飛鳥への旅

飛鳥万葉を軸に、
古代から近代へと時空を越えた旅をします。
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万葉アルバム(明日香):万葉文化館

2010年03月25日 | 万葉アルバム(明日香)

皆人の命も我れもみ吉野の
滝の常磐の常ならぬかも
   =巻6-922 笠金村=


皆人の命も、私の命も吉野の滝の激流に打たれてなお不動の岩のように、久しく変わらずにいてほしいものだなあ。という意味。

聖武天皇即位の翌年、神亀二年(725)五月、吉野行幸に従事した際に詠んだ歌。

 万葉文化館は平成13年9月に明日香村に開館した比較的新しい施設。
海石榴市をはじめ東市、西市、軽市などをイメージした古代の市空間を再現した「歌の施設」、子どもたちにも理解しやすい「万葉おもしろ体験」、万葉歌人の歌をもとに、それぞれの歌人の個性や心情、人間関係や時代背景などをとりあげ、人形、映像、アニメーションなどの複合的な手法で紹介する「万葉劇場」、などの施設があり、万葉集を古代のイメージの中で視覚的に理解できるようになっている。

 万葉文化館の庭園に万葉歌碑が4基あり、これはそのひとつ。

万葉アルバム(明日香):川原寺

2010年03月08日 | 万葉アルバム(明日香)

世間(よのなか)の繁(しげ)き仮廬(かりほ)に住み住みて
至らむ国のたづき知らずも
     =巻16-3850 作者不詳=


 うるさい仮住まいのようなこの世に住み続けていて、これからどんなようすの国に行き着くのか分からない。 という歌。

この歌の注に、「奈良の川原寺(かわはらでら)の仏堂にあった琴に書かれていた」とある。

 川原寺は県道をはさんで橘寺の北に位置している。天智天皇が、母の斉明天皇の菩提をとむらうため飛鳥川原宮(あすかのかはらのみや)跡に建てられたのが川原寺であったが、現在はのちの時代の小堂が建っている。
発掘調査によって、一塔二金堂に三面僧房をめぐらした荘麗な伽藍だったようで、調査後はすべて埋め戻され、今はその上に創建時の伽藍配置がわかるよう整然と礎石が並べられ史跡公園のような広場になっている。

 誰が歌ったかわからない歌で、たまたま寺にあった琴にこの歌が書かれていたという。消えてなくなってしまうような歌であったが、しかし世の行く末を嘆いているようすが現代にも通じるような新鮮味があるではないか。このような歌が宮廷歌人に交じって万葉集に取り上げられていることが、すばらしいことだと思う。

万葉アルバム(明日香):稲淵

2010年02月08日 | 万葉アルバム(明日香)

明日香川 明日も渡らむ 石橋の 
遠き心は 思ほえぬかも  
   =巻11-2701 作者不詳=


 明日香川を明日は渡って逢いに行きましょう。私の心は、石橋のように飛び飛びじゃなくって、ずっ~とあなたのことを思っていますよ。という意味。

飛鳥の石舞台を過ぎて、飛鳥川上流に向かって30分程歩くと、「日本の棚田100選」に選ばれた「稲渕棚田」が見えてくる。秋には棚田に彼岸花の群落が赤色を染めて美しい景観である。
さらに飛鳥川の上流、稲淵では、勧請橋(かんじょう)を渡り、稲渕の道を吉野方面に向っていくと、飛び石への案内板がある。古代においては、飛鳥川に橋はなく、また、板橋を掛けても、昔は今と違い鉄砲水が多く、氾濫を繰り返し流されるので、飛び石が橋の役目を果していた。川床に石を並べて渡れるようにした石橋は、その昔、若い男女が逢瀬を急ぐ道でもあったのである。



万葉アルバム(明日香):万葉記念館

2009年09月22日 | 万葉アルバム(明日香)

山振(やまぶき)の立ちよそひたる山清水(やましみず)
酌(く)みに行かめど道の知らなく
   =巻2-0158 高市皇子=


山吹の花が咲いている山の清水を汲みに行こうと思っても、どう通って行ったらよいか、道が分からないのです。という意味。

 十市皇女(とおちのひめみこ)が亡くなった時、高市皇子がつくった歌。十市皇女は天武天皇と額田王との娘。高市皇子は天武天皇の長子。ほぼ同年代の異母姉弟。山吹の花にも似た姉の十市皇女が急死し、どうしてよいのか分からないという心情を吐露している。一方、あざやかな黄色い花をつける山吹が咲いている場所の清水を汲みに行きたいという表現は、死者の赴く「黄泉国(よみのくに)」へ行きたいという思いを表現するものだ、とする説もある。

