話題のNHKスペシャル。まず、小保方氏にケガをさせたのは、NHK取材班の大失敗である。
はっきり言って、もうSTAP細胞の問題は小保方氏個人の問題ではないのであり、それがNHKスペシャルのメッセージだった。だから、彼女に無理に取材することが効果的とは思えない。
今回このレポートが秀逸だったのは、笹井氏について言及したところだ。ほぼ、そこだけだったと言っても良い。
このレポートが指摘した笹井氏の役割は、次の2点だ。
第一に、小保方氏(を中心とした執筆陣)の論文がネイチャーに掲載されるように修正したのが、笹井氏だった。
それも単なる修正ではなく、論文として一級品になるように構成し直した。
彼の「論文を書く技術」は天才的だったというのである。
どんな論文にも弱いところがある。
文系でも理系でもそうだ。
「論文を書く技術」は、その弱いところを如何に隠し、強い部分を全面に押し出し、そして、その研究上のインパクトをどれだけ分かり易く伝えるか、というところにある。
やはり、その点も文系・理系に共通する。
ただし、文系の場合、論文の構成やデータの扱いに加えて、修辞法という古典的な技術が加わる。もちろん、社会科学の場合、修辞法は原則禁止で(というのも、それで読み手の印象が変わるからであり)、その禁止の範囲内でどこまで修辞法を使うかが、それぞれの筆者の技量ということになる。
話を戻すが、要するに笹井氏は、ネイチャー、セル、サイエンスという有名雑誌に次から次に弾かれた論文を、天才的な力で一級品に変えてしまったのである。
これは凄い力量である。
第二に、笹井氏は単に論文を修正したということにとどまらず、政府、企業、大学からなる再生医療分野の、総合プロデューサーのような存在だった。
彼は研究がどういう意味を持っているのか、企業や政府が何を欲しているのか、どこが予算獲得のツボなのか、天才的に把握していたという。
文系の場合も、予算獲得にツボがある。だが、理系と決定的に違うのは、予算の規模だ。
文系は巨大なインフラを基本的にほとんど必要としない。また、民間企業がべったりくっつくことも少ない。
もちろん、特定の省庁や企業が特定の分野、特定の大学の学部にくっついているケースはあるが、かなりレアだと言っていい。
笹井氏が関わった再生医療分野のカネの流れは、研究街をつくってしまうほどの量だった。
小保方論文は、その彼の構想のなかに丁度良いタイミングで登場したのであり、そのプロジェクトがもし軌道に乗ってさえすれば、爆発的な研究資金の獲得につながったことは疑いえない。
そこから生じる権力構造は計り知れない規模であっただろう。
もちろん、笹井氏=真犯人、という単純な結論で済ますわけにはいかない。
問題は、日本の企業でも大学でも、内部告発を徹底的に弾圧する風土があることだ。
制度上、企業も大学も内部告発を形式的に認めているだけで、制度上は何の保護も与えるつもりはない。
科学者のなかの研究不正を監視する公的な組織もほぼ皆無と言っていい。
研究倫理はあくまで研究室単位で個人個人が徒弟制のなかで教えていくものだというわけである。
10年前の日本の大学なら、この徒弟制度による研究倫理の徹底は機能していたかもしれない。
しかし、今は違う。
決定的なのは、学生の大学間の移動が奨励され始めたことである。
私は文系の研究者なので、あくまで文系の話になるが、この10年で大学間移動の評価は180度変わった。
以前は、大学を移動する人間はキワモノ扱いされがちだった。
ずっと一所にいる学生を模範としてきた。
ところが、この10年の間に、公的資金の獲得においても、就職活動においても、大学間移動はむしろ優れた人材の証明と見なされるようになった。
私自身も留学とともに、指導教官を変えることになった。それはより専門的な教育を受け、研究を実施するためだったわけで、この変化は決して不思議なことではない。
そして、小保方氏も見事に研究室を渡り歩いてきた(さらには、文科省お墨付きの研究資金を次から次に獲得していった)。
