ちょっと外に出ただけですぐに蚊が寄ってきます。
ところで蚊はどうやって獲物が来たことを感知しているのでしょう。人体が発する二酸化炭素を検知している、と聞いたことがありますが、それなら鼻の穴の周辺に集中的にやって来そうなものです。だけど手とか足とか首筋とかを好んで留まりません? すると赤外線感知なども併用していることが予想できます。
逆に、全く無防備な状態で蚊がどこを好んで刺すかの分布図が精密に作れたら、そこを重点的に防御する、という蚊対策も立てられそうな気がします。対策の要は「蚊の身」になって考えてみることかな。
【ただいま読書中】『否定の哲学』ガストン・バシュラール 著、 中村雄二郎・遠山博雄 訳、 白水社、1974年、1200円
著者は「科学者にとっては、科学の哲学は未だ事実の支配下にある」しかし「哲学者にとっては、科学哲学は、けっして全面的に事実の支配下にあるわけではない」と述べます。そのため本当の意味の「科学の哲学」を我々は持っていない、と。
日本に「科学」と「哲学」はバラバラの形で導入されました。しかし十八世紀までは「自然哲学」としてまとめて扱われていました。古い人だったらプラトンやアリストテレス、新しい人ならパスカルやデカルトを私は持ち出したくなります。しかし十九世紀に「科学者」という言葉が成立したことからもわかるように、科学と哲学は分離をします。だけどどちらか片方だけで世界のすべてが説明できるのか?という疑問は常につきまとい、「科学哲学」があらためて必要になった、ということなのでしょう。もちろんどちらか片方を突き詰めればそれで十分、という立場の人もいますが。
著者は「経験論」と「合理論」は相補的だと述べます。しかし科学と哲学はあまりにかけ離れています。科学は新しい知見があれば人は考え方そのものを変容させます。しかし哲学の場合は「我思う」の「唯一の明証性」がすべての出発点となり「自己の変容」は排除されます。しかし「科学」と「哲学」を止揚する「開かれた哲学」が「科学哲学」である、と著者は考えているのです。さらに著者は「お題」を提出します。科学者によっても哲学者によってもきちんと説明できていないものとして「精神の構造とその機能」です。
私自身は「否定の哲学」が、タイトルが「否定」であるのにその中身が現状肯定的であることに驚きました。科学と哲学をなんとかその根幹は保存したままで調和させようとしているように見えるのです。ただ、そこで私が思い出すのは、哲学と科学が分離する前の時代に生きていたガリレオ・ガリレイです。彼は『偽金鑑識官』で「宇宙は数学の言葉で書かれている」と言いましたが、問題は記述に使われたのが「数学の言葉」であること、だけではなくて、その「数学の言葉」で書かれた「内容」がいかなるものかでしょう。もしかしたら形而上的な内容が数式で書かれているのかもしれません。そこから何を読み取るか、は「人の技」ですし、人は「科学と哲学のハイブリッド」と言える存在のはずです。私もある意味「調和的存在」なのかもしれません。
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