうありますが)。キャプションも「フランス/オリーブショップ」「インド/焼きとうもろこし店」「台湾(中国)/からすみ店」といった感じの、シンプルというか必要最小限のデータ提示のみ。読者は、写真を眺めながら200ページの世界旅行があっという間にできてしまいます。この旅の土産は、笑顔かな。
いや、本当に楽しいんですよ。たとえば「アルバニア/青果店(オレンジ)」では、オレンジはセダン型乗用車のトランクと後部座席にどさっとばらで詰め込まれています。店主はトランクと後部ドアを開いて「開店」しているのです。「モロッコ/エスカルゴ店」では、エスカルゴが大桶から脱走しようとしています。生きているんですね。ところが店主も客もそんなことにはお構いなしに売買をやってます。その隣のページ「インド/入れ歯店」では、砂浜の上に敷いたシートの上に部分入れ歯や総入れ歯が並べられているのですが、小さなやっとこなどもそのそばに置いてあります。入れ歯が上手く入らない場合、邪魔な歯を抜いてしまえ、ということなんでしょうか。いやいや、楽しい楽しい。
それと本書で印象的なのは「色」です。登場する人たちの肌の色は様々ですし、着ている服も商品も実にカラフルなのです。この世にあるすべての色が詰め込まれているのか、と言いたくなるくらい。
楽しいのは良いのですが、心配なのは衛生面です。どう見ても店主は手を洗ってはいないようなんですけどねえ。「パキスタン/焼芋店」だったら芋を丸ごと焼いているだけだから安心かな?
幸運の分布は不平等です。だからせめて挑戦する機会は平等であることが望ましいでしょう。
【ただいま読書中】『デッドボーイズ』リチャード・コールダー 著、 増田まもる 訳、 トレヴィル、1997年、2472円(税別)
『デッドガールズ』の続編です。
舞台は地球と火星。プリマヴェラは死に、イグナッツはプリマヴェラの子宮を持ち歩いています。未来にそこから、彼とプリマヴェラの娘が生まれてくるのです。
時空間が完全にねじ曲げられています。さらに叙述も、イグナッツの内省がそのまま環境に反映されているような状況になっていて、妄想世界を手探りで歩かされているような気分になってきます。
イングランドではクーデターが起き、「ドール(化した少女たち)」を狩り立てていた「人間戦線」は政権から退いています。しかし「デッドガールズ」に安息の日々は訪れません。彼女らを狩り立てる「デッドボーイズ」が登場したのです。その戦乱の日々の中、イグナッツとプリマヴェラの娘ヴァニティは未来からイグナッツに語りかけ続けるのです。
さらに「メタ」という存在が登場します。人類が自分の遺伝子を改変するように、メタは歴史や時空間を改変しようとします。いや、改変された歴史を元に戻そうとしているのかもしれません。話はどんどんややこしくなっていきます。
本書には残酷な描写が次々登場します。ハリウッド映画では、女性と子供の殺害シーンや拷問シーンは直接は描写しないお約束があるそうですが、本書ではそんなことはお構いなし。魔女狩りや異端審問や戦争などで人類がこれまでやって来た残虐行為が繰り返されます。つまり「人類の歴史」とは「残虐行為の歴史」でもあったんですね。読んでいて体のあちこちがずきずきします。
「は」を「ha」と読んだり「wa」と読みます。「お」と「を」はどちらも「o」と読みます(「o」と「wo」と読み分けている人は恐らくごく少数派のはずです)。「が」は濁音でも鼻濁音でも「が」です(鼻濁音が発音できない、聞いてもわからない人がすでに多数派かもしれません)。
よくもまあこんな“難しい言葉”を日々操っているものだ、と私は自分に感心します。
【ただいま読書中】『漢和辞典の謎 ──漢字の小宇宙で遊ぶ』今野真二 著、 光文社新書806、2016年、860円(税別)
昨日の『バイエルの謎』の次は「漢和辞典の謎」です。私は「謎」が好きなようです。
英語の辞書として「英和辞典」と「英英辞典」があります。だったら「漢和辞典」に対して「漢漢辞典」はあるのか?という疑問から本書は始まります。たぶん中国にならあるでしょうね。「漢語」を中国語(漢文)で説明した辞書です。