人材の流動性を高めることは、単に優れた人材が国内外を移動することを意味するだけでなく、若手研究者を不安定な立場に追いやってもいる。
結果を出さなければ、生活も研究も行き詰るようになっている。
この点も見逃してはならない。
近年、大学院の重点化が先走り、研究者の人数が増加し、立場の不安定化に拍車がかかってきた。
ところが、人材の(グローバルな)流動化を推し進めておきながら、公的な制度として、研究「不正」を監査する機能は、どの研究機関も大学も政府も構築してこなかった。
これが最大の問題である。
すなわち、研究「不正」を押しとどめていた組織文化の破壊と、「不正」をはたらくインセンティブの醸成が同時に成立しているのが、今の日本である。
だが、日本ではそのことに目をつぶってきた。
そもそも、研究の世界だけではなく、広く一般的に日本では内部告発を否定してきたのである。
内部告発をした人間がその後、弾圧された事例として、雪印の事件が今も私の記憶に強く残っている。
内部告発は、いわば告発者の社会的ネットワークを破壊することにつながる。
ところが、国家は全くそのことに無頓着で、社会もまた告発者への制裁は当然としている。
以上から明らかなことは、これから日本での研究不正は増加するしかない、ということだ。
増加する理由はあっても、減少する理由がひとつもない。
ちなみに、不正を働いているのは、理系だけではない。文系にもある。
海外の論文の主張をそのまま自分の論のようにする研究者や、適当な論文を複製して業績を増やしたり、おかしな引用、出典、データを利用したり、とにかく色々見受けられる。
だが、文系の場合、動くお金の量があまりにも少ないので、問題にならない。
ただ、一部の真面目な研究者の間で、そういう研究が無視されたり、さげすまれたりするだけでなのである。
このSTAP細胞の問題は、また必ず社会問題として日本に再登場する。
その時はきっと全く別の研究者による、全く別の研究分野で。
はっきり言って、もうSTAP細胞の問題は小保方氏個人の問題ではないのであり、それがNHKスペシャルのメッセージだった。だから、彼女に無理に取材することが効果的とは思えない。
今回このレポートが秀逸だったのは、笹井氏について言及したところだ。ほぼ、そこだけだったと言っても良い。
このレポートが指摘した笹井氏の役割は、次の2点だ。
第一に、小保方氏(を中心とした執筆陣)の論文がネイチャーに掲載されるように修正したのが、笹井氏だった。
それも単なる修正ではなく、論文として一級品になるように構成し直した。
彼の「論文を書く技術」は天才的だったというのである。
どんな論文にも弱いところがある。
文系でも理系でもそうだ。
「論文を書く技術」は、その弱いところを如何に隠し、強い部分を全面に押し出し、そして、その研究上のインパクトをどれだけ分かり易く伝えるか、というところにある。
やはり、その点も文系・理系に共通する。
ただし、文系の場合、論文の構成やデータの扱いに加えて、修辞法という古典的な技術が加わる。もちろん、社会科学の場合、修辞法は原則禁止で(というのも、それで読み手の印象が変わるからであり)、その禁止の範囲内でどこまで修辞法を使うかが、それぞれの筆者の技量ということになる。
話を戻すが、要するに笹井氏は、ネイチャー、セル、サイエンスという有名雑誌に次から次に弾かれた論文を、天才的な力で一級品に変えてしまったのである。
これは凄い力量である。
第二に、笹井氏は単に論文を修正したということにとどまらず、政府、企業、大学からなる再生医療分野の、総合プロデューサーのような存在だった。
彼は研究がどういう意味を持っているのか、企業や政府が何を欲しているのか、どこが予算獲得のツボなのか、天才的に把握していたという。
文系の場合も、予算獲得にツボがある。だが、理系と決定的に違うのは、予算の規模だ。
