2. カントの「創世記」理解
論理を展開するには、もっとも単純で基礎と成りうる抽象物を出発点として、抽象物にそれより少し具体的な次元の物を付け足し、さらに次元を具体化させて、最終的に具体的・複雑物(現実を映し出す真理)を描き切るというのが原則である。しかし、そうした論理展開の前には、出発点となる物を発見するために複雑な現実を区分けしなければならない。この区分け作業が下向(抽象化)過程と言われるものである。そして、出発点から具体的な真理を叙述する過程が上向(具体化)過程と呼ばれるものである( http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/3412480/top.html)。
ここには、論理的な継起(論理を展開する順序)はあっても、物理的な時間的継起はない。抽象化過程にしろ、具体化過程にしろ、思考の回路で物理的な時間は流れない。あるのは、論理展開の順序だけである。
こうした論理的継起を時間的前後関係として語るのが神話である。カントはこの点に注目した。カントは、人間が護るべき道徳律を、旧約聖書の創世記との対比で語ったのである(Kant, Immanuel[1793])。
先述のように、カントの道徳論の基礎には「悪に傾斜する人間の性癖」認識があった。しかし、「悪に傾斜する」と表現するかぎりは、人が悪に染まる前の「無垢の状態」(Stand der Unschuld)(Kant, ebd., S. 41、本論文のカント『宗教論』の引用ページ数は、アカデミー版『カント全集・第六巻』、Werke, Bd. 6のものである)を前提にしなければならない。「無垢の状態」は、物事の論理展開に必要上(=本性上、der Natur der Sache nach)、まず最初に想定される事態である。
旧約聖書の創世記には人間が神によって創造された直後の「無垢の状態」が描かれている。つまり、思考回路における論理的出発点を、創世記は時間上(der Zeit nach)(ebd., S. 41)のはじめに置いているのである。そして、無垢の人間であるアダムとイブに神は、「善悪を知らせる」木の実を食べることを禁じた。それは、善悪の存在を知ってはならないという禁止令である。道徳法則は神の禁止令として与えられている。これは、カントが道徳律を神という人間の心の外の絶対者によって外部的に押し付けられたものであると主張したことを示すものではない。逆である。神を人間が心の高みで等しくもっている崇高な心情であると理解するカントからすれば、禁止令は人間の心の外部に存在する神ではなく、人間が根源的にもっている内なる神の命令である。つまり、道徳律は、人間が人間であろうとするかぎり、逃れることができない崇高な原則なのである。カントの道徳律はこの一点に集約される。
創世記には、人間は誘惑に負けやすい「弱い」存在として描かれている。無垢の人間が蛇にそそのかされて禁断の木の実を食べてしまう。その結果、人間は悪の世界に落ち込んでしまった。カントはこの状態を「堕罪」(Sündenfall)(S. 42)と表現した。
カントは言う。人間が神の戒律(=道徳律)に無批判に服従することに躊躇して、数々の口実を設けて、神の戒律以外に自分の「自由な行動」を正当化できる動機がないかと、戒律から逃れる動機を探すようになると。それは、人間が根源的にもっている自由意志のせいである。ここで、カントは、悪も善と同じく、人間が自由意志で選択したものであることを力説する。神に盲従したくないという人間の自由意志が、神の戒律を守ることに条件を付けるようになった。戒律からの逃避衝動は、感覚的衝動でしかないが、人間の「自由意志」の発露であるには違いない。こうして、神の戒律(=道徳律)は貶められ、人間は罪の世界に転落したのである(S. 42)。カントは、このように解釈して、論理的継起における「悪への傾き」と創世記の「堕罪」とを同一視した。
カントは、人間が生まれながらにして保持している根源的な素質を重視し、それを三段階の心の発展段階に分類している。第一段階が「動物性」(Tierheit)、第二段階が「人間性」(Menschheit)、最後の第三段階が「人格性」(Persönlichkeit)である。
