藤沢市の北西部御所見の用田字中条(あざちゅうじょう)には、中將姫がかつてここに住んだことがあるという伝承が残されていて、姫を祀(まつ)る小さな祠(ほこら)が建てられ、現在でも、姫の命日と伝えられる3月の14日には、この地区の人々が集まり、姫を偲んでのお祭りを行っている。
中将姫祠
<用田の中条に伝わる伝承>
いつの頃か中將姫が中条に居られたことがあり、姫は見つかるのを恐れて、お面をかぶっていた。
そのお面は、集落のお寺である寿昌寺(じゅしょうじ)に預けてあったが、住職がうなされるので、用田の寒川神社に納めたが盗まれてしまい現存しない。
姫が馬に乗って散歩したという所には、『馬場』の地名が残り、かつては、姫のものだという五輪塔もあったとの言い伝えが残されている。用田中条の伝承は、わずかこれだけである。
中將姫の伝承がなぜここに?
いつの頃か(多分中將姫の伝承が広まる江戸時代)に、地名が同じであると言う理由から、女性のための信仰の対象として、姫を祀ることを始めたのではないかと考えざるを得ない。また、地区の言い伝えとして、初めの地名は中將と書いたが難しいので、何時の頃からか中条と改めたとも言われている。
川の駅「中将姫」
川の駅「中将姫」
藤沢市との境の神崎橋に出る。藤沢市側には「川の駅 中将姫」という休憩所が出来ていた。中将姫は藤原鎌足の孫娘で五歳のとき継母の迫害から逃れてこの地に隠れたことからその史跡がこの先の丘の上に小さな庵として残っている。さらに進むと中原街道へ出る。ちょうど新幹線のガードの付近だ。姫は後に父親の藤原豊成に救出されたと案内板に書かれていた。
その他、藤沢の遊行寺の宝物の中にも、中將姫縫仏(ぬいぼとけ)と伝える阿弥陀如来迎図があり、箱表には金泥で『中將姫繍佛』と書かれ、40世遊行上人が泉州の堺で賦算(ふさん)の折り寄進された者と伝えられている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/e0/114cb2a3930e144e6e9ecc566a1d11e2.jpg)
<用田の中条に伝わる伝承>
いつの頃か中將姫が中条に居られたことがあり、姫は見つかるのを恐れて、お面をかぶっていた。
そのお面は、集落のお寺である寿昌寺(じゅしょうじ)に預けてあったが、住職がうなされるので、用田の寒川神社に納めたが盗まれてしまい現存しない。
姫が馬に乗って散歩したという所には、『馬場』の地名が残り、かつては、姫のものだという五輪塔もあったとの言い伝えが残されている。用田中条の伝承は、わずかこれだけである。
中將姫の伝承がなぜここに?
いつの頃か(多分中將姫の伝承が広まる江戸時代)に、地名が同じであると言う理由から、女性のための信仰の対象として、姫を祀ることを始めたのではないかと考えざるを得ない。また、地区の言い伝えとして、初めの地名は中將と書いたが難しいので、何時の頃からか中条と改めたとも言われている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/59/15693a89d4c39a4d4374670ac1ea75a1.jpg)
川の駅「中将姫」
藤沢市との境の神崎橋に出る。藤沢市側には「川の駅 中将姫」という休憩所が出来ていた。中将姫は藤原鎌足の孫娘で五歳のとき継母の迫害から逃れてこの地に隠れたことからその史跡がこの先の丘の上に小さな庵として残っている。さらに進むと中原街道へ出る。ちょうど新幹線のガードの付近だ。姫は後に父親の藤原豊成に救出されたと案内板に書かれていた。
その他、藤沢の遊行寺の宝物の中にも、中將姫縫仏(ぬいぼとけ)と伝える阿弥陀如来迎図があり、箱表には金泥で『中將姫繍佛』と書かれ、40世遊行上人が泉州の堺で賦算(ふさん)の折り寄進された者と伝えられている。
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