それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

ダイノジ大谷の爆発:ラジオとテレビの距離

2015-04-19 09:05:34 | テレビとラジオ
 ダイノジの大谷が深夜のテレビを中心にじわじわと浸透し始めている。

 大谷について語ることは難しい。これまでの様々なトラブルを含め、大谷にまつわるエピソードを複合的に知らないと本当の意味で彼を評価することは出来ない。

 けれども、そういうことをよく知らない視聴者として、今日はダイノジ大谷について考え、そこからラジオとテレビの関係について検討する。



 大谷は、その独特のナルシズムと勘違いから扱いにくい芸人として長らく忌避されてきたが、ここにきて彼の個性が生かされつつある。

 ダイノジ大谷の個性は、(1)比較的音楽に詳しいこと、(2)ものすごく熱いテンションで真面目なことを語ること、そして、(3)ラジオが大好きなことだ。

 そもそも最初のふたつの個性がダイノジ大谷のラジオ・パーソナリティとしての資質につながっている。

 しかし元々は、その変なテンションとナルシズムが多くの人から失笑される原因になっていて、本人としてはそこを笑われたくないと強く思っていた。

 ところが、大谷がオールナイトニッポンのパーソナリティを経て、大谷=「ラジオの人」という図式が(テレ東のゴットタンで)出来上がったため、扱いにくかった個性がものすごく扱いやすくなったのでる。



 ラジオではパーソナリティと聴取者の距離が近く、その分、本音でぶつかりやすい、とよく言われる。私も深夜ラジオのリスナーでよく色々な番組を聴いている。

 ラジオの場合、パーソナリティがどれだけ聴取者を引き込める世界観を構築できるかが勝負だ。ラジオは映像が無い分、聴き手の想像力に訴えかけることができる。

 そのフィールドで説得力のあるパーソナリティは、やはりモノを書いたり作ったりしても面白い人だと思う。

 ダイノジ大谷には、良くも悪くも独自の世界観がある。テレビではそれは扱いにくかった。テレビ番組では、番組の世界観に出演者が合わせることの方が多いからかもしれない。

 だが、深夜のテレビ番組では、しばしば出演者の個性を生かす良質な番組が増えている。

 そこで大谷=「ラジオの人」という図式が出来てしまえば、「あー、ラジオの人だから暑苦しいのか。面白い人だな。」というように、スムーズに大谷の世界観をテレビのなかでも受け止められるのである。

 つい先日のダイノジをフィーチャーした「ゴットタン」(テレ東)も、司会を務める「アフロの変」(フジテレビ)も大谷の良さが凄く生きている。



 ここから見えてくるのは、テレビとラジオが微妙に接近しつつあるということかもしれない。

 テレ東の佐久間プロデューサー(ゴットタンなどのスタッフ)が色々なところで、予算が無い分、出演者の個性を生かす番組づくりをしてきた、と発言しているが、ある意味、それをやってきたのがラジオだった。

 ラジオは出演者の個性だけで出来ていると言っても過言ではない。結果的に一部のテレビで、特に予算の限られた深夜の番組でそれが共通しはじめている(実際、佐久間氏のラジオ好きは有名)。

 「水曜どうでしょう」のディレクターだった藤村氏も、「大事なのは人間模様」と常々語ってきた。

 もちろん、(日本の)テレビは基本的に大きな予算で、一般人にアクセスが難しい情報を伝えたり、日常では作れない大がかりなセットでコメディやドラマをつくるものだ。やはり、そこがテレビのあるべき姿だと思う。

 しかし、それだけでは満たされない部分が人間にはある。

 それは人間が人間と結びつきたいという欲求であり、人間が生身の人間を感じ取りたいという気持ちだろう。

 それがラジオや一部のテレビで満たされる。これからも、そういうラジオとテレビが続いてほしい。