第一段階の「動物性」は「物的でたんに機械的な自己愛」であり、たんに自己保存の素質である。この種の自己愛はエゴイズムそのものであり、悪が接ぎ木されやすい。
第二段階の「人間性」は「物的であるが、他人と比較する自己愛」であり、他人と比較して(vergleichend)平等(Gleichheit)でありたいという素質である(S. 26)。「人間性」には、自己だけでなく他者の存在に対する意識がある分だけ、精神的な要素が強くなっている。それでも、まだ物的な欲望から出た性情から抜け切ってはいない。この段階に人間が留まるかぎり、人間の心の中に悪が忍び寄る可能性は依然としてある。
第三段階の「人格性」の素質が「道徳的感情」である。この感情は、道徳法則を尊敬する感受性をもつ(S. 27)。この段階になると、いかなる悪も接ぎ木されることはない。この素質こそが、「われわれの内なる道徳法則」(das moralische Gesetz in uns)である(S. 27)。
カントは、心の発展過程を、自己に限定する感情から、他人を認知する感覚に進化し、そして、人間社会全体との調和を図る人格性を獲得したい意欲をもつ境地への達成という三段階に区分けしたのである。
ただし、こうした道徳的感情が内から形成されたものではなく、外から押し付けられたものであるかぎり、道徳を遵守する本当の根拠(主観的根拠)にはならない。心の底から思い込まなければ、道徳への感情は悪への傾斜にすり替わりかねない。これが「人間の心の倒逆」(Verkehrtheit)である(S. 30)。
人間の思考方法は、「その根において」(in ihrer Wurzel)堕落している。人間はつねに悪に傾斜する。その意味で「人間は本性上悪である」(Der Mensch ist von Natur böse)(S. 32)。
悪への逆転も三段階ある。第一段階は人間の心(=心情、Herzen)の「脆さ」(Gebrechlichkeit)である。これは、善を遂行したいという意志をもってはいるが、ついつい悪に手を染めてしまう段階である。この第一段階ではまだ善への負い目が残っている。道徳律を遵守したいという気持ちはあるが、それを果たすだけの気力が自分にはない。自分は善(道徳)の規律を自分の格率(自分ながらの公理)として採用したいが、守ることができないという嘆きをもつ段階である。
第二段階は心の「不純さ」(Unlauterkeit)である。これは、第一段階をさらに悪に傾斜させた段階である。自分は道徳律を守るよりもそれを守りたくないという別のもっと強い動機をもっているが、それでもまだ善への郷愁が残っている。「義務に適った」(pflichtmäß)行為を遂行したいし、対外的な配慮から義務を遂行することもある。しかし、他の道徳的ではない動機に第一段階よりも強く傾斜するのがこの第二段階である。これは「自由意志」の過失(=罪責、Schuld)である。
そして、第三段階が「悪性」(Bösartigkeit)である。これは上述の「人間の心の倒逆」状態である(S. 45)。第三段階の「悪性」は、悪を悪として意識的に選択されたものである。この第三段階こそ、すべての格率を腐敗させ、人間を悪に突き落とす根本原因である。人間は、道徳法則を自己の律法としてもつ性癖もあるが、他方で、幸福になりたい、自分を他人より大事にしたいという性癖ももつ。それは自然なことである。そして、それは経験的によく見られることである。しかし、道徳律よりも自己愛の方をより徹底して優先してしまうと、もはや道徳律に背いたという自責の念すら失いかねない。それは意識して(故意に)選択した悪の心情である。
悪の性癖は、行為からすれば道徳に適っていることが往々ある。「他人を助けたい」という行為がそれである。しかし、自己愛が次第に道徳の規律を冒すようになる。自己の見栄、自己の満足感、周囲から賞賛されたいという俗物性、そうした自己欺瞞に悪性は人を誘導する(1)。
創世記は、人間のはじめを悪に置いた。しかし、その悪は人間の心の外(=蛇)によってもたらされたものであるとして、創世記はまだ人間に悪からの脱却の希望を残している。つまり、悪は人間の心の中に巣食っているもので、悪からの脱却など思いもよらないという構図を創世記は示しているわけではない。悪は、根絶できないかも知れないが、人間の力によって一定程度は克服できる。カントは、蛇の存在をそのように読み解いた。
