うちなー→えぞ日記 (もとすけのつぶやき)

奈良県出身、沖縄での学生生活を経て、北海道ライフを堪能する、
とある研究者の日常のよしなしごとの紹介。

太陽柱!

2011年05月27日 19時20分12秒 | えぞ日記(北海道編)・・日常

20分ほど前、ふと窓から夕日を眺めていたら、夕日から光の筋が上に伸びていました。
私は初めて見たのですが、いわゆるサンピラー(太陽柱)です。
上空の氷の粒に太陽光が反射して起こる現象ですね。ちょっと得した気分。

大阪再開発!今の再開発現場

2011年05月21日 10時08分09秒 | えぞ日記(北海道編)・・日常
前回の記事で大阪の再開発計画のBefore & Afterを紹介しましたが、今回は現在進行形の工事を中心に紹介していきます。


前回の最後に紹介した、大阪駅「サウスゲートビルディング」の増築部分の屋上は、「太陽の広場」という広場になっています。
以前は高層部27階に展望スペースがあったのですが、増築完了を機に閉鎖(跡地はホテルの高級客室フロアに改装されます)され、この広場にその役割が移されました。ここは15~17階に位置するため、以前より展望の視線は低くなりました。しかし、屋外になったので、南向きの日の光溢れる空間で、ビル風を感じながら心地よく寛ぐことが出来るようになりました。
広場のカフェテラスでコーヒーを飲んでいると、落ち着き過ぎて自分が駅ビルに居ることを忘れてしまいます。


阪急百貨店建て替え工事中。
「太陽の広場」東端からは、隣接する阪急百貨店の工事の様子がよく見えます。
右半分(南側)が、既に完成した超高層ビル併設エリアで、現在は左(北)側の低層部の工事が進められています。以前建っていた建物は、昭和の初めから増築に増築を重ねたために、構造や動線が複雑になっていました。再開発工事でも、地下構造物の解体に手間取り、何度も工期が延びてしまっています。先日も、低層部の全面開業時期が来年春から秋に延期になってしまいました。
阪急百貨店ニュースリリースでは、うめだ阪急の全面開業後のイメージが描かれていますが、南側と比べてガラスを多用した斬新な造りになりそうです。個人的に、物凄く好みの外観です。


大阪駅再開発(大阪ステーションシティ)全景
新北ビル建設、南ビル増築、そして両ビル間に巨大なドーム屋根を架設するという大規模な再開発工事が行われました。総面積は53万平米で、現在日本最大の駅施設となっています。
今月初めに新北ビルの商業施設がオープンし、全面開業を迎えましたが、実はまだ工事は続いています。ドーム屋根の下で、橋上駅舎下の天井美装化とホーム屋根の撤去作業が進められつつあります。今年度中に全ての工事を終わらせる予定とのことです。


大阪駅新北ビル「ノースゲートビルディング」(2010年冬)
中央部に巨大な吹き抜けがあり、まさに門型の構造をしています。今後「うめきた」の再開発が進むと、このエリアの正面玄関になります。


大阪駅のホームに立つと、巨大な屋根が上空を覆い、その下を電車が発着するヨーロッパの駅のような雰囲気になっていて驚かされます。今のところ、古いホーム屋根が残っているため、この様な景色は一部のホームからしか楽しめませんが、今後撤去が進めば、これまで誰も見たことのない巨大なホーム空間が実現します。


梅田北ヤード地区再開発現場「うめきた」全景
梅田貨物駅の跡地の再開発計画です。広さが24haあり、都心最後の一等地と言われています。この内7haを先行開発区域とし、現在建設工事が進められています。この写真だと、右端のエリアです。先行区画だけとはいえ、超高層ビルを一気に4棟建設する大規模な工事となっています。
2年後に先行区域が完成した後は、いよいよ残りの17haの再開発計画が具体化するはずですが、今のところは高層モニュメントを備えた都市公園になる可能性が囁かれています。ただ、このエリアは後述の伊丹空港の高さ制限(制限表面)が掛かっているため、伊丹縮小・廃港を機に大幅に計画が変更される可能性もあります。(より大規模な開発計画の方に・・)


