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消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

本山美彦 福井日記 08 血液としての用水

2006-06-09 00:06:45 | 水(福井日記)
 取水の事情を知らない都市の人間は、洪水を防ぐには、堰を頑丈に作ればいいではないかと、つい簡単に考えてしまう。しかし、事実はそうではない。暴れ川のもっとも基本となる堰は、大堰と呼ばれている。これを頑丈に作って、下流への水の氾濫を防ぐことができれば、洪水を制御できると思い勝ちだが、ことは、そう簡単にはいかない。大堰から引かれる大幹線用水の下流には、分水すべく、もれ水を引く二番手、三番手の堰が控えている。大堰、あるいは、大堰から直接取水する大幹線用水を完璧に作ってしまえば、下流のもれ水をたよりにする地域は干上がってしまう。しかたなく、洪水のために壊れることを覚悟した華奢な堰堤が、意図して設計されなければならなかったのである。

 それでも、このもれ水に頼るという仕組みが、過去の農村の紛争の種であった。6月7日の日記でも説明したが、宝暦元年(寛延4年ともいう、1751年、正確な年次は確定されていない)、御陵用水を使っている五領ヶ島(御陵用水)の農民が、十郷大堰を切り崩すという事件を起こした。毎年8月、大堰の一部を切り落とすという従来の慣例に反し、この年、そのような堰の切り落としがなかったからである。しかし、十郷用水側の118か村はこれに怒り、江戸評定所に提訴、裁判は5年もかかった。

 農民のこうした苦境に拍車をかけたのが、城下町に引き込む上水路であった。十郷大堰の左岸下流に取水口をもつ芝原用水は、「御上水」(ごじょうすい)という別名をもち、福井藩53万石の城下町の命綱であった。

 徳川家康の次男の結城秀康が越前藩の初代藩主になった(1601年)。彼が、城下町の飲料水確保のために、芝原の上水を開削した。これは、江戸の神田上水(1590年)と並ぶ、日本でもっとも古い大水道ということになっている。

 芝原用水は、十郷大堰の左岸(河口に向かって左)4キロメートル下流に取水口があり、用水はすぐ外輪(そとわ)用水と内輪(うちわ)用水に分水される。外輪用水は、城下町北部から九頭竜川左岸(九頭竜川は東西に流れていて、城下町は、九頭竜川の南部に位置している)にかけての農地に引き込まれ内輪用水は城下町の上水道と堀用水になる。

 この芝原用水には、「分水量長御定杭」といわれる目印が立てられている。取水口から分水される地点(志比口の荒橋上流)に立てられたこの目印は、流量を計るもので、水量が下がると農業用水への放流は止められ、飲料水のみに回されたのである。
 芝原用水の管理は、家老直属の上水奉行が担当していた。理由なく水に触れたり、雨水の外部からの流入も禁じられていた。大雨の時には、村の長が流入を防ぐという義務を負っていた。

 用水は飲料水だけに使われるのではない。洗濯、風呂、掃除、防火、融雪、産業用と種々の用途ごとに区分されていた。そのすべてが上水奉行を含む水奉行が管理していた。そうした用水の区分は幕末で95か所あったとされている。

 芝原用水のもれ水を利用する桜用水では、水面幅で7対3の分水をしていた。7が上水、3が農業用水である。流量が低下すれば、農業用水にはまったく吐き出されない構造になっていた。弘化2年(1845年)、渇水に怒った桜用水に頼る4つの村(現在の丸山町)が、岩を投げ込み、上水そのものの取水を妨害した。藩は村に修復を求めたが、直後、洪水が起こり、用水自体が破壊されてしまった。再建にあたって、藩は、農民の労働奉仕に頼らざるをえず、農民の主張を認めてしまった。

 城下町を作るということは、水路を造ることと同義であったのである。それは、洪水との戦いでもあり、分水紛争の調停でもあった。

 九頭竜川の氾濫で大堰を大修復しなければならなかった回数は、享保7年(1722年)から安政2年(1855年)の133年間で14回という記録が残っている。

 寛政2年(1798年)の洪水では、大堰修復後わずか2日後に大雨で再び堰が壊されてしまった。天保13年(1842年)の復旧工事は、延べ18万8000人の農民と2万3000本弱の竹、1万7000本強の杭、1万8000本の雑木、250束の粗朶(そだ)、3千400貫の藤(とう)、100枚の莚(むしろ)を投じた大工事であった。

 当時の十郷大堰は、三角錐に組んだ櫓(やぐら)に粗朶を置くという粗末なものであった。それでも、この十郷大堰は千年の寿命を保ってきたのである。

 農業用水は、人間の血管に似ている。堰は心臓、幹線水路は動脈、分水路は毛細血管、そして、排水路は静脈なのである。用水は血の一滴である。自然の位置エネルギーだけを頼りに引き込み、平野をくまなく潤す壮大な水路網。これこそ、わが先人たちが心血を注いで作り上げてきた手作りの資産である。

 水田は、ダムに劣らない洪水調整機能、地下水の涵養、土壌の殺菌、脱窒効果、空気を冷やす、等々のすばらしい効能をもっている。にもかかわらず、高いコメを食べさせられる日本の消費者は可哀想だ、コメを自由化すればはるかに高い消費者余剰を得られるはずだとする新古典派経済学者は、のっぺりとした顔でとくとくと経済的合理性の必要性を説き回る。

 流血を繰り返して千年、やっと作り上げた精密な社会秩序は、茶碗一杯のご飯の価格100円を30円にするというつまらない消費者余剰のために、一瞬にして崩壊させられるべきものではない。

 降れば洪水、照れば渇水という急峻な国土、暴れ馬のアジア・モンスーンをもつこの国土では、水田、水路作りが、社会秩序の真の基盤であった。この歴史の重みを捨てるべきではない。

 明治初期、日本政府に招かれたオランダ人の技師、ファン・ドールンは、日本の川を見て、これは川でなく滝だとうめいたという。ゆったりと流れる川が当たり前のヨーロッパに対して、日本の川は、とくに日本海側の川は3千メートル級の峻厳な山から一気に海にまで駆け下る。九頭竜川は717メートルから河口まで116キロメートルしかない。ローヌ川は400メートルから降りて、河口まで500キロメートルもゆったりと流れる。メコン川に至っては400メートルを2千キロメートルかけて、ゆうゆうと下る。

 最大流量の最小流量に対する倍率で見ると、九頭竜川は249、ローヌ川は35である。日本では、梅雨の集中豪雨の後、夏の2か月も雨が降らなくなる。

 わが先人たちは、水路を造って分水、貯水してきた。山に植林して保水能力を高めてきた。過酷な風土からここめで豊かな国土に仕立て上げた。そのことに思い馳せよう。

 土壌を殺し回り、農薬で汚染の限りを尽くす米国の農産物の低廉さを手放しで自慢する新古典派経済学の稚拙なモノロークにいつまでもつきあっている必要はない。彼らはかなり近い将来、自滅するのだから。(利用した資料は、前日のものと同じ)

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