 万葉歌人である額田王の血を引いた十市皇女であるが、万葉集に一首も残していない。十市は父・天武の兄である天智天皇の後継者・大友皇子の元へ嫁ぐ。やがて、天武と天智の反目、そして天武と大友との戦争・壬申の乱が起こる。このとき十市は夫の元を離れ、父を頼り吉野軍下に身を寄せる。天武第一皇子として全軍を指揮していた高市と、十市の人生が交錯していくのはこの戦争が契機になったに違いない。しかし、壬申の乱から三年後、彼女は急死するのである。夫と父、さらに高市の間で揺れたプリンセス十市皇女の死因については、明らかになっていない。

 万葉記念館は、平成10年に亡くなった万葉学者犬養孝さんを記念して平成12年に明日香の地に開館した。記念館の中庭にこの万葉歌碑が建っている。

 ヤマブキ

万葉アルバム(明日香)、藤原宮跡

2009年08月07日 | 万葉アルバム(明日香)

ひさかたの天(あめ)知(し)らしぬる君(きみ)ゆゑに
日月(ひつき)も知(し)らず恋(こ)ひ渡(わた)るかも
   =巻2-200 柿本人麻呂=


今は、薨去されて天をお治めになるようになってしまった高市皇子であるのに、月日の流れ去るのも知らず、いつまでも恋い慕いつづけるわれわれである。という意味。

高市皇子が死んだ時、柿本人麻呂が詠んだ長歌に対する反歌である。
672年の壬申の乱、高市皇子は近江大津京にあり、挙兵を知って脱出し父天武天皇に合流し軍事の全権を委ねられ乱に勝利した。
柿本人麻呂が壮大な挽歌を寄せていることから、2人は親交があったのではないかと言われている。一方持統天皇のお抱え歌人としての人麻呂が、あくまで天皇の意思を体現して詠んだ歌だともいわれている。

 690年(持統4)、高市皇子は多数の官人を引き連れて藤原宮の予定地を視察した。その4年後に飛鳥浄御原宮から藤原宮へ遷都した。しかし高市皇子はその2年後に急死する。高松塚古墳に葬られたともいわれている。

 歌碑は藤原宮そばにある鷺栖(さぎす)神社に静かにたたずんでいる。

万葉アルバム(明日香):飛鳥寺

2009年06月12日 | 万葉アルバム(明日香)

三諸(みもろ)の神奈備山に 五百枝(いほえ)さし繁(しじ)に生いたる 
栂の木のいや継ぎ継ぎに 玉葛絶ゆることなく
ありつつもやまず通はむ 明日香の古き都は
山高み川とほしろし 春の日は山し見が欲し 
秋の夜は川しさやけし 朝雲に鶴は乱る   
夕霧にかはずは騒ぐ 見るごとに音のみし泣かゆ
いにしへ思へば
         =巻3-324 笠金村=
明日香川川淀さらず立つ霧の
思ひ過ぐべき恋にあらなくに
         =巻3-325 笠金村=


 三諸の神奈備山に、たくさんの枝が伸びて、びっしり茂った栂の木のように、いよいよ次々に、(玉葛)絶えることなく、いつまでも通い続けるであろう明日香の旧都は、山が高く川は雄大だ。
春の日は山が見たい、 秋の夜は川音がさやかだ。 朝雲に鶴は乱れ飛び、夕霧に河鹿は鳴き騒ぐ。 見るたびに声を上げて泣けてくる、明日香時代のいにしえのことを思うと。
明日香川の川淀を去らず立ちこめる霧のように、すぐ消えてしまうような恋心ではないのだ、私の明日香への慕情は。という意味。

「三諸の」は、神の来臨して籠る所、「神奈備山」は、神のいます山で、甘橿丘を指しているという。

飛鳥寺の境内に巨大な万葉歌碑が建っている。
文学博士・佐々木信綱氏揮毫による山辺赤人の長歌とその反歌である。
碑には万葉仮名で刻まれている。

飛鳥寺は、本堂に鎮座する飛鳥大仏以外に何も見るべきものはなく、
小さなお寺の庭ほどの敷地しかない。
だが、境内の奥に、かっての塔心礎の位置を示す標識が立っていて、
往時の面影を忍ぶばかりである。