貨物列車とビル群。
梅田貨物駅の機能は、近い将来に吹田と百済の貨物ターミナルに完全移転する予定です。この様な都市と貨物列車の織りなす風景は見られなくなるでしょう。また、貨物列車用の支線は現在関空や南紀方面行き特急がバイパスとして使用していますが、10年以内を目処に地下化され、大阪駅に隣接する場所に「北梅田駅」が設置される見込みです。さらに、「北梅田駅」は関空特急短絡線の「なにわ筋線」建設計画でも、梅田地区の停車駅になる予定なので、この貨物支線は再開発後の「うめきた」エリアでも非常に重要な役割を担うことになります。


梅田から遠望した伊丹空港。

伊丹空港管制塔から梅田方面に着陸機を見る。(2003年秋)
伊丹空港の着陸ルートが大阪市上空を通過しているため、大阪市街地でのビル建設には高さ制限が存在します。正確には、伊丹空港の滑走路を中心としたすり鉢状の制限表面が設定されていて、その表面から上にはみ出す建築物を造れないのです。以前のような100m前後までのビル建設ならさほど支障は無かったのですが、最近はより土地を有効利用するため、200m以上の超高層ビルが多く計画されるようになっています。しかし、梅田地区では170~210m程度に制限表面が設定されているため、土地の高度利用の支障となっているわけです。都市のスカイラインを考えたときに、梅田に250~300mくらいのビルが数棟あればかなり引き締まった景観になるのですが、現状では不可能です。
私は飛行機マニアですが、好き嫌いといった感情を排しても、今後間違いなく伊丹は機能縮小へと向かっていくはずです。2020年代にはリニア中央新幹線が名古屋~東京間で開通し、航空機と新幹線の総所要時間(都市中心部~都市中心部)の拮抗が崩れます。既に九州方面は新幹線延伸と高速化によって航空機のシェアが減少しており、リニア開業の暁には伊丹空港の主要路線である羽田線の需要が激減することが予想されます。伊丹空港の存在価値は「都市からのアクセス時間が短い」ことであり、そのメリットを発揮できるのは航空路線では短・中距離路線です。その短・中距離路線が伊丹から撤退するのであれば、伊丹空港の存在意義は必然的に低下するというわけです。
第一、関空は人々が言うほど大阪市街から離れてはおらず、札幌市~新千歳空港間と同程度の距離です。行政と鉄道事業者がきちんとアクセスを整備すれば、国内線旅客でも問題なく使える空港なのです。私はずっと関空短絡線「なにわ筋線」の建設を心待ちにしていましたが、近頃ようやく実現の可能性が高まってきて、嬉しい限りです。
私は、将来的には伊丹空港は廃港・又はプロペラコミュータ空港化(制限表面は大幅緩和)し、空いた土地を副首都機能移転に使うべきだと考えています。廃港に関しては周辺自治体が何故か反対しているようですが、総合的に考えれば、現状以上の伊丹周辺地域の発展は副首都機能の移転でしか叶わないのではないでしょうか。
伊丹廃港・縮小により、関空への航空需要の集約、梅田の土地利用の高度化、副首都機能移転が実現できるのですから、大阪、そして日本の未来のために、出来る限り早期に伊丹空港の処理を進めるべきだと私は思います。


阿倍野再開発現場。
さて、長々と伊丹空港問題について語ってしまいましたが、その伊丹空港の制限表面から最近外れたエリアが大阪市内に存在します。
それが、大阪の南東の玄関口、JR天王寺駅・近鉄阿部野橋駅周辺のエリアです。


このエリアでは、日本最高の超高層ビル建設工事が現在進んでいます。そのビルが、「近鉄阿部野橋ターミナルビル」です。
以前はこのエリアも伊丹空港の制限表面に掛かっており、高さ294mまでのビルしか建設できませんでした。(現在日本一の高さの横浜ランドマークタワーは高さ296mです)
規制緩和によって、この周辺の制限が解除されたことで日本一の300m級のビル建設が可能になり、近鉄グループの再開発計画が表面化しました。(ちなみに、東京スカイツリーも羽田空港の制限表面の見直しによって建設が可能になりました)


通天閣から見た阿倍野・天王寺の風景(2010年夏)
天王寺・阿倍野エリアは比較的庶民的な地域であり、近年になってタワーマンションが少しずつ建ち始めたところです。
写真中央に広がるのは天王寺公園です。関西の小学生の遠足先として有名な天王寺動物園があります。


近鉄阿倍野橋ターミナルビル完成後のシミュレーション画像(Imaged by GoogleEarth)
2014年には、高さ300mの超高層ビルが完成し、街の雰囲気がだいぶ変わります。周辺では、他にも超高層タワーマンションの建設計画が進んでおり、一気に高層化しそうです。


