うちなー→えぞ日記 (もとすけのつぶやき)

奈良県出身、沖縄での学生生活を経て、北海道ライフを堪能する、
とある研究者の日常のよしなしごとの紹介。

Windows Vista まもなく発売

2007年01月29日 22時16分56秒 | うちなー日記(沖縄編)
Windowsの新しいOS、Vistaの一般発売まで約二時間に迫りました。
いよいよですね~。
先日、一足先に電器屋の店頭デモ機を触ってみましたが、なかなか良い出来ですね。これまでのWindowsのOSとはかなりイメージが違います。非常に感覚的ですね。多分にマックを意識しているようで、類似点がいくつも見受けられました。(サイドバーとかニュッとウィンドウが出てくるところとか)
ウィンドウの周辺が半透明になっていますが、複数のウィンドウを重ねると、ちゃんと透明度も変わりますし、一体どうやって処理してるのかと、不思議に思いました。
ただ、一つ気になった点が、文字の変換に若干時間がかかることで、やはりCPUへの負荷は大きいようです。まあ、デモ機はセレロン搭載型でしたから、上位のデュアルコア搭載型なら、もっとサクサク動くのかもしれません。
総合的な印象としては、Windowsの使い易さがマックのビジュアル性を手に入れたという感じです。かなり好印象でした。

私は、今の所は、とりあえず様子見して、初期不良などの情報が出て来るのを待とうと思いますが、次回のパソコン買い替え(来年か再来年)にはフルスペックのVista機を買いたいと思います。今から楽しみです。

美ら島沖縄 風景づくりシンポジウムに参加しました。

2007年01月25日 21時16分39秒 | うちなー日記(沖縄編)
昼間のブログで、那覇に行く用事があると書きましたが、実は内閣府沖縄総合事務局などが主催するシンポジウムに出席する予定だったのです。
バイクが直ったので、無事に参加できました。

今日のシンポジウムは、詳しく書けば、内閣府沖縄総合事務局と内閣府沖縄振興局、そして沖縄県が主催する、「《美ら島沖縄》風景づくりシンポジウム~沖縄らしい風景づくりに向けて~」というもので、共催や後援に県内建設団体や、各マスコミの名が連なる、かなり大きなシンポジウムでした。
参加者も、国や県、市町村の担当者に建設業者、大学の研究者などの方々がほとんどで、定員以上の来場客で、会場は溢れていました。

さて、なんでそのようなたいそうなシンポジウムに私が出席したかというと、実は、今回のシンポジウムで発表された、ガイドラインの骨子を纏めた冊子に私の写真が掲載されたからなのです!
ガイドラインは計三部に分かれていて、その第三部「《現代の沖縄風》実現に向けて」の、夜景の演出の項目内、ゆいレール(沖縄都市モノレール)から見える夜景のイメージ写真に、私が撮影した、那覇市旭橋の夜景が使用されているのです。巻末の、資料提供者の名欄にもサイト名「大和人もとすけ」で載っています。

掲載の経緯を話せば長くなるのですが、去年の六月下旬、ガイドライン冊子の製作を担当している建設コンサルタント会社の方から、私が投稿している夜景壁紙サイト「夜景.com」を経由して、当該写真の使用を認めてほしいとの依頼が来たのです。
ところが、当時私は体調を崩しており、依頼のメールを確認したのは静養のため実家に帰った七月中旬でした。国が関係するガイドライン冊子に自分の写真が使われるなど、思いもよらなかったので、非常に驚き、急いで了承する旨のメールを返信したのですが、その後音沙汰はありませんでした。私の返信があまりにも遅く、今回は縁が無かったのだと諦めていました。
ところが五ヶ月が経った十二月下旬、突然私のサイトの掲示板に、彼の会社の方から書き込みが入ったのです。まだ機会を逃していなかったことに私は驚き、今度はすぐに会社宛に返信を送りました。
そして今月の上旬、直接会社に電話をかけて確認したところ、私の写真が正式採用されたとの回答を得たのです。
で、せっかくなので、自分でネット上で調べたところ、今月25日にガイドラインに関するシンポジウムがあり、その中で冊子の説明があることを知りました。参加者をまだ募集していたので、メールで申し込みました。所属の欄は、それらしく「琉球大学写真部」にしました。(受付で確認したら、ちゃんとその通りに登録されてました)