弘法大師が編んだと言われる『篆隷万象名義(てんれいばんしょうめいぎ)』が日本人が編んだ最古の辞典とされているそうです。これは「漢字の篆書や隷書」についての解説本ですが、まだ「漢漢辞典」です。平安時代初期の『新撰字鏡』が日本最初の「漢和辞典」となります。ただしまだ「仮名」は使われず、日本語の読みもすべて漢字で書かれています。鎌倉時代の『字鏡』はさすがに漢字と仮名とが使われて、だいぶ「辞書」らしくなってきています。まだ情報量は不足気味ではありますが。室町時代頃の辞書では「言語生活の中で使う」ことが意識されてきているようです。載せられる情報は増えますが、同時に「使わないもの」は削られるようになります。「見出し語が多ければ良い辞書」ではないわけです。
漢和辞典の使い方は、字画・部首・読みのどれかで探すことになります。ところがこれが結構難物。たとえば「部首」で著者は「一点しんにゅう」と「二点しんにゅう」の問題について熱く語ってしまっています。私だったら「草冠の字画は3か4か」について語ってしまうかもしれません。総画数もなかなか大変ですが、私は地道に指折り数えるか、さもなければ総画数に「○画~×画」と範囲を持たせてパソコンで文字検索をかけてしまいます。ありがたい時代になりました。
本書に登場する「漢字」「漢和辞典」に関する知識は、本当に豊富です。テレビのクイズ番組のネタ本にも使われるかもしれませんから、そういった番組に出る予定のある人は一読しておくと良いかも知れません。
ただし、本書で「漢字に関する部分」は大変面白いものでしたが、私は「ひらかな」のところで躓いてしまいました。本書では「です・ます」と「ある・である」が無秩序に混在していて、そこで引っかかってしまったのです。編集者は何も言わなかったのだろうか? そういった些末な謎が、気になります。
「ドイツ三大B」は、バッハ・ベートーベン・ブラームス、はクラシック音楽ファンにとっては基礎の基礎でしょうが(ちなみに私が好きな順は、ブラームス>バッハ>ベートーベンです)、日本人にもっともっと知られている(手に馴染んでいる)「ドイツのB」があることに気づきました。「Beyer(バイエル)」です。「大(偉大な作曲家)」とは言えないかもしれませんが、「基礎の基礎」でしょ?
【ただいま読書中】『バイエルの謎 ──日本文化になったピアノ教則本』安田寛 著、 新潮文庫、2016年、550円(税別)
一昨年8月26日に読書した『ブルクミュラー25の不思議』では「ブルクミュラーに関してほとんど知られていない」ことを知りましたが(というか、私が(私も?)知らなかったわけですが)、こんどは「バイエル」です。そう言えばバイエルについても私は何も知りません。というか、どの国にもきちんとした記録が残されていないのだそうです。
フェルディナント・バイエルはドイツの作曲家で、1803年(または1805年)にクヴェアフルトに生まれマインツの音楽出版社ショット社で働き1863年にマインツで亡くなっています。知られているのはこれくらい。有名な人にしてはあまりに“無名”です。著者は「日本文化としてのバイエル」を詳しく知るために“旅”に出ます。
1980年代末頃「バイエル批判ブーム」が起きたそうです。その主張の論拠は「バイエルは古い」「バイエルを使っているのは日本だけ」「バイエルは三流の作曲家」「鍵盤の一部分しか使っていない」「単なる指練習」……言われてみたら「そうか」と思わず頷きたくなる感じの主張の列挙ですが、それはあくまで感覚的なもので、「バイエル全否定」の論理的な根拠としてはちと弱い、というのが私の感想です。そもそもバイエルは「幼児のピアノ入門に、親が使うテキスト」として「バイエル」を出版しています。その「目的」にふさわしいかどうか、も論じて欲しいものだ、と門外漢の私は思います。
著者が調べた限り、バイエルのは「無視」か「酷評」の対象でした。当時の権威ある音楽事典などには「生没年不詳」「独創性も価値もないピアノ曲を精力的に書いた」「便利屋」「悪趣味」「素人の腐った趣味に貢献」などとすごいことが書かれています。ところが著者が調べると、たとえば「乙女の祈り」で知られるバダジェフスカも「ワルシャワで夭逝したことで、偽詩神の低俗な作品を世に広めないことに貢献した」などと酷評されているそうで、19世紀に起きたクラシック音楽の大衆化に対する「正統派」の異常とも思える反発がそういった「酷評」をもたらしたのだろう、と私には思えます。要するに「専門家」は「大衆(と大衆に“迎合”する作曲家)」がお嫌いだったのでしょう。