阿倍野のメインストリート、谷町筋。
阿部野橋ターミナルビルのすぐ近くでは、別事業の阿倍野再開発計画が進展し、先日は巨大ショッピングセンターの「あべのキューズタウン」が開業しました。両者が面する谷町筋自体も、拡幅工事が進められています。ここは大阪市と堺市を結ぶ路面電車「阪堺電車」の起点でもありますが、その路線も拡幅後に移設される予定です。

ますます成長を続ける都市、大阪。
どうしても報道というものは悪い方のニュースに偏りがちで、再開発の進展などの胸躍るニュースはなかなか全国に伝えられていません。日本が踏ん張り時の今こそ、マスメディアは未来が輝いていることを人々に知らせるべきなのにと私は思います。
そして、これらの再開発現場を見る度に、私も希望の未来のために何かを為せるように、研究修行に励もうと誓うのでありました。

大阪再開発!再開発Before & After

2011年05月21日 01時45分26秒 | えぞ日記(北海道編)・・日常
今、実は大阪が凄いことになっています。


全国放送の番組で扱われる大阪のイメージ。
「新世界」に代表される、ゴテゴテでカオスな町・・と言ったところでしょう。


しかし、実際に通天閣に登ってみると、こんな街並みが広がります。
いつの間にか地平線を超高層ビルが埋め尽くすようになっていました。
私の趣味の一つとして、2004年からデジカメで大阪の街の変化の様子を撮り続けてきました。
今回は、大阪の再開発の様子を、私の秘蔵写真を通してご紹介しましょう。


Before:2004年の西梅田ビル群
大阪駅周辺ではいち早く超高層化が進んだエリアです。
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After:2011年の西梅田ビル群
「大阪サンケイビル」の建て替えにより、中心部に「ブリーゼタワー」が完成。後背地のビル街も超高層化が続いており、かなり迫力を増しました。
現在、写真の中央奥側で「新朝日ビル」の建て替え計画、「中之島フェスティバルタワー」(高さ200m)の建設が行われている他、今後は大阪中央郵便局跡の再開発が予定されるなど、まだまだビル群の成長が続くエリアです。


Before:2004年の大阪駅
旧大阪駅北ビルが存在した頃です。北ビルは4階建てのごく一般的なサイズの駅ビルで、食堂街などがありました。
また、JRの線路の向こうには建て替え前の阪急百貨店が見えています。
このエリアでは、大阪駅南ビル「アクティ大阪」と「阪急グランドビル」がいずれも高さ120m強で、最も高い建物でした。
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2008年の大阪駅
大阪駅北ビルと、阪急百貨店の南半分の建て替え工事が佳境を迎えていました。
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After:2011年春の大阪駅
大阪駅新北ビル「ノースゲートビルディング」(高さ150m)が完成、阪急百貨店の南半分も超高層化(高さ187m)が完了し、スカイラインが大きく変わりました。
さらに、駅の北側に広がる「うめきた(梅田北ヤード)」エリアでも、先行区画の再開発工事(グランフロント大阪)が始まり、高さ180mのビル3棟と高さ154mのビル1棟の建設が同時に進められています。目の前に超高層ビルが建ち並びますから、今年中にはこのアングルでの視界は相当狭まるはずです。


Before:2004年の大阪駅北側の景色
まだ大阪駅の北ビルが低層だったので、西梅田のビル群がよく見通せました。
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2008年の大阪駅北側の景色
新北ビルの建設が進み、徐々に背景が見えなくなってきました。
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After:2011年春の大阪駅北側の景色
現在では、大阪駅とうめきたのビルによって完全に背景が隠れてしまいました。


Before:アクティ大阪(2008年)
昭和58年(私が生まれる3年前)に完成しました。当時としては巨大な駅ビル(高さ122.3m)ですが、外装は華美な装飾もなくのっぺりとした印象でした。垂直に切り立って存在していたため、「壁ビル」とも揶揄されていました。
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After:サウスゲートビルディング(2011年春)
大阪駅再開発(大阪ステーションシティ)では、新北ビル建設に加えて、アクティ大阪の南側に高さ70mのビルを増築する工事も行われました。なんということでしょう。増築部は、最近の流行りを反映してガラス張り部分が増えたため、以前よりもビル全体が明るい印象に変わりました。また、増築部の高さが抑えられているので、高層部がセットバックしたような形になり、圧迫感も低減されています。
今年春の大阪ステーションシティ全面開業を機に、「サウスゲートビルディング」へと名称も変更されました。


