消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(417) 韓国併合100年(56) 韓国臣下論(7)

2012-05-08 13:44:18 | 野崎日記(新しい世界秩序)

(3) 政友会は、一九〇〇年九月一五日、藩閥政治に反発し、政党政治の必要性を感じた伊藤博文が自らの与党として組織した政党である。伊藤自身が初代総裁となり、星亨(とおる)、松田正久、尾崎行雄(ゆきお)、伊東巳代治(みよじ)、西園寺公望(さいおんじ・きんもち)、金子堅太郎(かねこ・けんたろう)、片岡健吉らが中心となった。帝国ホテルに事務所を設置した。一九〇〇年一〇月一九日、政友会を中心に第四次伊藤内閣が成立。しかし、北清事変対応のための増税案が貴族院で否決され、一九〇一年六月二日、伊藤内閣は総辞職した。その後、陸軍大将の桂太郎が第一一代内閣総理大臣に任命され、一九〇一年六月二日から一九〇六年一月七日までその内閣は続いた(http://www.geocities.jp/since7903/Meizi-naikaku/10-Itou-vol4.htm)。

 当初、井上馨に大命降下されたが、期待していた渋沢栄一(しぶさわ・えいいち)の大蔵大臣就任が実現せず、同じく立憲政友会も混乱状態にあったため、井上は組閣辞退を表明した。元勲世代からの総理大臣擁立は困難と考えた元老によって、新たに推されたのが桂であった。桂内閣は、山縣有朋系官僚を中心とした内閣であり、議会における与党は帝国党のみであった。伊藤博文の立憲政友会と大隈重信の憲政本党は野党に回った(http://www.geocities.jp/since7903/Meizi-naikaku/11-Katsura-vol1.htm)。

(4) 「露西亜全国皇帝陛下、及び清国皇帝陛下は、一九〇〇年、中国に於いて発生したる騒擾の為め、破られたる善隣の関係を回復し、且つ強固にするための目的を以て、満州に関する諸問題に対し、協定を遂ぐる為め、互にポール、レッサル並に慶親王、及び王文韶を全権委員に任命せり。右全権は左の諸条を協議決定せり。

 第一条 全ロシア皇帝陛下は、清国皇帝陛下に対し、其の友情の感念及び平和を愛することを、新に表彰せんと欲し、前に満州境界の各地に於て、清国が露西亜臣民に向かいて、先づ攻撃を加えたる事実は不問に付し、依然満州を清国の一部として、同域内に於ける、清国政府の権威を回復することを承諾し、且つ露西亜軍隊占領以前の如く、統治及び行政の権を、清国政府に還付す。

 第二条 清国政府は、満州の統治、及び行政権を回復するに当り、一八九六年八月二十七日、露清銀行と締結せる契約の条項を、該契約の他条項と同様確守するの責を受け、又該契約第五条に準拠し、極力鉄道及び該職員を保護するの義務に任じ、且つ均しく責任を以て、満州在留の露西亜国民、及びその創設せる事業の安全を擁護することを承諾す。清国政府にて既に上記の義務を負担せる以上、露国政府は事変の生起することなく、又或は他国の行動の為に妨害せられざる限りは、左の順序に従い、満州より其軍隊の全部を逓次撤退することを承諾す。

 一、本条約調印後六箇月以内に、盛京省の西南部遼河に至る地方に駐屯せる露西亜軍隊を撤退して、鉄道を清国に還付す。

 二、次の六箇月以内に盛京省の残兵、及び吉林省に駐屯せる、露西亜軍隊を撤退す。
 三、次の六箇月以内に、黒竜江省に駐屯せる、露西亜軍隊の残部を撤退す。

 第三条 露西亜国政府、及び清国政府は、一九〇〇年に露西亜国境上に於て、清国兵の起したる如き、変乱の再発を将来に排除するの必要を鑑がみ、露西亜国兵撤退以前は、露西亜軍務官、及び各将軍に命じ、満州駐屯の清国の兵数、及び駐屯地を協定せしめ、又清国政府は、露国軍務官と各省将軍との間に協定したる、兵数以外の軍隊を組織せざることを約するも、その兵数は匪徒を鎮圧して地方の平和を維持するに足るを要す。

 全然露西亜国軍隊撤退後は、清国は満州駐屯軍隊を増減するの権を有す。尤も其の増減は、随時露西亜国政府に通知を要す。其は清国にては各地方に多数の兵を備うとせば、露西亜国も亦た其の附近に於ける各地に、相当の軍隊を添加せざるべからず。従って両国は空しく軍費増加の不利益を見る事、自ら瞭然たればなり。