話を今日に戻してシンポジウムの内容を申しますと、とても意義のあるものでした。「風景づくりガイドライン」の策定プロジェクトには、私の予想以上に国が力を入れているそうで、どうやら安倍内閣の「美しい国」づくりの方針が関係しているようです(内閣府の担当者が話していました)。昨年六月に私に届いたメールでは、冊子の発行部数は約500部で、関係者にしか配布しないようでした。ところが、今日の説明によれば、大幅に増やして、一万部を発行し、関係各機関、学校、図書館、公民館などに配布して市民が見られるようになったそうなのです。
また、シンポジウム自体、主催者の予想を上回る参加者が詰めかけ民間からの参加者を受け入れるために、市町村役場からの参加人数を減らしたほどの人手でしたから、官民どちらもこのガイドラインには力が入っているみたいです。
ガイドライン編纂には、作家の荒俣宏をはじめ、東京大学、琉球大学の教授、民間のシンクタンクなどが携わり、気候風土、歴史、民俗なども風景(景観)の要素であり、それらをいかに織り交ぜながら今後の風景づくりを行うかを考えるという内容となっています。
ところで、何故ガイドラインのテーマが「景観づくり」ではなく、「風景づくり」となっているかについても、シンポジウムで触れていました。それは、景観というと、目で見えるものを想像するが、風景というものは、五感で感じるものであり、より感覚的なものを大切にしたいとの考えからだそうです。納得ですね。

たまたま私の写真が使われたから参加したシンポジウムですが、生物学にも関わる内容(風土)があり、とても参考になりました。
機会があれば、みなさんにもこのガイドラインの冊子を読んでみてもらいたいです。沖縄県内の図書館に行けば見られますし、個人でも県のホームページから送付を申し込めます。
ちなみに私の写真は、131ページの下側にあります。(^^)


-追記(110205)-
内閣府沖縄総合事務局のサイトからガイドライン冊子のPDFデータがダウンロードできるようになっています。
「美らしま沖縄風景づくりのためのガイドライン」。約50MBあります。

続報

2007年01月25日 11時59分07秒 | うちなー日記(沖縄編)
今バイク屋さんで診てもらったところ、プラグの寿命でした。
買って一年半弱ですから、まあそんなもんでしょう。
一年ごとに取り替えてくださいと言われました。
ということで、修理代は新しいプラグの1000円で済みました。
これで予定通り那覇に向かえます。良かった、良かった・・。(-.-;)

写真展開催中です。

2007年01月25日 11時15分57秒 | うちなー日記(沖縄編)
今週月曜日より、琉球大学内の大学会館一階展示室にて、写真部Winter写真展を開催しています。
場所が悪いのか、周知が至らなかったのか、お客さんが少ない状況が続いていますが、せっかく作った作品ですから、もっとたくさんの人に見てもらいたいものです。
昨日からは、対策として、ビラ配りやポスター貼りを強化しています。
ちなみに、今回の私の作品は、「市場の四十三人」と「機窓から」、「夜景」の三点です。

今日は快晴です。

2007年01月25日 10時15分11秒 | うちなー日記(沖縄編)
今日は久しぶりの快晴です。ここのところぐずついた天気が続いていたので、気持ちが良いですね。
ただ、ここまで晴れると、放射冷却のために朝はかなり冷え込みました。感覚的には6度くらいに思えたほどです。(実際は最低15.8度)
今日は昼から那覇へ行く用事がありますが、気持ちの良いドライブができそうです。(^^)

ググる

2007年01月24日 01時32分36秒 | うちなー日記(沖縄編)
ちょうど今、NHKでGoogleの特集を再放送しています。
Googleといえば、我が「大和人もとすけ」のサイトは、「もとすけ」で検索した際にトップで表示されます。
NHKの特集によれば、企業などはGoogleで上位に表示されるために、かなりの努力をしているそうですが、私の場合は特に何もしていません。いつのまにかトップで表示されるようになったのです。
まあ、元より「もとすけ」などと検索する人間は限られていますが、それでもたいしたものだと思います。清原元輔(清少納言の父、三十六歌仙)や、熊本の参議院議員より先に表示されるのですから・・。
特集の中で、ちらっとGoogleの表示法則に触れていましたが、基本的には、どれだけリンクを張られているかが関わっているそうです。(実際には、さらに計三十もの法則でふるいをかけているそうですが)
ということは、我がサイトも、結構リンクを張られているということです。
訪問者数は、明らかにこの「うちなー日記」ブログの方が多いのですが、Google検索結果でなかなか上位に表示されない(訪問者数が激増したときには親サイトの「大和人もとすけ」より表示されたこともありました)のは、そのことが関わっているようです。ブログの方は、トラックバックを受け付けていませんからねぇ。(アダルトサイトの表示を防ぐためです)

以前、高校の昔の同級生がたまたま私のことを思い出し、「もとすけ」で検索して我がサイトにたどり着いたこともありますし、私自身ケータイのフルブラウザでこのブログに来るときは、一度我がサイトを検索してから来ています。(履歴がすぐに流れてしまうため、意外にこの方法が便利なのです)