サウスゲートビルディングの増築部には、その名の通り立派な玄関が出来ました。
この玄関(「ゲート広場」)は、地上、地下街、大阪駅中央口、大阪駅橋上駅舎へのルートの結節点になっています。

さて、ここまで梅田周辺の再開発による街の変貌を紹介しました。21世紀になってからも、なかなか私たちが「未来」に生きていることを実感することはありませんでしたが、こういった再開発によって街並みが高度化していく様子を見ると、やはり少しずつ「未来」に近付いていることが分かります。大阪、そして日本は、まだまだ成長を続けているんですね。

そうだ 函館、行こう

2011年05月15日 13時26分02秒 | えぞ日記(北海道編)・・日常
5月3日から6日まで、家族が北海道に遊びに来ていました。
家族揃って来道するのは今回が初めてで、私も三連休中は一緒に行動しました。
3日夕方に千歳で出迎え、モエレ沼公園などを散策、夜はキリンビール園でジンギスカンを食べました。
4日は日帰り強行軍で函館までドライブ。五稜郭の桜や函館山からの夜景を見物しました。
そして5日は札幌市内を散策し、我がアパートや北大構内などを案内しました。
6日は私は通常通り大学での研究があったのですが、昼休みを使って千歳まで家族を見送りに行きました。

モエレ沼公園や札幌市内についてはこのブログでも以前紹介したので、今回は5月4日の函館日帰りドライブについて書くことにします。


今回のドライブに使った車はコチラ。
4日前にレンタカー屋にフィットクラスで申し込んだところ、フィットを含めた全車種が既にレンタル予約されていたため、業務用車両であるライトバンになってしまいました。車種はトヨタ・サクシード。街中でよく見かける社用車のトヨタ・プロボックスの兄貴分(少し上級)らしいです。まあ、排気量ではフィットよりも高いので、一応アップグレードですかね。
ちなみに、これまで私はレンタカー予約で何度もフィットを指定してきましたが、実際にフィットをあてがわれたことは未だありません。何故か毎回レンタカー屋側の都合で別の車種に変更されてしまっています。(フィットの代わりにあてがわれた車両一覧:デミオ、マーチ、コルト、インサイト、ライトバン・・)
今回のライトバン、禁煙車ではなかったので、結構ヤニ臭かったです。私物のリセッシュで対処しましたが、ハンドルから手に臭いが移ってしまい、しばらく取れませんでした。




5月4日は、朝10時頃に雨の札幌市街を出発、まずは道南への最短ルート上にある中山峠へ向かいました。
途中の定山渓付近から雨が雪に変わり、なんと峠では吹雪いていました。


去年の同じ日(5月4日)の中山峠。
去年も一人で道南方面をドライブしましたが、そのときは中山峠付近の路肩に積雪は残っていたものの、路面は完全に乾燥していました。
今回、5月なのに雪が降り積もっている様子を見て、私も家族も驚いてしまいました。さすが北海道です。
幸い、車はスタッドレスタイヤを履いており、4WDだったので運転に支障はありませんでした。


中山峠のカツカレーそば。2階のそば屋で朝食として頂きました。とても美味でした。


中山峠から喜茂別町に下り、「郷の駅きもべつ」で2回目の休憩にしました。
駐車場で、我が(次期)愛車のスバル・フォレスター(2代目)と並びました。同じようなサイズ・色なのに、この両車の印象の違いは何なのだろう・・。家族曰く、我らがレンタカーは「“わさお”みたい」だそうです。


喜茂別から国道230号線、道道777号線、道道97号線、国道37号線、道央自動車道(豊浦~落部)、国道5号線を走り抜けて函館に至りました。途中の大沼公園付近で渋滞に巻き込まれた以外はスムーズなドライブでした。
午後3時半頃に五稜郭公園付近に到着。花見客で駐車場がいっぱいだったので、家族を先に降ろし、私は空車になるまで待ちました。