文系は巨大なインフラを基本的にほとんど必要としない。また、民間企業がべったりくっつくことも少ない。
もちろん、特定の省庁や企業が特定の分野、特定の大学の学部にくっついているケースはあるが、かなりレアだと言っていい。
笹井氏が関わった再生医療分野のカネの流れは、研究街をつくってしまうほどの量だった。
小保方論文は、その彼の構想のなかに丁度良いタイミングで登場したのであり、そのプロジェクトがもし軌道に乗ってさえすれば、爆発的な研究資金の獲得につながったことは疑いえない。
そこから生じる権力構造は計り知れない規模であっただろう。
もちろん、笹井氏=真犯人、という単純な結論で済ますわけにはいかない。
問題は、日本の企業でも大学でも、内部告発を徹底的に弾圧する風土があることだ。
制度上、企業も大学も内部告発を形式的に認めているだけで、制度上は何の保護も与えるつもりはない。
科学者のなかの研究不正を監視する公的な組織もほぼ皆無と言っていい。
研究倫理はあくまで研究室単位で個人個人が徒弟制のなかで教えていくものだというわけである。
10年前の日本の大学なら、この徒弟制度による研究倫理の徹底は機能していたかもしれない。
しかし、今は違う。
決定的なのは、学生の大学間の移動が奨励され始めたことである。
私は文系の研究者なので、あくまで文系の話になるが、この10年で大学間移動の評価は180度変わった。
以前は、大学を移動する人間はキワモノ扱いされがちだった。
ずっと一所にいる学生を模範としてきた。
ところが、この10年の間に、公的資金の獲得においても、就職活動においても、大学間移動はむしろ優れた人材の証明と見なされるようになった。
私自身も留学とともに、指導教官を変えることになった。それはより専門的な教育を受け、研究を実施するためだったわけで、この変化は決して不思議なことではない。
そして、小保方氏も見事に研究室を渡り歩いてきた(さらには、文科省お墨付きの研究資金を次から次に獲得していった)。
人材の流動性を高めることは、単に優れた人材が国内外を移動することを意味するだけでなく、若手研究者を不安定な立場に追いやってもいる。
結果を出さなければ、生活も研究も行き詰るようになっている。
この点も見逃してはならない。
近年、大学院の重点化が先走り、研究者の人数が増加し、立場の不安定化に拍車がかかってきた。
ところが、人材の(グローバルな)流動化を推し進めておきながら、公的な制度として、研究「不正」を監査する機能は、どの研究機関も大学も政府も構築してこなかった。
これが最大の問題である。
すなわち、研究「不正」を押しとどめていた組織文化の破壊と、「不正」をはたらくインセンティブの醸成が同時に成立しているのが、今の日本である。
だが、日本ではそのことに目をつぶってきた。
そもそも、研究の世界だけではなく、広く一般的に日本では内部告発を否定してきたのである。
内部告発をした人間がその後、弾圧された事例として、雪印の事件が今も私の記憶に強く残っている。
内部告発は、いわば告発者の社会的ネットワークを破壊することにつながる。
ところが、国家は全くそのことに無頓着で、社会もまた告発者への制裁は当然としている。
以上から明らかなことは、これから日本での研究不正は増加するしかない、ということだ。
増加する理由はあっても、減少する理由がひとつもない。
ちなみに、不正を働いているのは、理系だけではない。文系にもある。
海外の論文の主張をそのまま自分の論のようにする研究者や、適当な論文を複製して業績を増やしたり、おかしな引用、出典、データを利用したり、とにかく色々見受けられる。
だが、文系の場合、動くお金の量があまりにも少ないので、問題にならない。
ただ、一部の真面目な研究者の間で、そういう研究が無視されたり、さげすまれたりするだけでなのである。
このSTAP細胞の問題は、また必ず社会問題として日本に再登場する。
その時はきっと全く別の研究者による、全く別の研究分野で。