カントは、人間にはよりよき人格をもつべきだとの希望が「われわれの魂の内に鳴り響く」(S. 35)と情緒的に語っている。人間は「根源的な道徳に傾く性向」(urspurünglich moralische Anlage)をもつ。人間は「善の胚種」(Keim des Guten)を心の底に残しているものである。人間は自由意志から悪に傾斜したが、それでも、善に復帰したいという「心的素性」(göttlich Abkunft)を手放さず、道徳法則の「神聖さ」(Heiligkeit)を保持しているのである(SS. 49~50)。
善なるものへの復帰力、心の中の革命、思考方法の変革、等々、カントは道徳に復帰する人間の回復力を信じた。演繹的証明はなく、数々の情緒的な造語を多用するという詰めの甘さがカントにはあることは否めない。しかし、人間が意識変革を行い、道徳律という「新たな根拠」(der neue grund)(S. 51)を獲得して「新しい人間」(ein neuer Mensch)(S.47)となるべきであるという、人間らしくあろうとするカントの姿勢に、私などは素直に感動してしまう。哲学をやたら晦渋なものにしてしまう演繹的なそれまでの哲学者とは異なり、人間の生き方を提示して見ようとするカントに私は気高さを感じる。
カントは、道徳を実行した結果、自分が期待していたこととはまったく異なるものに行き着いてしまったとしても、つまり、正しいと信じて行ったことが自分を傷付ける結果になったとしても、道徳を遵守するという義務だけは果たされるべきであると主張した(S. 3)。
人間は、神からの「恩寵獲得」(Gunstbewerbung)(S. 51)を願いながらも、それを当てにせず、よき善なるものに近づくべく、自己の根源的素質を駆使すべきである。人間は、神からの助力を受けるのに相応しい者になるために、自らできることをなさねばならない。このように、人間の心を革新させることを目的とする宗教が、カントの言う「道徳宗教」(moralische Religion)である。
晦渋なものとされているカントの哲学は、このように分かりやすい道徳論の確立を目的としたものである。その根底には、人間の自由の尊厳を重視するカントの確固たる信念がある。
経験的なものに依存せず、自然の必然性に盲従せず、道徳法則以外の何物にも「依存しない」(Unabhängigkeit)意志が、カントの言う「自由意志」なのである(2)。
注
(1) この第三段階については、倉本香の説明が分かりやすいので以下に転載しておく。「自分が行っている人助けの行為にたいして、その行為は確かに表面的には善き行為であるから、秩序の転倒を忘れて、まるで自分に悪性がないかのように思い込む『自己欺瞞』の状態に陥るのである。そうなると悪は最大になる。また、このような動機の問題に特に煩わされることなく、ただ道徳的な振る舞いが自然に上手にできる人間も悪である。なぜなら、そのような人は道徳的な振る舞いをただその通りにしているだけで、道徳法則による意志規定の意識にしたがって選択意志の自由を充分に行使して行為していないからである。つまり、結局は道徳法則を転倒させているのである」(倉本香[2012]、二一ページ)。
(2) 本稿は、倉本香[2012]とともに、T. Yoshio「カントの宗教論」、http://homepage2.nifty.com/ytyt/Kant1.htmlにも依拠した。
引用文献
Kant, Immanuel[1793], Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft. Kant's
gesammelte Werke, Bd. 6, Academie der Wissenschafte, G. Reimer, 1914. 邦訳、
北岡武司訳『たんなる理性の限界内における宗教、カント全集・第十巻』岩波
書店、二〇〇〇年。
倉本香[2012]、「カント宗教論における根本悪と自由について」『大阪教育大学紀要』第一
部門、第六一巻、第一号、九月。