頭髪を茶髪にするのだったら、眉毛もまつげもアイライナーも鼻毛も髭もうぶ毛もカラーコーディネーション(同じ色でそろえたりグラデーションをつけたり)をしたら……やっぱりちょっと不気味かな。ちなみに私の鼻毛では中に混じった白髪がアクセントになっています。みなさん、見たくはないでしょうけれど。
【ただいま読書中】『イエズス会士日本通信(上)』村上尚二郎 訳、 雄松堂書店、1968年、6000円(税別)
最初に載っているのはフランシスコ・ザビエルがゴアに出した書簡です。まず中国人の臆病さ・迷信深さ・不誠実さをさかんに嘆いた後で、日本人に対しては「この国の人は礼節を重んじ、一般に善良にして悪心を懐かず、何よりも名誉を大切とするは驚くべきことなり。国民は一般に貧窮にして、武士の間にも武士にあらざる者の間にも貧窮を恥辱と思はず」「多数の人読み書きを知れる」と高く評価していますが、「国民は食物を節すれども、飲むことにつきてはややゆるやかなり。彼等は米の酒を用ふ。この地方には葡萄酒なければなり」なんてことも言われています。飲んべえが目立った、と言うことですね。
54年のペロ・ダルカセバの書簡には、山口で切支丹は1500人、とあります。55年のバルテザル・ガゴの書簡では、山口が2000人、豊後が1500人、平戸が500人。教えは順調に広がっているようです。
宣教師が医術の心得を持っていることも書かれていますが、「治療」の中に「悪魔払い」があるのが笑えます。「日本の悪魔」はたぶん西洋の悪魔とは違うはずですが、同じ悪魔払いが有効だったんですね。この時の医術(特に外科)が「南蛮外科」となって、江戸時代の「蘭方」へと繋がっていくことを思うと、ここでも「歴史の流れ」の大きさの素晴らしさを私はつくづくと感じます。
ことばの難しさをこぼしている書簡もあります。たとえば「クルス(十字架)」を日本語で「十文字」と表現すると、日本人の中で単純な者は「(数の)十」とクルスを同一物と捉えるので、一語ごとに説明をするか最初から別のことばを用いるか、の工夫が必要である、と。また、日本語の文字(漢字)には二つ以上の意味があるから困る、ともあるのですが、西洋のことばは一つの単語に一つの意味だけでしたっけ? それはお互い様だと思うんですけどね。
山口の争乱(毛利元就の侵攻)により、リスボンと同じ大きさの山口市街は灰燼に帰します。切支丹たちは豊後に避難しますが、その時の状況を書いた書簡には、悲哀が満ちています。さらに、この書簡だけからは詳しい事情は読み取れないのですが、山口の余波で九州にも争乱が起き、博多が焼け落ちています。
戦国時代の日本で、それまで日本にない宗教を説いて回り、権力者の保護を求めると同時に既存宗教を悪魔の教えとして退けるのは、なかなか大変な作業です。52年のザビエルの書簡では、シナは中央集権で国民は穏やかだからこんどはシナに行きたい、と述べています。詳しい事情は書いてありませんが、平和な中国が日本より魅力的に見えてきたのでしょうか。ただ、書簡に登場する地名は少しずつ増え、59年には堺が登場します。
64年には辞書が作られたことが述べられます。
本書はずいぶん分厚い本ですが、この前読んだ「イエズス会士中国書簡集」に比較すると各書簡はずいぶん短いものばかりです。フランス人とスペイン人、中国と日本、さらには時代の違い、があるのかもしれませんが、とりあえず一篇一篇を読むのは、こちらの方が楽です。ただ、全体像をつかむのは大変ですが。そうそう、変わり種では、鹿児島の島津貴久から耶蘇会インド管区長に送った書簡も収載されています。そういえば鹿児島も当時はキリスト教の拠点の一つでした。
ことばのズレを扱ったところでは、将来の隠れ切支丹の“変質”を予言したように感じられますし、あちこちの地名が出てくるところで「島原」に出くわすと私はどきりとします。もちろん当時のパードレたちが将来のことを知っているわけはないのですが、「未来」はすでに「現在」に種蒔かれていることがわかるようで、こんどは自分の「現在」を見つめたくなってしまいます。「現在」は未来から見たら「過去」だから、現在私たちはせっせと未来に花開く何かの種を蒔いているはず。さて、それはどんな種なんでしょう。
