こもりくの 泊瀬の山は 色づきぬ
しぐれの雨は 降りにけらしも
=巻8-1593 大伴坂上郎女=
こもりくの泊瀬の山は色づいた。時雨の雨が降ったのだろう。という意味。
大伴坂上郎女が、竹田の庄で作った歌。竹田の庄は、坂上郎女が現在の奈良県橿原市東竹田町に所有していた田荘で、かなたに望む泊瀬の山が紅葉しているのを見て、「泊瀬では、きっと時雨が降ったのだろう」と思いをめぐらせている。時雨の雨を予測することは田荘の農作業に大切であり、この田荘を所有している大伴坂上郎女の気配りでもあるようだ。
なぜこの歌がここにあるのか?。竹田の庄は大福の隣(北西)にある橿原市東竹田町である。当時は此の辺りまで竹田の庄とされていたのだろうか?
隠国(こもりく)は、初瀬(泊瀬・はつせ)にかかる枕詞で、奥深い山間に隠れた地のことで、万葉の時代も歌に詠まれていた。
こもりくの初瀬の地には長谷寺があり、「初瀬寺・泊瀬寺・豊山寺」とも呼ばれてきた。長谷寺は真言宗豊山派の総本山。朱鳥元年(686)、道明上人が天武天皇のために千仏多宝仏塔を安置されたのが始まり。その後、神亀4年(727)に徳道上人は聖武天皇の勅願により、本堂に本尊の十一面観音菩薩をお祀りして依頼、全国の観音信仰の聖地になった。平安時代の王族・貴族からも「長谷詣で」といわれて手厚い信仰を受けていた。
歌碑は桜井市大福の三十八柱神社境内に建ってゐる。万葉学者犬養孝さんの筆による。
三十八柱(みそやはしら)神社は推古天皇の"小墾田の宮"の伝承地といわれている。
近鉄大阪線の「大福」駅で下車し北へ約5分歩くと推古天皇の"小墾田の宮"の伝承地といわれる三十八柱神社が見えてくる。神社の説明板によると聖徳太子伝暦(917)の注記に「小墾田の宮は当時、大仏供(大福の古名)と云う里にヲハル田の宮とて小社あり其れ宮どころ也云々」と明記されていたとあり、拝殿左手に「小墾田宮伝承之地」と書かれた石碑も建てられている。
境内からも長谷方面の山が見えるが、やはり1kmほど西の橿原市東竹田あたりから見たほうが雰囲気がある。
中央が長谷方面の山であろう。
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