男爵と女王は明らかに違う存在ですが、男爵とメイクイーンはどれくらい違うんでしたっけ?
【ただいま読書中】『ロボットのいるくらし』ロボLDK実行委員会 編、日刊工業新聞社、2007年、1500円(税別)
技術が社会に浸透するためには、ハードウェア・ソフトウェア・インフラストラクチャーの3つがそろう必要があります。著者は日本社会にロボットは普及すると信じていますが、まだそのための上記3つがそろっていないことも認めています。もっとも20年前には、パソコン・ケータイ・ウォッシュレットが普及していなかったことを思うと、ロボットだってこれからの20年でどうなるかはわかりません。
ところで「“くらし"の中のロボット」って、何? “ライバル"となりそうなのは、パソコン・ケータイ・PDA・ゲーム機などです。ではそれら“ライバル"に対するロボットのアドバンテージは、と言えば「モーション」です。何らかの物理的な動き。ところが「モーション」は「危険性」ももたらします。だから家庭内のロボットには「有用性」だけではなくて「安全性」も厳しく求められます。産業用ロボットなら、場所や使う人や業務がほぼ固定されていますから「安全の確保」はやりやすいのですが、それでも事故が起きます。家庭内のロボットでは、環境は様々、使う人も様々、業務も様々、それらをすべて勘案して「安全を確保」するのは大変な作業になります。さらにロボットが「学習」「成長」をしたときのことも想定する必要があります。
課題はありますが、ロボットには大きな可能性があります。特に「物理的な身体」が「インターフェース」として機能することに大きな意味がありそうです。
ロボットが「人型」である必要性は、実はありません。洗濯機能だったら人型ロボットよりも洗濯機の方が優秀です。ただ人型の強みは「汎用性」です。人がおこなうことすべてに「それぞれの専用ロボット」を作るのは大変ですから。さらに「そのロボットを買うことで、自分の生活にどんな変化が期待できるのか」がわかるようなデザインも必要です。介護用と子供の遊び相手とセキュリティ用とが同じ形、というのも変です。もしかしたら「人型」が人間との交渉を引き受けてそれが「人型ではない」ロボットと交信しながら家庭内の仕事を片付けていく、というものになるのかもしれません。で、その「人型ではないロボット」は、犬型だったりゴキブリ型だったり?
「ロボットの問題」だけではなくて「人間の問題」も重要です。ロボットを使いこなすリテラシーをどう教育するか、です。この「教育」によってもしかしたら「社会システム」そのものが転換していくかもしれません。とても楽しみなのですが、日本はきちんと対応できずにぐずぐずになってしまう怖れもありますね。楽しみなような恐いような。
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