それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

テラスハウス:ようやくフランキーによって本質的な部分に至る

2014-07-15 08:51:38 | テレビとラジオ
テラスハウスが話題になってから、私が最も苛立っていたのは、家をシェアすることがそのまま恋愛につながる、という安易で馬鹿げた発想が各所で当たり前のように出始めたからだ。

日本の文化圏の人々は、男女で同じ家をシェアするということに抵抗があるか、無くてもすぐに恋愛に結びつけてしまう。

けれども、実際そうではない。

今回、フランキーという芸術家がいた間のテラスハウスは比較的、家をシェアすることの本質の一部に触れていた。

フランキーはテラスハウスを出ていく段階に至り、こう告げた。

これまで友達を作らない分、創作活動をすることで、少しでも前に進んできたと思った。でも、テラスハウスに来てから、友達との時間を犠牲にして、創作活動の時間をつくるべきではないのではないか、という思うようになった。何もかも犠牲にして得られる成功って何なのだろう、と。

僕も全く同じ考えで研究に打ち込んできた。

そして、留学先でやっぱりフランキーと同じように自分の考えが間違っていたと思い直した。

家をシェアするということは、自分の価値観を他者の価値観とぶつけ、すり合わせ、そして、より洗練されたものにすることにつながる。

自分が正しいと思っていることの大半は思い込みであり、気づいていないだけで利己的なものだ。

けれど、自分を変えるのは難しい。誰だって、自分をさらけ出さずに人と生活するようにしている。

誰かと一緒に暮らすということは、そんな強固な自分に強烈な圧力を加えることだ。

同じくハウスのメンバーで、フランキーの友人となった一平の変化もこれと同じだ。

自分が何をやっているのか、何に向き合っているのか、彼は他者との生活を通じて改めて考えなおしたのである。

こうやって日本でシェアハウスの偏見が無くなっていく、といいなあ。