英雄にあこがれたりそれと自分を同一視する人はこの世に多いのですが、そもそも「その英雄自身」は「英雄」にあこがれて「英雄」になったのでしょうか?
【ただいま読書中】『江戸のナポレオン伝説 ──西洋英雄伝はどう読まれたか』岩下哲典 著、 中公新書1495、1999年、700円(税別)
黒船密航に失敗して5年後、萩の野山獄から吉田松陰は佐久間象山の甥で松代藩士の北山安世に手紙を送りました。その中に「那波列翁を起こしてフレーヘードを唱えねば腹悶医(いや)し難し」「草莽崛起(そうもうくっき)の人を望む外(ほか)頼なし」とあります。「那波列翁」は「ナポレオン」、「フレーヘード」は「自由」、「草莽崛起の人」は「草むらの中にいて志を持った人」のことです。死んだナポレオンを地の底から呼び起こして、草莽崛起の人による革命を起こし、「自由」を実現させたい、という火の出るような思いが込められた手紙です。実は吉田松陰の師である佐久間象山は、自分自身をナポレオンと重ね合わせていました。ではこの「ナポレオン」は、どうやって鎖国下の日本にやってきたのでしょう。
「鎖国」と言いますが、海外の情報は日本に流入していました。「鎖国」とは「幕府による情報や物産の流れの厳しい統制」だったのです。貴重な情報の一つがオランダ風説書です。ただ、その中にオランダがナポレオンに支配されたという情報は含まれていませんでした。幕府はフランスをカトリックの国と危険視していましたが、それを知っているオランダ人はじぶんたちがカトリックだと見なされて日蘭貿易が危うくなることを恐れたのです。しかしヨーロッパの大変動は、たとえばレザノフ来航やフェートン号事件の形で日本にも及びました。
ナポレオンが戴冠したのは1804年ですが、そのとき日本は文化元年でした。当時の蘭学界の重鎮大槻玄沢(『解体新書』改訂版の出版責任者)は、蘭方(西洋医学)から蘭学全般を研究するようになっていて、ロシアから帰国した漂流者から聞き取り調査を行ったりして「環海異聞」「捕影問答」を著します。しかしここには「ナポレオン」は登場しません。ただ、大槻玄沢が「捕影問答」で「オランダ商館長に世界情勢について尋問を行ったらどうか」と提案したことが実現し、その結果アメリカ独立やロシアの脅威についての情報が幕府にもたらされます。しかし商館長はフランスについては慎重に情報を伏せました。長崎にやってくるのに、中立国アメリカの船を使っている理由も誤魔化します。
ナポレオン情報はロシアからもたらされました。1811年国後島に上陸して南部藩の守備隊に捕えられたロシア船の船長ゴロウニンからです。ナポレオンのロシア侵攻と敗北についての噂レベルの情報でした。しかし日本にはロシア語の通詞も育っていて、のちにロシアの新聞からオランダがナポレオン支配下にあることを確認します。
ここで頼山陽が登場します。頼山陽は長崎に遊学します(厳密には「学」よりも「遊」が主な目的だったようです)が、そこで知り合ったオランダ人医師がナポレオンのモスクワ遠征に参加した軍医だったのです。頼山陽は「仏郎王歌(フランス王の歌)」という漢詩を発表しますが、これこそが日本における「ナポレオン紹介」でした。そしてこの漢詩は、多くの若者によっても受容され、「ナポレオン」は日本で広く知られるようになります。1803年に出版されたナポレオンの伝記も翻訳されますが、翻訳者の小関三英は蛮社の獄の弾圧の中で自殺してしまいます。
天保十年(1839)アヘン戦争の第一報がオランダ風説書によってもたらされます。ついで中国船の入港がぴたりと止まり、幕府は大陸に注目します。高島秋帆は国防の重要さを説きますが、そこで「近年の戦争(ナポレオン戦争)によってヨーロッパでの戦争の装備ややり方が急激に変化していること」を指摘しています。しかし幕府の方針は「幕府内の限られた者以外は、外国や国防について考えてはならない(考えた者は処罰する)」ですから、秋帆もまた罰せられる運命にありました。それでも「ナポレオン」は日本に“ファン”を増やしていきました。たとえば、徳川慶喜、あるいは西郷隆盛。彼らはそれぞれに「日本のナポレオン」になろうとしていたようです。そうそう、最初に登場した佐久間象山や吉田松陰も。つまり、「ナポレオン」になろうとした人々によって明治維新が達成されたかのようです。
もっとも、ナポレオン自身が「ナポレオン」になろうとしていたかどうかは、謎ですが。