意外に早く、その後10分ほどで駐車できました。
私は去年8月の「ねぶた旅行」の帰りに五稜郭を初めて観光しており、今回が2回目。
写真の中央に聳えるのは五稜郭タワーです。以前は高さ60m程度(展望台高さ45m)でしたが、2006年に107m(展望台高さ90m)の新タワーに建て替えられ、かなりイメージが変わりました。噂によると、時折函館に襲来するイカール星人を迎撃するため、巨大ロボへの変形機能を備えているそうです。(ちなみに、五稜郭タワーは量産先行型の弐号機だそうで、初号機は大阪の通天閣だそうです)


まだ五稜郭の桜は3分咲き程度。開花日が今月2日でしたから、まだ2日しか経っていませんでした。例年なら満開の頃なんですけどね・・。


堀に沿って咲く桜。満開なら、さぞかし綺麗なんでしょうねぇ。


昨年復元完成した、箱館奉行所。
1864年(函館山麓から当地に移転)から7年間だけ存在した建物で、戊辰戦争最後の戦いの拠点となったことで有名です。本来五稜郭は内陸にあるので艦砲射撃が届きにくいのですが、この建物の中央に設置された太鼓櫓が目印になり、箱館戦争の際には建物に艦砲が容易に命中してしまったという逸話もあります。


実は、ドライブの途中で森駅に立ち寄って「いかめし」を購入していました。
奉行所の建物の前のベンチに腰かけ、家族で食しました。3箱買ったところ、2箱はイカが2杯入っていたのですが、もう1箱(この写真)はやや小ぶりなイカが3杯入っていました。ちょっと得した気分です。


五稜郭タワーに移動し、上から五稜郭の全貌を眺めてみました。
建て替えで展望台の高さが増したため、綺麗な星型が視認できるようになったそうです。


五稜郭タワーから見た函館山。
元々函館山は本土(渡島半島)側と海で隔てられていたのですが、海流で土砂が徐々に溜まり、約3000年くらい前に陸繋島となったそうです。函館の市街地は、その砂州の上に位置しています。このタワーからの景色を見ると、狭い範囲(幅1km強)に建物が集中していることがよく分かります。


上から見た五稜郭の桜。
ブルーシートが幾何学模様を描いていました。


ナッチャンRera。
タワーから函館港を挟んだ対岸側に、函館どっく(造船所)が見えました。望遠レンズで覗くと、以前東日本フェリーの青函航路で活躍した高速船ナッチャンReraが係留されていました。姉妹船のナッチャンWorldは夏季限定で青函航路に就航していますが、こちらのReraの方の去就は知らなかったので、まだ函館に居たことに少し驚きました。震災の自衛隊派遣ではナッチャンWorldが臨時ピストン輸送で大活躍したので、これらの高速船を自衛隊が用船するのではないかという噂も出ています。(実際、ほぼ同型の船が沖縄の米軍海兵隊で使われています)


五稜郭タワーのエントランスロビーで展示されていたマグロのぼり。
大間や函館など、青函海峡沿岸に住む子供たちが応援メッセージを書き込み、4月末からここで展示されていたようです。函館も先日の震災では津波の冠水被害に遭っており、犠牲者も出ています。幸い函館では家屋の流失などが無かったため早期に復旧を果たしましたが、あの津波は北海道沿岸にも大きな影響を残しました。


車で五稜郭から函館駅前に移動し、駅周辺を散策しました。
駅前のラーメン屋で夕食に函館ラーメンを食べました。塩バターラーメンはなかなか美味かったです。


駅前のWAKOデパートの6階に、去年の4月にオープンした「北海道鉄道博物館」があります。閉館間際に入ったので展示は見ませんでしたが、鉄道グッズコーナーで懐かしの記念切符を入手しました。一つは「愛の国から幸福へ」で有名な愛国駅(廃線)の入場券、もう一つは札幌オリンピック時の記念急行券で、なんと両方とも100円でした。発券額より安いですがな・・。他にも、制帽や制服の販売もあって、ちょっと欲しくなりました。(高倉健ごっこをするのは男の夢)


はるばる函館まで来たのに夜景を見ないで帰るのは勿体ないので、最後に登山バスで函館山に登りました。私以外の家族は函館山に登るのは初めてだそうで、それぞれ夜景を楽しんでいました。
何回見ても函館の夜景は美しいです。ところで函館山の標高は334mですが、先日旅行した長崎市の有名夜景スポット稲佐山の標高も333mで、同じような高さです。これくらいの高さというのが、夜景を見るのに向いているのでしょうか。(何か登山バスの中で角度の話をしていましたし・・)


