それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

日本テレビ「マツコとマツコ」:アンドロイドとコミュニケーションの過剰性

2014-12-30 10:42:42 | テレビとラジオ
マツコ・デラックスのアンドロイドがマツコ・デラックス本人と番組をやっていた。

大阪大学の石黒教授の名前は聞いていたが、アンドロイドがどのようなものか、私は良く知らなかった。

だから、この番組ではアンドロイドのことを少し知れただけで、本当に価値があった。



私はアンドロイドの研究とはきっと、最終的に「ドラえもん」とかそういう自律型のロボットを作ることを目標にしているのだろうと勝手に思っていた。

それは間違っていないのかもしれないのだが、番組のアンドロイドから見えてきたのは、人間の社会的認知やコミュニケーションの不思議で、結果的にアンドロイドよりも人間の奇妙さに目が行った。

多くの人間は、人間のどの場所を見て人間と判断するのか。

見た目がそっくりなアンドロイドから、人間の社会的な認知のポイントが透けて見える。

どうも人間は基本的に、多様な他者の動きを無意識のなかで事前に想定しているらしい。

眼を見る以前に、体の動かし方を観察し、手の動きをよく見ている。それを自分の頭のなかの想定と比較し判断する。

だから、そこに不自然さがあると、急に気味が悪くなる。

人間に似ているのに、人間らしくない動きが恐怖感に変わる(「不気味の谷」現象と言うのだそう)。



問題はその後で、アンドロイドと分かった後に、人間がそれとコミュニケーションすると、人によっては強い安心感を得るということだ。

例えば、自閉症の人がむしろアンドロイドを好む、ということは、何を意味しているのだろう。

人間はコミュニケーションの際に相手の感情を読み取りながら会話をする。

実のところ、そこに落とし穴があるのかもしれない。

私にとって、相手の感情を読み取りながら会話するのは、時に非常に疲れる。

おそらく感情の読み取りそのものではなく、読み取ったデータの処理が大変なのである。

歳を取るにつれて、私は色々な人の良心や悪意に出会い、読み取るべきデータが当初思っていたものよりもずっと膨大であることに気が付きはじめた。

私はそれまで、人間の感情、そしてその奥にあるものをどこかで決めつけていたようだった。

その決めつけを取り外すと、今度は膨大に処理すべきデータが噴出してきて、本当に面倒になっている。

アンドロイドには、それが無い!!

アンドロイドには、コンプレックスも無いし、悪意も無い。過剰な自己主張も無ければ、攻撃性も無い。

つまり、人間のコミュニケーションに伴う過剰なデータの相互交換を最小限に抑えてくれるのである。



番組では、ミッツ・マングローグらマツコの友人たちが、マツコのアンドロイドを囲んで話をするという企画が行われた。

そこで思いも寄らぬほど、それぞれのマツコに対する思いが溢れてきていた。

もちろん、アンドロイドとそれ以外(例えば、全身パネルとか、胸像とか)を比べなくては、アンドロイドの効果が分からない。

ただ、ミッツ氏が思わず口にした、「これはつまり生前葬なのよ」、という言葉は非常に印象深かった。

アンドロイドは不可避的に(アンドロイドの)オリジナルの人間のことを考えさせてしまう。

そして、ただ静かに頷くだけのアンドロイドは、まるで仲間のなかに佇む死者の霊でもあるかのようだった。

その存在に向けて、本当は言いたかった心のうちを仲間が口にする。

これもつまりは、コミュニケーションに伴う過剰なデータの交換が無いためではないのか。

とにもかくにも、まずは実際にアンドロイドと一度対峙してみるべきだろう。