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最初に載っているのはフランシスコ・ザビエルがゴアに出した書簡です。まず中国人の臆病さ・迷信深さ・不誠実さをさかんに嘆いた後で、日本人に対しては「この国の人は礼節を重んじ、一般に善良にして悪心を懐かず、何よりも名誉を大切とするは驚くべきことなり。国民は一般に貧窮にして、武士の間にも武士にあらざる者の間にも貧窮を恥辱と思はず」「多数の人読み書きを知れる」と高く評価していますが、「国民は食物を節すれども、飲むことにつきてはややゆるやかなり。彼等は米の酒を用ふ。この地方には葡萄酒なければなり」なんてことも言われています。飲んべえが目立った、と言うことですね。
54年のペロ・ダルカセバの書簡には、山口で切支丹は1500人、とあります。55年のバルテザル・ガゴの書簡では、山口が2000人、豊後が1500人、平戸が500人。教えは順調に広がっているようです。
宣教師が医術の心得を持っていることも書かれていますが、「治療」の中に「悪魔払い」があるのが笑えます。「日本の悪魔」はたぶん西洋の悪魔とは違うはずですが、同じ悪魔払いが有効だったんですね。この時の医術(特に外科)が「南蛮外科」となって、江戸時代の「蘭方」へと繋がっていくことを思うと、ここでも「歴史の流れ」の大きさの素晴らしさを私はつくづくと感じます。
ことばの難しさをこぼしている書簡もあります。たとえば「クルス(十字架)」を日本語で「十文字」と表現すると、日本人の中で単純な者は「(数の)十」とクルスを同一物と捉えるので、一語ごとに説明をするか最初から別のことばを用いるか、の工夫が必要である、と。また、日本語の文字(漢字)には二つ以上の意味があるから困る、ともあるのですが、西洋のことばは一つの単語に一つの意味だけでしたっけ? それはお互い様だと思うんですけどね。
山口の争乱(毛利元就の侵攻)により、リスボンと同じ大きさの山口市街は灰燼に帰します。切支丹たちは豊後に避難しますが、その時の状況を書いた書簡には、悲哀が満ちています。さらに、この書簡だけからは詳しい事情は読み取れないのですが、山口の余波で九州にも争乱が起き、博多が焼け落ちています。
戦国時代の日本で、それまで日本にない宗教を説いて回り、権力者の保護を求めると同時に既存宗教を悪魔の教えとして退けるのは、なかなか大変な作業です。52年のザビエルの書簡では、シナは中央集権で国民は穏やかだからこんどはシナに行きたい、と述べています。詳しい事情は書いてありませんが、平和な中国が日本より魅力的に見えてきたのでしょうか。ただ、書簡に登場する地名は少しずつ増え、59年には堺が登場します。
64年には辞書が作られたことが述べられます。
本書はずいぶん分厚い本ですが、この前読んだ「イエズス会士中国書簡集」に比較すると各書簡はずいぶん短いものばかりです。フランス人とスペイン人、中国と日本、さらには時代の違い、があるのかもしれませんが、とりあえず一篇一篇を読むのは、こちらの方が楽です。ただ、全体像をつかむのは大変ですが。そうそう、変わり種では、鹿児島の島津貴久から耶蘇会インド管区長に送った書簡も収載されています。そういえば鹿児島も当時はキリスト教の拠点の一つでした。
ことばのズレを扱ったところでは、将来の隠れ切支丹の“変質”を予言したように感じられますし、あちこちの地名が出てくるところで「島原」に出くわすと私はどきりとします。もちろん当時のパードレたちが将来のことを知っているわけはないのですが、「未来」はすでに「現在」に種蒔かれていることがわかるようで、こんどは自分の「現在」を見つめたくなってしまいます。「現在」は未来から見たら「過去」だから、現在私たちはせっせと未来に花開く何かの種を蒔いているはず。さて、それはどんな種なんでしょう。
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