「バイエル本人」の追究に行き詰まった著者は「誰が日本に『バイエル』を持ち込んだのか」に調査の焦点を移します。定説では、明治13年にお雇い外国人のメーソンが「バイエル」を持ち込んで指導したことになっていますし、実際に音楽取調掛に提出された目録には「ハイエル・メトデ 弐拾冊」とあります。ちなみに他の楽譜はほとんどが1~数冊の購入なので「ハイエル・メトデ(=バイエル教則本)」の冊数は突出しています。しかしメーソンは唱歌の専門家でピアノは素人。では誰がメーソンにアドバイスしたのか、と著者はボストンのニューイングランド音楽院まで出かけて、そこでメーソンの同僚だったピアノ教師エメリーが音楽院のピアノ教習の初級課程でテキストとして使っていたバイエルを勧めたことの傍証を得ます。
そうそう、「20世紀になってからヨーロッパでは誰もバイエルなんか使っていない」という「反バイエル本」の主張を確認しようと、著者はウィーンでインタビューをして「戦後にバイエルでレッスンを受けた」という証言を引き出しています。ついでウィーンでバイエルの初版らしいものも発見。しかし確証はありません。
いろいろ調べて、ニューオーリンズの図書館に「バイエルの初版」らしきものの登録を発見。早速照会メールを送りますが、なんとハリケーンカトリーナの襲来直後。地下にあった音楽図書館は洪水で水没してしまったというのです。打ちのめされた著者は、何の当てもなくバイエルの生誕地クヴェアフルトを訪れます。ぶらりと町を一回りしてみますが収穫はゼロ。
かつて「ピアノ」は「新しい機械」でした。操作するためには「マニュアル」が必要ですが、それがつまりは教則本です。しかし難しい教則本は読みたくありません。特に子供に分厚いマニュアルは向きません。そこで「非常に簡単な教則本」の需要が発生しました。その需要に応えた(そして成功した)一人がバイエルだったのでしょう。クララ・シューマンは自身が受けたピアノレッスンを「静かにした手」と表現していますが、これは当時おこなわれていた「ポジション移動や指の交叉をしない運指」のことです。タイプライターで手がホームポジションから移動しないのと似た感じかな。そしてバイエルの前半部はまさに「静かにした手」のためのレッスン曲でした。
著者は別件で入り浸っていたイェール大学図書館の電子検索システムで試しに「バイエル」を検索してみます。するとニューオーリンズで失われたのと同じと思われる「バイエルの初版」の写真が。こうしてこつこつと資料を渉猟し、数年がかりで著者はついに「1850年8月30日マインツのショット社がバイエル初版を200部発行」を確定します。そして再度のマインツ訪問。そこで著者は、正しい情報と間違った情報に導かれて、「バイエルに関する一次情報」に出会ってしまいます。この瞬間が、書き方によってはもっとドラマチックにできたでしょうに、著者はずいぶん素朴な描写にしてしまっています。ま、それも一興なんですが。
「論語読みの論語知らず」という言葉がありますが、「他人の主張」や「ネットの情報」だけを頼りに何かを論じている人は、その「論語」を読むことさえしていないわけです。
【ただいま読書中】『デッドガールズ』リチャード・コールダー 著、 増田まもる 訳、 トレヴィル、1995年、2500円(税別)
4月27日に読書した短編集『アルーア(蠱惑)』の著者の長篇です。舞台はロンドンとタイ、短編集と重なっています。それもそのはず、著者はタイに住むイギリス人なのです。そして登場する「ドール」もまた『アルーア』でおなじみの存在です。それもそのはず、『アルーア』に収載されていた短篇「リリム」がそのまま本書では第九章に組み込まれているのです。なんという構成でしょう。
この世界では、西洋と東洋が遺伝子工学の戦争を戦っています。西洋はタイ人の男性を不能にするウイルスを「ドール」に仕込みますが(『アルーア』の「モスキート」で扱われたエピソードです)、タイはそれに対する報復として西洋人男性に限定して持続勃起を引き起こすナノテクウイルスをやはりドールに仕込みます。ところが事態は思わぬ方向へ。このウイルスに感染した西洋人男性が娘をもうけると、その子は思春期に人からドール(ポリマーとレジンと金属と繊維によって構成された肉体)へと変身してしまうようになったのです。ロンドンはこの「ドール禍」に襲われ、ヨーロッパから隔離されてしまいます。ロンドンは、ドールを対象とした「魔女狩りの世界」になってしまいます。
