飛鳥への旅

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中将姫伝説を訪ねて10:当麻寺(奈良県葛城市)

2009年07月01日 | 中将姫伝説を訪ねて
中将姫が感得し蓮糸を染めて織りあげたという当麻曼荼羅が、ここ当麻寺(たいまでら)に伝えられている。




中将姫の蓮糸曼荼羅(当麻曼荼羅)の伝説で名高い当麻寺がある奈良県葛城市当麻地区は、奈良盆地の西端、大阪府に接する二上山(にじょうざん、ふたかみやま)の麓に位置する。二上山は、その名のとおり、ラクダのこぶのような2つの頂上(雄岳、雌岳という)をもつ山で、大和の国の西に位置し、夕陽が2つの峰の中間に沈むことから、西方極楽浄土の入口、死者の魂がおもむく先であると考えられた特別な山であった。


当麻寺は、飛鳥時代創建の寺院。創建時の本尊は弥勒仏(金堂)であるが、現在信仰の中心となっているのは当麻曼荼羅(本堂)である。宗派は高野山真言宗と浄土宗の並立となっている。開基(創立者)は聖徳太子の異母弟・麻呂古王とされ、この地に勢力をもっていた豪族「当麻氏」の氏寺として建てられたものとされている。奈良時代 - 平安時代初期建立の2基の三重塔(東塔・西塔)があり、近世以前建立の東西両塔が残る日本唯一の寺としても知られている。
東西両塔と金堂の間には後世に中之坊、護念院などの子院が建てられている。
中将姫伝説を訪ねて8:当麻寺 中之坊(奈良県葛城市)で、当麻寺中之坊は中将姫が剃髪して尼になった寺であることを記した。


当麻曼陀羅
国宝当麻曼陀羅(天平時代)は当麻寺の本尊である。観経浄土変相図のことで中将姫が感得し蓮糸を染めて一夜で織り上げたと伝えられている。
ただ当麻曼荼羅の原本(根本曼荼羅)は損傷甚大なので安置されておらず、現在当麻寺奥の院に秘蔵されている。縦横とも4メートル近い大作で、絵画ではなく織物である。ただし、伝説に言うような蓮糸の織物ではなく、絹糸の綴織(つづれおり)であることが研究の結果判明している。
現在当麻寺の本尊として安置されているのは重文文亀本當麻曼陀羅(室町時代)で、文亀年間(1501~3)に転写されたものである。

曼陀羅厨子
国宝曼陀羅厨子(天平時代)は扁平な六角形漆塗厨子で曼陀羅を安置しているもの。厨子のところどころに美しい花鳥文や山水などが金平脱文や金銀泥絵で描かれている。
厨子を支える国宝須弥壇(鎌倉時代)は寛元元年(1243)の銘文があり、特に螺鈿(貝)の紋様が美しいことで知られている。


中将姫座像二十九歳像(伝御自作)
曼荼羅堂には、中将姫の自作と伝えられる「中将姫二十九歳像」が、本尊の文亀曼荼羅の右側に安置されている。清楚な袈裟を身にまとい、数珠を手にかけて合掌している小さな座像である。潤んで充血したような眼や、かすかに半開きになって紅をさした唇など、まるで生きているような像の表情である。作家の五木寛之氏は、はじめてこの像を見て、”大和のモナ・リザ”と称えている。

中将姫池
中将姫がすっくと立っている銅像が、境内の蓮を配した池の中央に立っている。


中将姫絵伝 四幅(江戸時代)
当麻寺奥の院に所蔵している中将姫の生涯を美しく描いた絵伝。
図版は”ひばり山親子対面から中将姫が出家して蓮糸を染めて織りあげる場面”の一幅である。


毎年5月14日に行われる練供養会式(ねりくようえしき)には多くの見物人が集まるが、西方極楽浄土の様子を表わした「当麻曼荼羅」の信仰と、曼荼羅にまつわる中将姫伝説を題材にした儀式である。
本堂(曼陀羅堂)を西方極楽浄土に見立て、東の娑婆堂を人間世界に見立てて長い橋を渡され、二十五菩薩が人間世界から中将姫を蓮台に乗せて浄土に導く様を表現したものである。天童を先頭に菩薩が介添人に手を引かれ本堂と娑婆堂の間約100mを渡り、中将姫の化身に見立てた阿弥陀如来像が蓮台に載せられ行く。この寺内の稚児さんも一緒に練り歩くさまは大変可愛らしくもある。二上山の向こうに夕陽が沈むころ菩薩は本堂の浄土へと戻って行き儀式が終わる。

 中世以降に当麻寺僧侶(浄土宗西山派の祖・証空ら)により当麻曼陀羅の複製が多く作られ、全国に流布された。現在各地の寺院に残る当麻曼陀羅はこれを示している。江戸時代以降、広く曼荼羅信仰が発展し、それとともに中将姫伝説も流布していったのである。

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