万葉アルバム(明日香):剣池

2009年05月13日 | 万葉アルバム(明日香)

軽の池の浦廻(うらみ)行き廻る鴨すらに
玉藻の上にひとり寝なくに
    =巻3-390 紀皇女=


軽の池の岸のところを泳ぎ回っているあの鴨さえも、藻の上に独りで寝たりはしないのに、私は独りぼっちで寝なければならない。という意味。

「軽の池」の「軽」は、奈良県橿原市大軽の辺り。現在の剣池がこの池だといわれている。
紀皇女は天武天皇の皇女で、穂積皇子の同母妹。恋多き皇女として知られ、
この歌は、恋人の高安王(たかやすのおおきみ)が伊予に左遷された時に作られたともいわれる。


万葉アルバム(明日香):橘寺

2009年04月29日 | 万葉アルバム(明日香)

橘(たちばな)の寺の長屋に我が率(ゐ)寝(ね)し
童女放髪(うなゐはなり)は髪上げつらむか
   =巻16-3822 作者未詳=


橘寺の長屋に連れ込んで寝た、あのお下げ髪の少女は、もう今では髪上げして他の男と結婚しているだろうか。という意味。

明日香村の橘寺。「童女放髪」とは髪を伸ばしたままにしている、15歳くらいまでの少女をいう。
そんな娘をお寺に連れ込んで一夜を楽しんだという、ふらちな歌である。
橘寺は当時は尼寺だったそうで、なおさらだ。
しかし、ふらちな歌でも、どこか許されるのが万葉歌なのであろう。
庶民的な情景が浮かび親しみがわいてくるのは何故だろうか。


万葉アルバム(明日香):高松塚古墳 花祭り

2009年03月31日 | 万葉アルバム(明日香)



立ちて思ひ居てもぞ思ふ紅(くれない)の
赤裳裾引き去(い)にし姿を
   =巻11-2550 作者未詳=


立っては思い、坐っても思う、紅の赤い裳の裾を引いて去ってしまった姿を、という意味。

訪れた9月に明日香彼岸花祭りが開催されていた。
劇団員が古代衣装をつけて板蓋宮伝承地から石舞台まで時代行列。
赤い裳の裾を引いて歩く姿は、まさに歌そのままだった。
明日香の高松塚古墳で発見された壁画も、この赤い裳の女性が描かれている。

古代の明日香で、赤い裳の女性が行き来していたと想像するだけでも、楽しくなる。


この万葉歌碑は飛鳥歴史公園・高松塚前小丘に建っている。
写真は高松塚前小丘から高松塚古墳(右端)を望む。(2011/11/14写す)
近年周辺が歴史公園として整備されてきており、古墳発掘当時の自然な面影が薄れてきているのは寂しい。

万葉アルバム(明日香):南淵山

2009年03月16日 | 万葉アルバム(明日香)

御食(みけ)向ふ 南淵山の巌(いはほ)には
ふれるはだれか 消え残りたる
   =巻9-1709 柿本人麻呂=


南淵山の巌には、降ったはだれの雪が消え残っているのだろうか、点々と白く見える、という意味。
柿本人麻呂が弓削皇子に贈った歌とのことである。

明日香の平田峠に登ると、眼前に南淵山を望むことができる。
石舞台から南淵山麓にそって、稲淵へと道が続いているのがわかる。

大和平野は雪の少ないところで、雪が点々と白く残っているめずらしい景色を、弓削皇子に知らせたのであろう。情景が目に浮かぶ歌である。

万葉アルバム(明日香):桧隈川

2009年03月09日 | 万葉アルバム(明日香)

さ桧隈 桧隈川の 瀬を速み
君が手取らば 言寄せむかも
   =巻7-1109 作者未詳=


明日香の南西の丘陵地に桧隈寺跡がある。このあたり一帯が桧隈の里。
桧隈の野を流れる桧隈川の川瀬が早いので、あなたの手を取って渡ったらみんなに噂されるでしょうか、という意味。

