それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

ラジオの話

2012-04-24 19:39:22 | コラム的な何か
今日は僕の小さな秘密について話そうと思う。

いや、秘密というほどのことでもない。

僕はラジオをよく聴いている。イギリスで日本のラジオを、だ。

今は色々方法で聴けるのであって、ラジオは研究の合間の最高の息抜きであり、情報収集の手段となっている。

日本にいる時もラジオは多少聴いていたが、イギリスに来てもっと聴くようになった。

理由は分からない。テレビが無いからかもしれないし、長時間ひとりでいるからかもしれない。



ラジオに投稿したことなんて今までの人生で全くなかった。

ところが、最近、立て続けに二度それぞれ違う番組に投稿して、それぞれ読まれたのである。

それだけならまだしも、片方はその回の一番のネタに選ばれ、そしてもう片方はある番組のなかでその日読まれた唯一メールとなった。



投稿すること自体にはそれほど執着はない。実際、2年以上ラジオを真剣に聴いてきて、投稿したくなったことはこれまでほとんどない。

こちらは研究をしている身であり、論文を発表している身。自己実現はラジオではなく紙媒体でなされるのである。

ところが、今回の2回に関してはどうしても書きたくなった。

いや、全然長いメールじゃあないのだ。とても短いもので、簡単に書けてしまう。

ただ、思いつてしまったことを送らずにはいられない衝動をどうしても止められなかった。

「この文章をパーソナリティが読んだらきっと笑う」と思ったが最後、いてもたってもいられなくなってしまった。



でも、きっとこれは僕に特別な話ではなくて、ラジオを聴いている人間なら誰しもに起こりえることだ。

ラーメンズのコントのなかで次のようなセリフがある。

「誰でも一生に一度は面白い小説を書けるものですよ。」

これは言いすぎ。小説は簡単には書けない(「小説的なるもの」はとてもとても奥が深い)。

でも、ラジオへのメッセージは書ける。

毎週書くのは無理でも、一生に一度は書ける。



そんなことなら、別にここに書くまでもないことなのだが、僕が少し興奮を覚えているのは何かというと、

イギリスにいる人間が日本のラジオにメールをして、それが読まれて番組にほんの少しではあるが、確かに影響を与えた、あるいは参加をしたということなのである。

パーソナリティはもちろん僕の住所を知らない。

僕が何をしている人かも知らない。

どういう方法で聴いているかも知らない。

僕の文章だけがパーソナリティとスタッフと僕、さらにリスナーをつなぐ。

その事実はとても奇怪であり、奇妙である。

さらに言えば、僕が投稿した両方の番組は、僕の実家では聴けない。

それはある程度、日本の中心部に近づかなければ聴こえない。

僕があこがれと反発の両方を抱く日本の中心部。

そこに対して番組が全く想定しないかたちで、ほんの少し、ほんのわずかにでも関与し引っかき回したということが僕の心を気持ちよくさせるのだ。

それはある意味で、あまりにも魅力的で誰にも迷惑をかけない類の「いたずら」である、ということなのだ。



奇怪と言えば、そう、このブログの読者の皆様である。

僕はこのブログの存在を数えても7人の人にしか教えてない(僕の知っている範囲で、教えた人が教えた人も含めている)。

けれど、毎日、このブログには100人余りの人が来て、そして3回ほどチェックするらしい(ゆえに300アクセス)。

もちろん、定期的な読者はそのうちの半分にも満たないかもしれない。

だとしても、1学級分くらいの人数にはなる。

その大半は僕の顔も名前も知らない(はずだ)。

僕の方だって、皆さんが誰かを存じ上げない。

けれど、僕は確かに皆さんに向けてこの文章を書いております。どうぞよろしく。