橘(たちばな)の 古婆(こば)の放髪(はなり)が 思(おも)ふなむ
心愛(うつく)し いで吾(あ)れは行かな
=巻14-3496 作者未詳=
橘の古婆にいるあのおさげ髪の子が私を思っているであろうその心がいとしい。さあ私は会いに行こう。という意味。
「橘」は「川崎市の古名でもあるという。川崎市の大部分が明治以前は武蔵国橘樹(たちばな)郡だった」。
「古婆(こば)」は古波乃里のこと。
この万葉歌碑は川崎市中原区等々力の市民ミュージアムの東隣にある等々力緑地ふるさとの森の入り口付近に建っている。昭和54年、地元ライオンズクラブ寄贈。
歌碑にある独特の丸い穴が銅鐸を模しているような気もするが、銅鐸とこの歌や万葉の時代が合わないし、丸い穴が何を意味しているのかわかりません。しかし樹木の中に溶け込んで存在感を醸し出しているのが印象に残った。(2012/9/17訪問)
歌碑は万葉仮名で刻されている。 <クリックで拡大>
”多知婆奈乃 古婆乃波奈里我 於毛布奈牟 己許呂宇都久思 伊弖安礼波伊可奈”
歌碑裏面に解説が刻されている。 <クリックで拡大>
(右裏面) 橘(たちばな)の古波(こば)の放髪(はなけ)が思ふなむ
心(こころ)愛(うつく)し いで吾(われ)は行(い)かな
橘(このあたり一帯の古名)の古波乃里で
おかっぱ髪の乙女が、思い待ちしているだろう
その気持がかあいくてならない、さあでかけよう、あの娘のところへ、
(左裏面) このあたりにひろがる原始林や一面の荒野は、
こういった素朴な若者たちおおぜいの手で、長い
日数をかけて拓かれていった。
この碑は近藤俊朗、榎本弘、安達原秀子、
吉村良司の主唱により中根嘉市の献石を
受け川崎北ライオンズクラブが建てた、
一九七八年四月 吉村良司 誌
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