それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

限定Suicaと市民の善き生:フェティシズムの消費

2014-12-23 12:16:22 | テレビとラジオ
今年は香港で大規模な民主主義を求めるデモが起きていた。

アラブの春が2011年だったわけだが、民主化の動きが東アジアに浸透しても何の驚きもない。

片や東京では、限定Suicaの発売をめぐって、軽い暴動が起きていた。

限定Suicaの問題は、まったく関係ない文脈だ。

語るほどのものでもないだろう。

しかし、私はこの限定Suicaの問題を興味深く思っている。

この現象は、日本で市民が立ちあがるのは政治的な問題よりも、市場的経済的な問題である、ということを示してはいないだろうか。



もちろん、原発問題やヘイトスピーチがあって、日本でも一般市民が路上で政治的なことを主張することが増えた(それがたとえパラノイア的なものだとしても)。

けれども、ここで重要なのは、限定Suicaという、はっきり言えば、特に生活に支障のないような、どうにでもなりそうなもので、日本社会の市民が軽い暴動に及ぶ、ということなのである。

つまり、政治的な問題は生活やアイデンティティをめぐる一種の闘争なので、暴動に及ぶのは不思議ではないわけだが、限定Suicaはまったくそうではない(はずだ)。

私はなにも限定Suicaがくだらない、と言いたいのではない。

そうではなく、日本の社会のなかで、限定Suicaのような「商品」ほど重要なものは、なかなかないということなのである。

先日の選挙は、きわめて低い投票率を記録したが、それは一般市民は文句を言いながらも、実際のところ、それほど政治に不満を持っていない、ということを示している(と私は考えている)。

もちろん、誰もが投票に行けないほど、労働を搾取され死にかけている、という可能性もある。

しかし、だとすれば、なぜ限定Suicaで人々はあんなにも元気なのだろうか。



私が言いたいのは単純なことだ。

日本の社会の多くの人々が欲しているのは、「市場を介したフェティシズムの追求」であるということ。

政治に参加して善き生を追求するのではなく、社会的なステータスの上昇を善き生とするのでもなく、各人が持っているフェティシズムを追求することが、日本社会の多くの人間にとっての善き生なのだ。

だから、限定Suicaは重要なシンボルだった。

選挙よりもよほど重要なのである。

それが悪いとは思わない。

坂の上の雲を越えると、そこはフェティシズムの世界だった。

今年の英米の音楽から何枚か

2014-12-07 11:49:32 | テレビとラジオ
最新の英米圏の音楽は、なかなか追えない疎い私だが、それでも今年ぐっと来たアルバムを幾つかピックアップする。

1.ジャロッド・ローソン『Jarrod Lawson』
この新人アーティストのアルバムがなかなかの話題を集めていたが、実際に聴いてみて、かなり良かった。

全曲作詞作曲、さらに演奏までをこなしているというローソンだが、古典的なソウル、ジャズ、ラテンなどの言語はお手の物。

見事に消化された多彩な音楽ジャンルが、ひとつのアルバムに見事に溶け合っている。

決して新しいわけではない。しかし、良く出来ている!上手い、何より上手い。曲作りから演奏まで、新人か?と思うクオリティだ。

買って後悔することはないアルバムであることは請け合い。


2.アジーリア・バンクス『Broke With Expensive Taste』
私は全く詳しくないが、この女性ラッパーはとにかくトラブルメーカーで有名らしく、このアルバムも音楽レーベルと揉めに揉めた末、自主レーベルから発表された。

しかし、ヒップホップは揉め事の文化。揉めてこそ、ヒップホップである。

このアルバムの何が良いって、トラックのノリと音色。

有りそうで無い軽快で気持ちの良い見事なサウンドに、華麗なラップが乗っている。

これは中毒性アリ。


3.ミスター・ツイン・シスター『Mr. Twin Sister』
一部で話題沸騰。ツイン・シスターからアーティスト名を変更し、この名前に。ついでにアルバム名も同じにしてみました。

サウンドは、見事なディスコサウンドなのだが、とにかく、これも良く出来てるわけ。

聴いていて気持ちが良い。すーーーっと引き込まれるわけで。

ダフトパンクなどが好きな人は、きっと好きに違いない。