三脚を持参していなかったので、手持ちで函館の夜景撮っていたのですが、既に冬場の夜景を三脚で固定して撮ったことがあるので、どう足掻いてもそれを超える写真は撮れません。なので、ちょっと趣向を変えてロマンチックな夜景を撮ってみました。撮り方は簡単、レンズに息を吹きかけて適当に曇らせるだけです。

函館山を下山し、駅前の駐車場に戻ったのが夜9時過ぎ。家族は札幌に宿を取っているので、すぐさま札幌への帰途に就きました。
往路は中山峠経由でしたが、夜中にあの雪道を通る勇気は無いので、帰りはひたすら道央道を走りました。
落部ICまでの下道、大沼公園入口付近では覆面パトカーの捕り物を目撃し、驚きました。ちょうど片側二車線から片側一車線に道幅が狭まるところでした。私が左側車線を快調に走っていたところ、残り200mくらいで道が合流するのに、右側から車が強引に割り込んできたのです。すると、私のすぐ後ろを走っていた車も急に右車線に出て、その車を追いかけて行きました。「えらく強引な運転の車が続くなぁ」と思った矢先、その追いかけた方の車がパトランプを点灯し、割り込んだ車を捕まえて路肩に誘導してしまったのです。実は、そのしばらく前から後続車のライトがやたら眩しいなと私は思っており、どうやら見張られていたようです(当時車列の先頭を走っていました)。ところが、別の車がもっと高速で追い越しをかけたので、そちらに標的を変更したのでしょう。危うく私のゴールドカード特権を失うところだったことに背中がゾッとしました。(私は滅茶苦茶飛ばしていたわけでもないですが、結局は相手の気分次第ですからね・・)
そんな体験もしましたが、帰路は目立った渋滞も無く、適宜休憩を挟んで午前2時頃に札幌に帰着しました。往復約700kmのドライブでした。
ライトバンでのドライブだったので、正直乗り心地は期待していませんでしたが、殆ど肩も凝りませんでしたし、安定した走行が出来ました。後部座席の人はたまったものではなかったでしょうが、運転は結構快適でしたね。あとは外観さえもうちょっと格好良ければなあ・・。

【春休みの思い出】九州墓参り旅行「そして長崎へ」4

2011年05月13日 08時31分28秒 | えぞ日記(北海道編)・・日常
久しぶりの更新です。
中間審査会と雑誌会(ゼミ)、そして我が第二号論文の投稿も一段落して、今は割と暇です。来週半ばからは新たな実験が本格的に始まるのですが、それまでの短い間は平和な日々を送れそう・・。
そうそう、我が第二号論文についてですが、実は4月26日(中間審査会の日)の夜に、ジャーナル側から受理したとの連絡が来ました。その後、先週末に掲載前の最終校正を終え、昨日(5月12日)からweb上での公開が始まりました。今月中か来月には実際の誌面に掲載される見込みです。論文の内容などについては、掲載後にブログ上で詳しく説明しようと思います。

さて、飛び飛びで春休みの九州墓参り旅行について書いてきましたが、いよいよ最終盤の長崎市街散策編を紹介することにします。

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4月1日、エイプリルフールであり新年度初日の朝を、私は長崎で迎えました。
ホテルの大浴場で朝風呂を堪能し(お客さんが少なかったので独占でした)た後、朝食バイキングで朝からお腹いっぱいになりました。このホテルはバイキング料理に定評があり、予約に使ったwebサイトでも料理の項目での満足度がとても高かったのです。実際、部屋の設備に色々不満を呟いていた我が家族も、朝食を食べた途端にご機嫌になっていました。
10時前にホテルをチェックアウトして、長崎市街へと向かいました。


最近テレビ番組で見て、行ってみたいと思っていた出島のオランダ商館跡にやって来ました。
この門(平成18年復元)は出島の北側にあり、現在は国道に面しています。しかし、江戸時代には門の前は桟橋になっていて、オランダ商船から降ろされた品々がこの門を通って出島内に運ばれていたそうです。つまり、文字通りここが江戸時代の日本の玄関口だったわけです。


出島案内図。
目下長崎市が復元計画を進めており、徐々に往時の姿が甦りつつあります。
地図上の緑色の区画が復元された部分です。現在までに出島西側の10棟が完成していて、今は中央付近の復元に取り掛かっています。


