【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

2013-04-03 06:55:35 | Weblog

 「復旧」は「旧に復する」だが「復興」はそこからさらに「興る」、とよく言います。どちらでも私はとりあえず良いのですが、災害の被害までもまた「復」することは御免です。同じことは繰り返さない。その観点は見失って欲しくないなあ。

【ただいま読書中】『災害復興の日本史』(歴史文化ライブラリー361) 安田政彦 著、 吉川弘文館、2013年、1700円(税別)

 理科年表には推定マグニチュードつきの古代日本の地震一覧表がある。そんなことを言われたら、理科年表を買いたくなってしまいますね。で、大地震の記録はあるのですが、当時の文献では「復興」についての記述は極めて乏しいそうです。当時の為政者には“そちら”への興味が欠けていたのかもしれません。
 富士山には三大噴火があるそうです。その内ふたつは平安時代。延暦十九年(800)と貞観六年(864)ですが……貞観といったら、仙台に大津波が来たのも貞観年間ですし、インフルエンザが大流行したり応天門の変も起きています。貞観十一年には肥後の国、十六年には平安京が大風雨で甚大な被害となります。なんとも騒がしい時代だったようです。
 平安時代には、京都での風水害の記録が増えますが、これは京都だけが襲われたわけではなくて、文字の記録を書ける人が京都に集中していたからでしょう。白河法皇が「加茂川の水、双六の賽、山法師」を嘆いたのもすべて“わがこと”だったからです。復興の記録もありますが、基本的に、朝廷にとっての重要な施設の復旧です。
 大災害のあとには、飢餓もつきものでした。記録には、朝廷が米を支給したことが残されています。また、裕福なものが私財を施しにすることもありました。これを朝廷は「献物叙位」といって位階を授けることで報いました。位階ほしさに施しをする人もいたでしょう。ただ、「偽善」でも「善」でも良いのです。これで庶民は助かったはずですから。でも、庶民の生活再建は基本的に“自助努力”だったはずです。
 中世にも大災害は続きます。大地震・大火・大飢饉…… 「吾妻鏡」には出挙米(すいこまい)を出して民の餓えを救おうとしたことが記録されています。また、禁止されていた人身売買も行なわれましたが、鎌倉幕府は(おそらく人命優先の観点から)それを黙認しました(このことは、昨年読書した『〈身売り〉の日本史 ──人身売買から年季奉公へ』にありました)。
 近世になると、幕府による復興が行なわれますが、優先順位は、江戸城>武家>その他、でした。宝永地震は南海トラフのほぼ全域で起きた地震で、東海地方の建物はほぼ破壊され、西日本各地を津波が襲いました(大阪湾でも大きな被害が出ています)。本書に紹介されるその記録は本当に生々しいものです。安政東海地震では、まず東海地震が発生、関東から近畿が揺れ津波が房総から土佐まで襲います。その32時間後に南海地震が発生、中部から九州を揺さぶり太平洋岸を津波が襲いました。マグニチュードはどちらも推定8.4。ペリーの艦隊が再び現われて日米和親条約が締結された年のことです。江戸町奉行が民政を一手に管轄していたこともあり、炊き出しやお救い小屋の建築は迅速でした。物価にも統制令が出されます。「組織的な復興」の登場です。ただし、ずいぶんお寒い復興政策もあります。宝永の富士山噴火で、幕府は諸藩から48万両を集めましたが、実際に復興に使ったのは16万両でした。残りは“自分のため”に使ったのです。そのためか、地域によっては“難民生活”を15年~30年も送らなければならない人が出ました。
 天明の浅間山の噴火も悲惨で、『浅間大変記』という記録が残っています。ついでですが、この噴火で吹き上げられた火山灰によって日本は冷害になりましたがその影響は北半球全体の気候に影響を与え、同年のアイスランドのラーホ火山の噴火による火山灰も加わってヨーロッパでも連年の凶作を起こし社会不安を加速させてフランス革命の遠因にもなったのだそうです。
 明治二十四年の濃尾地震では、(役所・警察・軍などだけではなくて、巡業中の力士や刑務所の囚人たちも含む)多くの人の救助活動が行なわれ、義捐金が募集され、さらには外国からも援助の手がさしのべられました(地震の五箇月前に大津事件が起きていますが、ロシアからも義捐金が送られています)。明治二十九年の三陸地震の津波被害も歴史的なものでした。皇室からは各県に計14,000円の慰問金が下賜されましたが、政府の救済費は45万円でした(国家予算は2億円)。政府の“やる気”が全然感じられない金額です。関東大震災ではさすがに少しは“やる気”を出したようですが、それでも、自助・共助がベースでそれで足りない部分を公助でカバーする、という態度でした。
 「ボランティア」というものが日本に定着したのは阪神淡路大震災の時、と私は聞いていますが、実際には江戸時代(あるいはそれ以前)から「共助」の形での「ボランティア」は「日本の伝統」として行なわれているようです。それは「お上が助けてくれない」からなのですが。お互いが助け合うのは、麗しい光景ではありますが、「政府があてにならない」というのはちと悲しい現実(伝統)ではありますね。




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