【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

米を洗わない

2016-01-25 07:10:24 | Weblog

 「米をとぐ」のかわりに「米を洗う」と言うのを初めて聞いたのは、昭和の末頃のことだったでしょうか。「米は研ぐものであって、洗うものなんかじゃないぞ。そもそも洗剤でも使うのか?」なんて私は小さく毒づいていましたが、そのうち「無洗米」なんてものが普及して「米は洗うもの」どころか「米は洗わないもの(もちろん研ぎも不要)」になってしまったようです。ただ、最近お米を研ごうと思っても、糠の出があまりに悪いのであきれてしまいます。精米技術が進歩して糠の残存がほとんどなくなってしまったのでしょうね。これだと「研ぐ」必要なんか、全然ありません。その内お米は「軽くすすぐもの」になってしまうのかもしれません。

【ただいま読書中】『「桶狭間」は経済戦争だった ──戦国史の謎は「経済」で解ける』武田知弘 著、 青春出版社、2014年、870円(税別)

 桶狭間の戦いでどうして織田信長が勝てたのか、その理由は「経済」にある、という本です。もちろんお金で今川義元の首を打てたわけではありません。「強い兵隊」がいたからです。信長公記によると、朝から数十キロの強行軍をした直後に戦いに突入、そして勝ってしまうくらいの強兵が。その理由としては、「常備軍(兵農分離をした兵隊)」を信長が持っていたこと、と著者は考えています。そしてその根拠として「津島」という大きな港からの利益が莫大であったこと、信長が建築した城がどこも巨大であったこと、さらに本拠地の城を転々と移動したこと、を挙げています。利益を常備軍につぎ込み、その居住や訓練などのためには巨大な城を必要とし、さらに農兵だったら不可能な「本拠地の移動」が可能だった、というわけです。
 さらに著者は「桶狭間」は、今川の「上洛の戦い」ではなかった、と主張します。本気で上洛するには準備が明らかに不足していて、これは当時の重要産業だった常滑焼の産地である知多半島争奪戦だった、と言うのです。信長の父の織田信秀の時代から、津島と知多半島は織田の支配下にあり、だから信秀は朝廷に四千貫(三万石の大名の年間収入に匹敵)をぽんと寄付したりしています。
 信長の経済政策は、他の戦国大名とは違って「減税」が特徴でした。農民には年貢の他に棟別銭(家に対する税)などがかけられるのが当時の“常識”だったのに対して、信長は年貢だけにしていたようです(「桶狭間」のころの尾張の記録はないのですが、たとえば越前や甲斐に出された法令からの推定です)。関銭も廃止しています。さらに「デフレ」(宋銭の輸入が止まっての銅銭不足)を是正するために、金銀を高額貨幣として設定します。さらに信長は、農民の納税を「貫高制」(銭で納税)から「石高制」(米で物納)に変更しました。
 当時の「大金持ち」には寺社が名を連ねていました。信長の寺社圧迫にはだから経済政策という側面もあります。また「楽市楽座」も、単に商業を盛んにするだけではなくて、市や座を支配していた神社や寺院の力を削ぐ、という狙いもありました。関所の廃止も流通促進策です。当時の関所はほとんどが地元の豪族などが勝手に作ったもので、寛正三年(1462)に淀川河口から京都までの間に380箇所も関所があったそうです。伊勢の桑名から日永までは60以上。関銭だけで大変なことになります。しかし「中央集権」でなければ「関所の廃止」はできません。それを力ずくでやったのが信長だった、というわけです。道路整備や架橋、水上交通の整備も行っています。初めて上洛したときにも、将軍から領地のかわりに「堺、大津、草津に代官を置く」許可をもらいました。この3つの地はどれも「盛んな港」です。つまり信長は「領地」より「物流」を重視していたわけです。すいぶん“進んだ大名”だったんですねえ。彼がもし「幕府」を開いていたら、日本はどうなっていたのか、とても興味があります。



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