明日香村の高取町との境にある桧前の里は、東漢氏(やまとのあやうじ)に代表される多くの渡来人が住んだところである。桧隈寺は渡来人が造営した寺で、他にも坂田寺や呉原寺、軽寺などがあり、明日香は渡来人が多く住んでいたところでもある。ひょっとして、土地の人と渡来人との逢瀬であったかもしれない。

今は川幅2mたらずのありふれた小川だが、古代はもっと川幅も広かったかも知れないが、名もない万葉びとのおおらかさが伝わってくる歌である。

万葉アルバム(明日香):明日香川

2009年03月01日 | 万葉アルバム(明日香)

明日香川瀬々(せせ)に玉藻は生ひたれど
しがらみあれば靡きあはなくに
    =巻7-1380 作者未詳=


明日香川の藻が、しがらみ(棒杭)に邪魔されて、うまくなびきあえないのは、
まるで私とあなたのようだ、という意味。

明日香の石舞台付近を流れる明日香川に歌から名付けられた玉藻橋がかかっている。
明日香川が千数百年を経て、今もゆったりと流れている。
明日香川を歌った万葉歌は、川の中でも最も多く25を数えるようだ。
平凡な小さな小川だが、ここで多くの万葉びとが恋人への愛憎を吐露していたようだ。




万葉アルバム(明日香):真神が原

2009年02月24日 | 万葉アルバム(明日香)

大口の 真神の原に 降る雪は
いたくな降りそ 家もあらなくに
   =巻8-1636 舎人娘子=


「真神」はおおかみの異名で、口が大きいことから、「大口」という枕詞がついた。もともとこのあたりは、おおかみが出没した原野だったのだろう。
飛鳥から藤原に宮が移って、真神が原あたりには家もなく、一面の野原で、
しんしんと雪が降り積もる情景を歌っている。

真神が原は飛鳥寺の南に広がる野原で、中央に飛鳥川が流れ水田が広がる。
秋には水田土手一帯に彼岸花が咲き誇る。
飛鳥京が遷都して1300年間、おそらくこの自然豊かな風景が育まれてきたのであろう。しかしこの土地には大化の改新に代表される古代抗争により幾多の血が流されてきたのも事実で、その思いにふけりこの地を歩くと、あちこちに遺跡が見られ感懐を新たにするのである。


万葉アルバム(明日香):大原の里

2009年01月24日 | 万葉アルバム(明日香)

我が里に 大雪降れり 大原の
古りにし里に 降らまくは後
   =巻2-103 天武天皇=

我が岡の 龗(おかみ)に言ひて 降らしめし
雪の砕けし そこに散りけむ 
   =巻2-104 藤原夫人=


大原の里にある大原神社は、藤原鎌足誕生の地といわれている。
鎌足の娘で天武天皇の夫人となった藤原夫人が住んでいたところでもある。
その天武天皇と藤原夫人とがやりとりをした歌が、この歌である。

浄御原宮(飛鳥小学校付近)と大原とは、わずか1Km未満である。
天皇は、大原にいた夫人に「古ぼけた大原の里に雪が降るのは後のことだろうよ」
とからかえば、夫人は、「うちの神様にいいつけて降らせた雪のかけらがそこに散っただけでしょう」とやり返した。

壬申の乱に勝利して、体制を築いた天武天皇に、こうしたおどけた一面があったと思うと、歴史の見方も変わるというものである。

万葉アルバム(明日香):香久山

2009年01月22日 | 万葉アルバム(明日香)

大和には群山あれど とりよろふ天(あま)の香具山
登り立ち国見をすれば
国原(くにはら)は煙立つ立つ
海原(うなばら)は鴎(かまめ)立つ立つ
うまし国そ蜻蛉(あきづ)島 大和の国は
    =巻1-2 舒明天皇=


大和にはたくさんの山があるが、神が選んで降臨する天の香具山は最高である。山の頂上に登って国見をすれば、国には煙が立ちのぼっている。海にはかもめが舞い飛んでいる。すばらしい国だ、蜻蛉島大和の国は、という意味。

国原・海原、立つ立つ、と繰り返しリズムで、広大な大和盆地の情景が浮かんでくる。
高い山から下界を見下ろすような歌だが、
天の香具山は、実際にはなだらかな低山である。
歌のおおげさな誇張した感じが、おおらかでおもしろい。