それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

バンプ・オブ・チキンがMステに出た件:コミュニケーション障害について歌うバンドとメディア露出

2014-07-26 22:31:24 | テレビとラジオ
バンプ・オブ・チキン(以下、BOCと略記)がミュージック・ステーションに出演した。

バンプ・オブ・チキンはこれまでTVには基本的に出演してこなかった。

だから、今回のMステ出演は一部でずいぶんと話題になっている。

なぜ、やたら話題になるのか。

それは、コミュニケーション障害について見事に歌い上げているBOCが、TVに露出すること自体によく分からない強い不安、あるいは一種の悲しみを感じるからだと私は思う。

BOCの歌が私は好きだ。私は藤原氏の書く歌詞に強烈に共感している。

BOCの曲は自分に寄り添う。これは単なるラブソングを歌うバンドへの支持とは全く異なる。

曲と自分の距離がとても近くなる。

テレビは、その距離感と食い合わせが酷く悪い。

テレビは演者と視聴者の間にとても距離があるメディアだ。それはとても不思議なことだ。

例えば、ラジオと比べるとそれは明確になる。

BOCはひっそりと自分の傍にいてほしいと、おそらくコミュニケーションに問題を抱えるファンの多くが感じているのではないか。

だから、奇妙にもBOCのMステ出演には、賛否の両方が出てきたのである。



では、他のバンドはどうだろう。

比較したいのは、SEKAI NO OWARIだ。

彼らの楽曲は、ひとつの世界観で一貫して作られている。

SEKAI NO OWARIをよく理解しないで批判することは容易い。しかし、よく理解したうえで批判することは苦しい。

彼らの楽曲に一貫しているのは、歌詞の主人公が明らかに強烈なコミュニケーション障害を抱えている点で、しかもその克服が仮想空間のなかでの克服なのではないか、場合によって単なる空想なのではないか、と示唆する点だ。

例えば、代表曲RPGは典型だ。

「空は青く澄み渡り 海を目指して歩く

怖いものなんてない 僕らはもう一人じゃない」

そして、題名の「RPG」。

冒険、絆、そして、それはまるでゲームの世界。

もう一人じゃなくなる前は、どれだけ孤独だったのだろうか。

でも、今感じているその絆はそれはリアル?それともバーチャル?あるいは、空想?

では、リアルの世界ではどうか。

ライブのなかで一際異彩を放つ一曲が、「銀河街の悪夢」である。

これは精神疾患を患った人の長い一日を歌ったものである。

これがリアルで、先の曲がバーチャルだったら、本当に辛い話である。しかし、それは日本に沢山いる若者の話である。

この明暗の世界観が背中合わせになっていることで、SEKAI NO OWARIはアーティストとして、とても深いのである。

SEKAI NO OWARIの世界観は、メディアに非常に強いと私は思う。

曲はJPOPへの尊敬が随所に込められている。だから、驚くほどキャッチーで沁みてくる。

そして、歌詞は奇妙なほどバーチャルで、奇妙なほどコミュニケーション障害で、しかし、とても明るくファンタジックなのである。

こんなにテレビに向いているアーティストがいるとは思えないほどの世界観。そして、彼らはあまりにも個性的であり、技巧的なのである。



BOPとSEKAI NO OWARIは、ともに強烈なコミュニケーション障害系バンドとしての共通点がある。

しかし、両者の世界観は似ているが、アプローチが決定的に異なるため、テレビ出演の是非が支持者のなかで変わらざるを得なかったと私は解釈している。

ドラマ「アラサーちゃん」:すべてがコジれた少子高齢化社会の教科書

2014-07-26 20:59:01 | テレビとラジオ
マンガ『アラサーちゃん』がドラマ化された。

私は原作のファンである。

主人公はアラサーの女性。有名私大出身で、年収およそ500万。日本のなかの典型的な女性像ではないが、結婚しないで恋愛を楽しむ、一定程度自立した女性像である。しかし、結婚願望がないわけでは決してない。

『アラサーちゃん』の面白さは、主人公が暴露していく人間の「自意識」である。自分は「こういうキャラクターとして認知されたい」、「こういう狙いで行動しています」というのを次から次へと見抜いていく。

男性から可愛く見られるための様々な言動、あるいはその反対に、サバサバしていると見られるための言動。人とは違う人間ですアピール、俺、もてるんだよねアピール。とにかく、次から次へと人間の心の痛点が突かれていく。

それが面白いのは、我々の多くがその自意識を共有しているからであり、そういう自意識の暴露を日々心のどこかで行っているからである。



ドラマでは、主人公を壇蜜が演じている(演技は以前よりも良くなっている)。さらに、ライバルのゆるふわちゃん(可愛いを追求する女子代表)は、演技に定評のある、元セクシー女優のみひろ。

他のキャストも原作にかなり忠実で、ファンとしては大満足の第一回目の放送であった。



女性も男性もある一定の社会階層に入ると、なかなか結婚できなくなる。

これは私の周りで明確に起きていることだ。

結婚する経済的理由が少なく、結婚しなければならないという強烈なコンプレックスもなく、「タイミングが合えば、良い人がいれば」が口癖になっている。

つまり、自由を勝ち取った人間である。これは本当に素晴らしいことだ。

かつて日本の社会では、女性は結婚しなければ生活できなかったし、男性も独り身では安定した日常生活を送るのは難しかった。

家事は大仕事で、家族制度は公的にも私的にも人間を縛る、強烈な制度であり、規範だった。

そうした束縛から多くの日本の社会の人々が自由になったのだ!

「アラサーちゃん」はそのことを示唆する。



ところが、そんな現代を生きるアラサーの我々は、いまや自意識の奴隷なのである。

自分の趣味、性的嗜好、社会的ステータスなどなど、とにかく自分のアイデンティティの構築と、パートナー選びが密接になり過ぎて、今度は誰も選べない社会になってしまった。

さらに言えば、友達を作るのも大変だ。お互いの自意識を深読みしすぎて、もう色々面倒なのである。

残酷な「アラサーちゃん」のテーゼはそこにある。



かく言う私もそうだ。とにかく、考えているのは周囲の人間との適切な距離の取り方。

いや、相手には適切でなくても、私の近くに来すぎてくれては困ることがしばしば。

そういうことが私の本業のノイズになる場合、シャットダウン。

でも、私は結婚した。

私は非モテで、アイデンティティが面倒くさいレベルでごちゃごちゃしていて、相手に自分の深い理解を必要としているため、適切な人間の選択の余地がなかった。

逆に言えば、奇跡的に私を受け入れる人がいたので、その人を選んだのである。

大体、私をパートナーとして選ばないわけで、結婚とは歴史的にも、そして現在も制約によって生じるものだ(あるいは、何らかの強烈な支配と拘束によって生じる)ということが、以上の雑な考察から分かる。