こちらは復元区画のメインの建物、カピタン部屋です。
当時のオランダ商館長の住まいであり、応接室も設けられています。


カピタン部屋の見取り図。
主要な部屋は2階に集まっています。2階だけでも約250畳と、かなりの広さがあります。


内部はこんな感じ。
和様折衷というか、畳敷きの部屋なのに洋室仕様の不思議な空間です。
現在は見学の際に靴を脱いで上がりますが、当時はどうだったのでしょうね。


食堂ではクリスマスの晩餐を再現して展示していました。
出島に滞在する商館員は、毎晩ここに集って夕食を共にしていたそうです。


カピタン部屋の涼所。
長崎は温暖な気候ですから、オランダ人にとって夏場はさぞかし暑かったことと思います。カピタン部屋の南西側は大きなピロティになっていて、ここで暑さを凌いだそうです。


江戸時代の長崎。
当時、カピタン部屋の涼所は海に面していました。南向きの窓からは、湾内に浮かぶ船たちが一望できたことでしょう。


現在の出島周辺。
明治時代の河川改修と港湾整備の結果、出島は完全に陸に取り込まれてしまいました。
長崎市の中長期計画では、出島北側を流れる中島川の流れを北側にずらし、国道を海側に付け替えることで出島跡を完全に復元する予定です。周辺は市街地ですから、完成までは相当な年月がかかりそうです。


出島を見終わった私たちは、次にグラバー園近くにやってきました。
こちらはグラバー通りの突き当たりに位置する、大浦天主堂です。
正式には日本二十六聖殉教者堂といい、江戸時代末期に造られた現存最古のキリスト教建築として、国宝に指定されています。
ちなみに、原爆被害で有名な浦上天主堂とは異なる建物です。(名前が似ているので、私の頭の中ではごっちゃになっていました)


小倉を夕方に出る新幹線に乗る予定だったので、長崎滞在可能時間もあと僅かになっていました。
そのため、グラバー園は私だけで見て周ることに・・。
園内は、2つのオートスロープで頂上に登った後、下りながら保存建物を見学する順路になっていました。
オートスロープのデザインもなかなか洒落ています。


グラバー園の最高所には旧三菱第2ドックハウス(移築)が建っています。その2階ベランダから、長崎港の様子が一望できます。
鯉の泳ぐ池の先に、三菱重工長崎造船所が見え、実に良い眺めです。


同じ場所から昨晩の宿周辺の様子を見てみました。
斜面にへばり付くように建物が並んでいて、少し沖縄の首里の辺りの街並みと似ています。


グラバー園の対岸の三菱重工長崎造船所を高倍率で見てみると、整備・艤装中の護衛艦が見えました。
右側の船が整備中のイージス艦「こんごう」、左側が建造中の次世代汎用護衛艦「あきづき」です。どちらも半径数百キロ圏内の数百個の目標に同時に対応できる能力を備えた超高性能艦(「こんごう」はアメリカ製のイージスシステム、「あきづき」は国産のFCS-3Aシステムを搭載)で、護衛艦好きには堪らない並びです。「こんごう」型護衛艦はミサイル防衛(MD)の要としての役割を担っており、作戦時には「こんごう」型をMD任務に専念させるため、「あきづき」型護衛艦が「こんごう」型を含めた艦隊の防備を担うことになります。
特に、「あきづき」は昨年秋に進水、来年春に竣工予定の最新型艦なので、その建造中の姿を見られただけでも、はるばる長崎に来た甲斐がありました。


グラバー園では桜が満開でした。
今年は寒い日が続き、地元の奈良ではなかなか桜が咲かなかったので、ここで初めて満開の桜を見ることができました。


グラバー園内の一番下に、メインの建物であるグラバー邸が建っていました。
社会科の教科書にも載っている有名な建物ですが、残念ながら時間が無いのでゆっくり中を見られませんでした。。


グラバー園の出口には、長崎伝統芸能館という建物があり、長崎くんちや龍(じゃ)踊りの資料が展示されていました。
長崎くんちはいずれ実際に見てみたいと思います。


グラバー通りで家族と再び合流。12時半に長崎を離れ、高速で北九州へ向かいました。目立った渋滞も無く、とても順調なドライブでした。


途中のPAでは新旧のプリウスが3台並びました。今回の2日間のドライブ中にも、数えきれないくらいプリウスを見かけました。ハイブリッドカーが大衆車になる時代が来るとは・・。

