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それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

ブログ、新章始まります。

2014-05-05 19:19:39 | 日記
止めると宣言して、早半年以上が経過した当ブログ。

しかし最近、メディアの消費者として、くらだらないことを書き続ける、くだらないブログを作ろうかと考え付き、

そして、改めてこのブログをそのように改造しようと考えた次第。

どうぞよろしく。

理解の外側

2013-09-30 21:53:01 | 日記
小さい頃から世界とうまくつながらない。

まるでいつも0.5次元ズレているような感覚。

誰かとつながるとか、理解し合うとか、途中でようやく諦めがついた。

それがいつの頃だったかは分からない。

でも多分、小学生だったと思う。

孤独っていうのは腹を据えて「受け入れる」という覚悟が必要になる。

期待とか希望みたいなものとかをちゃんと捨てて、自分を保つために丹田あたりに力を入れる。

留学したとき、そういうことを一度忘れた。

そういう力の入れ方を忘れて、力を抜いても十分研究できるのだと知った。

そして、日本に戻ってきて、力を抜いたまま生活したのだが、やっぱりうまくいかず、

僕はまた腹に力を入れた。

それが今月のこと。

研究を始めた時のことを思い出した。

孤独で、ひどく孤独で、そのずれた次元の隙間から、

僕はモノを書くことで、どうにかやっていた。

それで今、もう一度そういう気持ちに戻って、

でも、僕はイギリスで出会ったことをもう知っているので、

やっぱりもう昔の僕ではないのである。

だから、というわけではないのだが、

ここを出るべきだと思っている。

どうにかして、今お世話になっている大学から出るべきだと。

それはつまり、僕が留学する直前の気持ち。きっとそれに近い。

そしてきっと、少しだけ違う。

研究の日記

2013-08-30 07:55:16 | 日記
いつだって壁に直面している。

新しいものを書くということは、つまりそういうことだとは思う。

けれど、相当のエネルギーを使って上手くいかないときはとても辛いものだ。

ある一般向けの論稿を彼女に読んでもらったところ、

「長いし、意味が分からなかった」と素直に言ってくれた。

その通りだったが、私は深く傷ついた。

その傷つき方は読者諸氏が思うよりもずっと深く。

で、私はすぐに寝ることにした。もう研究もやりたくなくて。

私はここ数か月の私を否定されたような気持ちになって、落ち込んだ。

私はとてもナイーブで、研究をちょっとでもダメだと言われると、もう右も左も分からなくなってしまう。

もちろん、相手が研究を分かっていない場合でも、そいつに原因があるという場合が少なくないので、結構冷静でいられるはずなのだが、

彼女のコメントはおそらく自分のその研究の微妙な自信と不安の崩れやすいバランスに、当たり所悪く命中したのだろう。

私が一生懸命研究している題材は無意味なのだろうか?

自問したが一向に答えが出ない。

客観的に言って、それを言葉にできているのか。それはそもそも無かったことにすべきなのか。

イギリスの師匠の言葉、「研究者は孤独なのよ・・・」を思い出す。

決めるのは自分。言葉を紡ぐのも自分。語るべきかどうかは、つまるところ自分しか分からない。



けれど、私の良い所が少しでもあるとすれば、負けず嫌いということだ。

明け方、目覚める時に全く違うアイディアが出てきた。

書き方も本気で一般向けにする。

難しい枠組みも使わない。

何を念頭に置いているのか明確にする。

それで、すぐに午前中に新しい短いものを書いた。

しかし、書いてみて直観的にまだそれがダメであることは分かった。

でも、私はすぐにそれを彼女に送った。



夜、日本の師匠のツイッターを読んでいて、私は自分が新たに書いたことの意味を発見した。

そこですかさず午前中書いた文章を直した。

そして、師匠に「先生のツイッターを読みました」とラブレターさながら、その文章を送った。

実はその前に書いたものも送ってはいた。けれど、彼女のコメントを受けて、すぐに破棄してくれるよう頼んだ。

朝、先生から新しいものへのコメントが来ていた。

とにかく読んでもらえたのが嬉しかった。

コメントはさすが見事なもので、私は私が書いていることに意味があるということをもう一度信じることができた。

完成度が問題ではないのだ。

ひとつでも僅かでも面白いと思ってくれるかが問題なのだ。

あとは速度だ。

私はさらに速くなれるだろうか?

スープついて

2013-08-17 11:19:36 | 日記
長々とスープに関する作り話を書き続けてしまった。

下手な作り話を書いた当初の目的は、教育と支配の密接な関係が教育現場だけでなく、様々な人間関係のなかで常に存在している、つまり偏在的な現象である、ということを言うことだった。

そして例によって、人間の動きとセリフだけでなく、説明台詞という一番やってはいけない書き方で、その趣旨を強調してしまった。

どうしても私がそうしてしまうのは、自分が社会科学の論文ばかりを書いているため、人間の動きの描写だけでそれを表現する術が未発達だったことに起因している。



ところがそうした当初の目的とは別の思考が話を長々と続けさせることになってしまった。

それは私の食い意地である。

スープはわき役程度のものだったのに、途中からスープのことを書きたいがために物語を書き、あげくに北海道の話まですることになってしまった。

私はそこから一層この物語の質が悪化したことを理解しているし、そもそも読者の皆さんがそんな質などということを問題にしていない親切な方々であることも知っている。



スープはコース料理で言えば2番手になることが多く、ものによってメインにもなる。

しかし、スープはかなり特別なジャンルの料理であると私は思う。

体調が悪い時、食欲がない時こそスープは好まれる。

そして、スープは簡素な割に手間がかなりかかるものが少なくない。

つまり、スープは作り手の思いやりが非常にはっきりと反映される典型的な料理であると私には思われたのである。

また、イギリスでの3年間の生活のなかで、また、それ以前のカナダでの留学、さらには韓国旅行のなかでも、スープはことあるごとに登場し、私の思い出の核となっている。

そういう私の個人的な思いも、この下手くそな作り話を延長させた原因であった。



こんな後書き風の日記を書くのもおこがましいのではあるが、あまりにも私に文才が無いため、付け足すように自分の感情を書かずにはいられなかった。

大変失礼しました。