【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

5000円

2022-03-18 16:51:15 | Weblog

 政府は年金受給者に5000円をばらまくそうです。参議院選挙で一票を買うためでしょうが、たった5000円で?人を馬鹿にするな、と言いたくなります。自民党本部が河井夫妻に渡したように1億5000万円だったら、なんてことも言いませんが。
 そもそも、「現役世代の給料が下がったら年金も連動して下げる」と法律を決めたのは政府です。で、その制度の通りこの4月から年金が下がるとなったら、一時金を配る……何をやってるのか、意味がわかりません。とうか、政府の人間も意味がわからずにやってるのではないか、という恐ろしい疑いを私は持っています。

【ただいま読書中】『女と男の大奥 ──大奥法度を読み解く』福田千鶴 著、 吉川弘文館、2021年、1700円(税別)

 大奥とは「(将軍以外は)男子禁制の世界」と私は思っていましたが、実はそれは「思い込み」だったようです。
 上級武家の屋敷は「表御殿(来客の応接目的。表向とも)」と「奥御殿(当主とその家族の生活空間。奥向とも)」に分けられ、それがさらにそれぞれ「表方」と「奥方」に分けられました。つまり武家屋敷は「表御殿の表方」「表御殿の奥方」「奥御殿の表方」「奥御殿の奥方」の4つの空間に分けられ、それぞれが特有の機能を持たされました。平安貴族の御殿でも各空間ごとに特有の機能があったことを私は思い出します。ところが江戸城では「表向」と「奥向」が同一敷地に隣接しており、そのため「表向の奥方」と「奥向の表方」とが入れ子状態となってしまいました。従来の理解では江戸城は「表」「中奥」「大奥」に3分され、中奥は「表向」に属するとされていますが、著者は「中奥は奥向に存在する」と考えているそうです。たしかに中奥が「将軍の生活の場」だったら「奥向」ですよね。
 「錠口」と言われると私が思うのは「御鈴廊下」(普段は施錠されていて将軍が大奥に入るときに開けられる扉)ですが、実は表と中奥の間にも「上の錠口」がありました。「表向」には、儀式用の大広間や白書院・黒書院、大名たちの控えの間、老中など役職者の間、軽輩の役人のための部屋、台所などがありましたが、原則として「表向の人間」はふだんは杉の仕切り戸で閉鎖されている「上の錠口」を越えて中奥に行くことを禁止されていました。
 慶長十二年(1607)七月三日家康は秀忠に将軍職と江戸城を譲り駿府城に入りました。ところが同年十二月十二日駿府城が火災で全焼。その時、家康の九男義直のお付きの者たちが、裏門から突入して義直の生母亀(御亀御方)を救出、他の女中や道具類なども救い出しました。それに対して義直は「母を救った」ことに対して褒美を与えましたが、家康は「御法(奥は男人禁制)に反した」とその21名を「改易(召し放ち)」の刑に処しました。義直が「母を救え」と命令したに違いありませんが、城の主つまり「奥に入って良い」と許可を出せるのは家康だけだったのです。なんともひどい話に見えますが、当時の人にも印象的だったようで、義直の年代記(公式記録)にわざわざ書き残されています。
 この「御法」は慣習法でしたが、それが明文化されたのが元和四年(1618)の「奥方法度」で、以後何度か改訂されています。江戸時代初期には「男に対する法度」で女性はけっこう自由に外出もしていたようですが、やがて「女に対する法度」も成文化されていきました。
 「(将軍以外)男子禁制」のはずの大奥ですが、実際には「男」の出入りが公認されていました。普請の大工や人足、掃除担当の下男(しもおとこ)、それらの人に付き添い監視する役の添番や伊賀者。そうそう、九歳以下の男子も入れました。さらに、年中行事としての祈祷や臨時の(病気平癒や天変地異に対する)祈祷で男性の宗教者も継続的に出入りをしていました。奥医師も定期的な健康診断や非常時の往診で日常的に出入りをします。出入りの商人は当主限定のはずがいつの間にかその代理(手代など)が奥に入るようになっていました(これが絵島事件に発展します。世間では「歌舞伎役者生島新五郎が長持ちに隠れて大奥に運び込まれた」となっていますがわざわざそんなことをしなくても鑑札を持ったお店者に変装したら堂々と入れました)。将軍家と縁戚関係にある大名からの使者も大奥に入れます。
 「将軍の血筋を保つ」ために大奥は「女だけの世界」にしたいところですが、実は政治的にも大奥は重要な機能を果たしていました。本来、各大名の意向は「表」の老中を通じて将軍に届けられることになっていましたが、「内証」と呼ばれる、各大名が奥方や女中の血縁などを辿って大奥経由で将軍の意向を確かめてから老中に相談をする、という“裏ルート"が機能していたのです。これは老中にとっては腹立たしい事態です。だから“関係ない人"は大奥に出入りできないように制限をかけようとしました。
 八代将軍吉宗の時代、奥方法度は「個人名を明記した法度」から「役職名を明記したもの」に改訂されます。法が一般化されたわけで、これにより、幕末まで「法による支配」が大奥では続くことになりました。実際に「奥方法度(男の役人のための法)」と「女中法度(女のための法)」は享保以降改定されることなく幕末まで続きます。
 ちょっと注意が必要なのは、身分制度です。掃除などを担当する「下男」は軽輩とはいえ御家人身分で錠口の内側まで入れますが、高級女中が本給とは別に与えられる「男扶持」で私的に雇う下働きの「五菜男」は平川門や切手門は通過できても七つ口から内側には入れない、といった微妙な区別がありました。その違いを著者が発見したらしく、本書にはちょっと得意そうに書いてあります。七つ口(閉門刻限が夕方七つ(午後4時頃))までは、許可を得た商売人も入って来ることができて、朝注文を聞いて夕方にはその料理などを奥に届ける、なんてことも盛んにやっていたそうです。
 明治になり大奥は消滅しました。しかしその「意識」の残渣は残っています。たとえば「奥方」「奥様」といった呼び名に。

 



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