15時半頃に小倉駅前に到着、レンタカーを返却しました。走行距離は二日で611km、消費燃料は26Lでした。殆ど高速走行ばかりだったので、プリウスの割には燃費は伸びませんでしたが、それでも十分省燃費だったので、ガソリン高騰の折には有難かったです。


さて、小倉駅の新幹線ホームに上がると、出発表示に九州新幹線「さくら」の文字も見えました。


でも、何故か今回は「のぞみ」50号で実家への帰路に就きましたとさ・・。

実は、今回は私にとって約20年ぶりの長崎旅行でした。殆ど前回の記憶が残っていないので、改めてこの目で長崎の町を見てみたいと数年来思っていて、今回やっと実現しました。
どことなく中国っぽい雰囲気の街並み、斜面にへばり付くような家々、上でも書きましたが、沖縄の街並みを彷彿とさせて、私には懐かしくも感じました。また、グラバー園の辺りから見る長崎港内の景色は本当に素晴らしく、そのまま住んでみたいと思ったほどです。
願わくば、今度はゆっくり滞在して、もっと色々な場所を見てみたいものです。

久々の飛行機ウォッチング。

2011年05月03日 23時09分11秒 | えぞ日記(北海道編)・・日常
ゴールデンウィーク、皆さま如何お過ごしでしょうか。
私は、家族が今日から北海道に来ており、この3連休は一緒に過ごす予定です。母はなんと初めての北海道だそうです。
今日は昼にレンタカーを借り、家族を千歳で出迎えました。道央道で事故通行止めに巻き込まれ、1時間ほど待たされるハプニングはあったものの、家族の飛行機到着時間より余裕をもって空港に着いたので、しばらく展望デッキで飛行機の写真を撮って過ごしました。思えば、昔は毎週のように空港に出掛けて撮影に勤しんだものですが、最近はすっかりご無沙汰・・。飛行機たちにレンズを向けていると、「やっぱり飛行機って格好良いなぁ」と熱き飛行機マニアの魂が甦ってきました。

というわけで、今日の収穫の一部を紹介します。


まずは、この写真。
新千歳空港には19L/01Rと19R/01Lの2つの3000m滑走路が平行に設置されています。滑走路と滑走路の間隔が狭い(クローズドパラレルと言います)ため、関空のようなオープンパラレルの平行滑走路とは異なり、同時に離陸したり着陸したりはできません。しかし、今日は同時に運用されている(かのような)写真を撮ることに成功しました。実は、クローズドパラレルの滑走路の場合でも、片側で着陸のみ、もう片方で離陸のみを行うことは可能でして、うまくタイミングが合えばこのような写真を撮影できるのです。
手前は、福岡行きのANA290便(B777-300)の離陸、奥側は関空から飛来したANA1715便(B767-300、我が家族の乗機!)の着陸を捉えています。たまたま同じような角度に機首を持ちあげているため、まるでコピー&ペーストしたかのようにも見えますね。


次はこの飛行機。
見慣れた全日空塗装のB777-300ですが、前部胴体に何か文字が書かれています。


拡大すると、こう書かれています。
「心をひとつに、がんばろうニッポン」
先月から、全日空の一部の機体にこのロゴが描かれ、就航しています。

全日空HPの、この機体の就航に際しての説明には、以下のようなメッセージが記されていました。

「空はひとつ。
 会いたいという気持ち。
 届けたいという想い。
 一緒にビジネスを成功させたいという熱意。
 ANAは、これまでも空を通じて
 人と人の心をひとつにする
 さまざまな取り組みをしてきました。

 誰も経験したことのないような
 たいへんなことがこの国に起こった今。
 驚くような特別なことはできませんが、
 これまで変わらずつづけてきた
 いつもとおなじ私たちの取り組みの中で
 この国に希望や勇気の芽吹きを
 お届けできればいいなと思っています。

 見上げれば、空はひとつ。
 すべての人をひとつにつなぐ空を舞台に、
 今こそ、お客様と私たちの心を、
 日本中の、そして世界中の心を、ひとつにする時。」

 飛行機マニアとして、また一人の日本人として、このメッセージには胸を打たれました。
 「頑張ろう」や「頑張れ」という言葉は、被災された方々にとっては重い言葉かもしれません。もしかしたら空虚に感じる人もいるかもしれない。でも、それでも被災地を含めた日本全体で、「頑張ってほしい」と私も心から願っています。