それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

すごい先生に出会ったこと

2012-10-22 06:43:20 | 日記
学会、と書いてしまうのが憚られるのだが、そいつに行ってきた。

今回は報告なしで、アレンジしたパネルが一個。それと事務の補助が一個。

上位の大学がどのように研究者を育てているのか、それについて沢山の情報を今さらながら得た。いや、これは誰でも知っていることではない。

それこそ比較しないと特性が分からないものなのだが、それは他の大学の研究者とよくよく話合わないと分からない。

大いにこれまでの研究の在り方を反省し、改めて自分を鍛え上げることを決めた。



ところで、パネルのアレンジなのだが、まあ、これが色々あって。

今回は一回限りということで引き受けて、好きなように面白いところだけやらせてもらった。

そのおかげで色々な人との出会いがあって、発見があった。

今回の目玉は、ある大物の先生の登壇。

僕は大いに期待していたのだが、その期待をはるかに上回る展開に。

バラバラでそれほど成熟しているとは言えない3つの報告を聴いた後、その先生がコメントに入る。

信じられない。今までの報告すべてがとてもとても面白いものだったかのように思えてきてしまうのだ。

とんでもなく深く広い教養。鋭い洞察。そもそもIQがめちゃくちゃ高い。そして、何より熱意だ。

彼からは特別なオーラが出ていた。

それぞれの報告をロジカルに批判するというのではなしに、もっともっと大局から、若手の報告を包み込んでいく。

会場は学会では通常考えにくい感動に包まれた。

そんなことが起こり得るのか。

セッションの後も僕は先生と話すことが出来た。熱いものがたぎってくる。

パネルをやって良かったのだ。研究をやってきて良かったのだ。

先生は言う。「若い人がまだ、こんなふうに僕の研究に注目してくれるのなら、まだ死ぬまでにいくつかやることがあるね。」

彼は人生の終着地点を遠くに見ていて、研究と教育のことをそれまでとは違った角度から考えている様子だった。

研究者とはとてもクリエイティブな仕事だ(お金にはならないが)。

しかしながら、クリエイティビティは体力と集中力、そして精神的な余裕が必要で、人間は一般的に40歳、50歳とクリエイティビティを維持するのはとても難しい。

多くの研究者がそれを失い、普通のサラリーマン教授になっていく。

第一線で活躍する研究者は一握り。これを一流とすれば、他は全員三流と言われてしまうのが、この世界の怖いところだ。

先生は言う。「とびきり若い人たちと定期的に交流しないと刺激がないんだよ。」

僕らは先生に新しい刺激となっただろうか。先生は「なった、とてもなった」と言ってくださった。

それは僕たちにとっても同様だった。

研究者の目標はそれぞれ違う。僕には僕の目標があり、僕の近しい若手にはまた別のそれがある。

僕はまた今日から研究する。

それは戦いであり、遊びである。

だが、僕は思う。研究は遥か彼方を見ていると。

その時間感覚が僕のなかの研究の大事なところ。僕はそのことを改めて、今回ご登壇くださった先生から教わった。