 東清鉄道会社に給付したる合(各?)地域を除き、上記地方の警察、及び秩序維持の為め、地方将軍及び露国軍務官は、清国臣民より成る騎歩の憲兵隊を組織すべし。

 第四条 露西亜国政府は、一九〇〇年九月下旬以来、露西亜国軍隊が占領保護したる山海関、営口、新民庁の各鉄道を清国政府に還付することを承諾するが為め、清国政府は左の条項を約す。

 一、上記鉄道線路の安全を確保するの必要ある時は、清国政府自ら其責に任ずべく、決して他国に該鉄道防守、経営及び敷設を受負わしめ、或は分担せしむることある可からず。且つ他国に露西亜国か還付せし所の各地点を占領することを許す可からず。

 二、上記鉄道の完成及び経営に関する各節は、総て一八九九年四月十六日付け、露西亜大不列顛間協約と、一八九八年九月二十八日、上記鉄道敷設借款に関し、一私立会社と締結したる契約に準拠し、該会社負担の義務を守る可し。即ち殊に山海関、営口、新民庁鉄道の占有、又は何等の方法にても、之を処分せざるの義務を守らしむ可し。

 三、将来、満州南部に該鉄道を延長し、支線を敷設し、或は営口に橋梁を架設し、又は現に山海関に在る楡営鉄道の終点を移すの計画ある時は、露西亜国及び清国、両政府間に協議を経たる後、之を為す可し。

 四、還付に係る山海関、営口、新民庁各鉄道の修繕、及び、及び経営に関する露西亜国の失費は、償金総額以外なるを以て、清国政府は更に之を露西亜国に償還す。右償還の金額は、両国政府にて協定すべし。

 露西亜国及び清国間に於ける、在来の諸契約にして、本条約に依り変更せられざるものは依然有効たる可し(徳富蘇峰編[一九一七]より)。

 この条約は露清間の密約であり、ロシアは二国間の問題だとして、他国に知られることを嫌った。本文は清国民には伝わらず、日本において残存した。

 ロシアは北清事変の後始末のため、満州におけるロシア軍の撤退を約束したものであるが、清国がロシアにたいして交渉力を持ちえたとは考えられない。同時代の日本人は、この条約は「日英同盟」締結がロシアをして譲歩せしめたと考えた。しかし「日英同盟」締結からは日が開きすぎている。ロシア譲歩の理由は、フランスとの露仏同盟のアジアへの延長宣言であろう。フランスは共同宣言への見返りとしてロシアに撤兵宣言を強要したのだろう。ロシアは、清国はどうにでもなる国と思っていたので、あまり重要でない条約、すなわちいつでも破棄できるものとして調印に応じたものと思われる(http://ww1.m78.com/russojapanese%20war/manchuria%20evacuation.html)。

(5) 古代中国で、王朝が交替するときの二つの方法が対比された。「禅譲」と「放伐」である。「禅譲」は、君主が徳の高い人物に帝位を譲ることであり、「放伐」は悪逆で帝位にふさわしくない君主を有徳の人物が討伐することである(三省堂『新明解四字熟語辞典』、出典、『孟子』「梁恵王」(下))。

 中国の漢時代(紀元前二〇六~紀元後二三年)に書かれた本格的歴史書である司馬遷(紀元前一四五~紀元前九〇年?)の『史記』(紀元前九一年?)によれば、伝承ではあるが、古代中国には、三皇五帝の時代があったとされる。三皇とは、伏羲(ふくぎ、狩猟を始めた)・神農(しんのう、農耕を始めた)・燧人(すいじん、火食を始めた)の三神(または、天皇、人皇、地皇)、五帝とは、黄帝(こうてい)、顓頊(せんぎょく)、帝嚳(ていこく)、堯(ぎょう)、舜帝(しゅんてい)である。とくに、尭舜(ぎょうしゅん)時代は、治水事業が進み、天子も平和的に継承され(禅譲という)、孟子など儒家によって理想的な時代とされた。舜から禅譲を受けたのが夏王朝の始祖とされる禹(う、紀元前二〇七〇年頃)である。

 夏王朝は、紀元前一六〇〇年頃まで続いたとされる。そして、殷王朝(紀元前一七世紀頃 ~紀元前一〇四六年頃)、周王朝(紀元前一〇四六年頃~紀元前二五六年)と続く(http://oisoharu.way-nifty.com/blog/2010/11/post-d0bb.htmlなど)。