ロンドンで出会った少年と少女、イグナッツ・ズワクフ(スロヴァキア系の移民の子)とプリマヴェラ・ボビンスキ(ポーランド系、美少女、ドール、吸血鬼、殺し屋)は、不法な手段で隔離を突破、タイに逃れます。しかしそこにも追っ手が。
生と死、生と性、性と死が複雑に絡み合い、二人の「愛」を絡め取ります。本書の「性」は倒錯しており、「愛」もまた倒錯しているのですが。さらに、ロボットの無意識、ロボットが見る夢、ロボットの精神病なんてものらしき設定が物語に侵入してきて、話はますます倒錯というか混乱というか面白くなっていきます。ついていくのは大変ですけどね。
この「デッドガールズ」は「デッドボーイズ」「Dead Things」三部作のトップに位置しています。ただ、日本語訳は「デッドボーイズ」まで。う~ん、最後まで読みたいなあ。
本当は流れていないし、厳密には「星」ではありません。
【ただいま読書中】『唱歌・讃美歌・軍歌の始原』小川和佑 著、 アーツアンドクラフツ、2005年、2300円(税別)
明治政府によるキリスト教解禁に合わせて、宣教師会議は「日本語の讃美歌」を大急ぎで準備しました。明治6年聖誕祭に横浜海岸教会で日本語訳賛美歌が初めて歌われます。織田信長の時代に讃美歌が歌われて以来、「洋楽」の復活です。翻訳者は欧米人でしたが、やがて日本人の信者が翻訳にかかわり、日本語訳はこなれてきます。翻訳だけではなくて創作もおこなわれましたが、そこで応用されたのが「和讃(声明の一種)」です。これは日本人には受けが良かったのですが、それが日本の近代歌謡の出発点ともなりました。
なるほど、「昭和歌謡」も出発点は讃美歌と声明でしたか。
初期の讃美歌に見られる「叙情性」は、同時期の「新体詩」運動に取り込まれ、国木田独歩・島崎藤村・北原白秋らによって磨き上げられていくことになります。明らかに讃美歌を「本歌」とした詩も作られています。
「唱歌」は平安時代には「しょうが」と読まれ、器楽譜を声で歌うことを意味していました。それが明治12年に「スクール・ソング」の訳語として「しょうか」と読まれることで復活します。この小学校唱歌は、諸外国の民謡などのメロディーに日本語の歌詞をつけたものですが、そのキモは愛国でした。たとえば「蛍の光」の3番の歌詞は「九州から東北まで、真心で国のために尽くせ」4番は「千島から沖縄まで、武勲でつとめを果たせ」となっています。一昨日読書した『植民地 帝国支配の最前線』に「明治の北海道と沖縄は植民地」とありましたが、それが「蛍の光」の歌詞からも読み取れます。
軍歌として有名な「海ゆかば」は、本来は軍歌ではありませんでした。昭和12年に日本放送協会が東京音楽学校講師信時潔に作曲を依頼した「儀制曲」でしたが、真珠湾攻撃での死者発表時に日本放送協会がこの曲を放送し、さらにその後「玉砕」の発表のたびにこの曲を使ったために「新しい軍歌」と見なされてしまったそうです。歌詞は本来は、大伴氏の聖武天皇への忠節の誓いの歌(万葉集)なんですけどね。日清日露戦争で軍歌は様々歌われていますが、歌詞が意外に厭戦気分が満ちていたり明らかに反戦歌に見えるものが混じっていたり、本書にある歌詞を読みながら私は首を捻り続けることになりました。
国歌についても目から鱗。明治時代にこの曲を巡って宮内省と文部省が対立したため君が代が「国歌」として政府に公認されたのは平成11年の「国旗国歌法」以降のことだそうです。つまりそれまでは君が代は国歌じゃなかった。文部省はなんでそこまで“頑張った”んでしょうねえ。
鉄道唱歌は、派手な宣伝でヒットしました。最初から作曲者二人の競作で唱歌本のタイトルはなんと「地理教育 鉄道唱歌」。さらに別のバージョンも次々発売され、相乗効果で大ブームとなり、最終的に現在の一曲だけが生き残っているのだそうです。「汽笛一声」にも「歴史」があります。
大正時代には、中山晋平・西条八十・北原白秋など、私でも知っている名前が続々登場します。「かなりあ」「雨」「ちんちん千鳥」など私でも懐かしい名曲がぎっしりある時代です。ただ、どの歌にも哀愁が漂っているのは、なぜなんでしょう。「お祭り」「あわて床屋」なんてものもありますけどね。楽譜の装丁画家として竹久夢二も登場します。しかし、竹久の「耽美」は同様に似合っていたのでしょうか?
そして、マスメディアが発達し、音楽もまた大量生産大量消費の波に巻き込まれていきます。かつての童謡作家は姿を消しました。今の子供たちは、どこで「自分の童謡」と出会っているのでしょう? NHKの「みんなの歌」?