ま、長々とかきましたが、ようは、Googleでトップに表示されるって、便利だし、なんだか嬉しいなあと思った次第です、はい。

初めての街角ポートレート撮影

2007年01月17日 21時17分57秒 | うちなー日記(沖縄編)
今日は、夕方から工学部の学生の依頼で、新生児、那覇市の街角の人々の笑顔、赤ちゃん(三ヶ月)を撮影してきました。
依頼が来たのは先週の金曜日の写真部部会中で、なにやら広告の写真を撮るために1000万画素以上のカメラで写真を撮ってほしいそうで、私が依頼を引き受けることになったのです。

今日、昼間にカメラ屋に行く予定があり、それから帰った午後3時に工学部に伺いました。
依頼者は二人で、それぞれから今回の依頼の詳細を説明してもらいました。
それによると、現在二人はコンペに提出する、広告の製作課題に取り組んでいて、キリンビールの無濾過ビールを宣伝する内容なのですが、一人はビールを飲んだときの笑顔をイメージして、数十人の笑顔をランダムに並べたデザインに、もう一人の方は無濾過の純粋さを強調するために、新生児や赤ちゃんの写真を使ったデザインにしたいと考えているそうで、その素材の写真を撮ってほしいとのことでした。
報酬はとりあえずありませんが、コンペに提出する際に、フォトグラファーとして私の名前を併記してくれるそうです。
そんなわけで、早速依頼者と三人で撮影に出かけることになりました。
まずは、病院の新生児室の写真を撮るために、琉球大学附属病院に向かいました。
聞けば、アポは取っていないそうで、最近のプライバシー保護の傾向では、撮影はできないかなと思ったのですが、産婦人科の受付で頼んでみたらところ、予想外に撮影許可が下りました。(゜o゜;
産婦人科の奥にNICUがあり、白衣を着てから、そこの新生児を撮りました。
本当に生まれたてという感じで、小さな小さな身体がベッドで眠っている姿は実に可愛いかったです。写真を撮っていると、まるで自分がバパになったような気になり、なんだか嬉しくなってしまいました。
あと十年くらいしたら、またこういうところに来れるかななどと思いつつ、病院を後にして、次の撮影地の那覇に向かいました。

続いては、牧志公設市場周辺で街角の人々の笑顔を撮影します。目標は五十人!ポートレートに強いといわれる琉球大学写真クラブの面目躍如です。
桜坂劇場前から歩き、市場通り、公設市場、平和通り、むつみ橋通りなどを回って、写真を撮りました。ポートレートで一番大変なのが、モデルになってくれる人を探すことなのですが、今回は依頼者の二人が片っ端から声をかけて、半ば無理矢理、笑顔の写真を撮らせてほしいと頼んでくれるので、私はほとんど撮ることだけに集中できました。交渉で役に立ったのが、琉球大学写真部の肩書で、そう告げれば大体の人が納得してくれました。(沖縄県内での琉球大ブランドの力は強力です)
最初は恥ずかしがって断っていた人も、いざカメラを向けると笑ってくれて、ここでも予想外に順調に撮影できました。特に市場のおばちゃんたちは、いろんな苦労を乗り越えてきたからこそ出るような、いい笑顔をしてくれました。
それにしても、人の笑顔を集めるのってすごく楽しいですね。確認のために写真を見ていたら、ずらりと並んだ笑顔で、これまでの悩みとか悲しみとかが吹き飛んでしまいそうでした。
結局、一時間半ほどの撮影で、目標の五十人の老若男女の笑顔を撮れました。市場周辺の皆様に感謝です。

最後に、もう一つ赤ちゃんの写真を撮るために、事前にアポをとっていた、依頼者の先輩(赤ちゃんのお母さん)の家に行きました。
家に着くと、既に赤ちゃんをスタンバイしてくれていたので、早速撮影を始めました。
途中、赤ちゃんがおしっこをもらしたりもしましたが、ピュアな感じを収めることができました。

かくして、撮影の行程を全て無事に終え、大学に戻って写真のデータを渡して、今回の依頼が完了しました。
内容を依頼者と確認しましたが、満足だと言ってくれました。
今回は、私にとっても貴重な経験になり、撮影を楽しむことができました。特に笑顔のポートレートは、今後も挑戦してみたいです。(^^)

言葉が喋れること。

2007年01月17日 02時45分39秒 | うちなー日記(沖縄編)
意外に忘れがちなことなのですが、言葉が普通に喋れることって、素晴らしいことだと思います。
こんなことを書くのは、私自身、ほんの少し前まで言葉を喋るのに苦労していたからです。

私は幼少のころ、難聴だったそうでして、鼻の蓄膿の傾向もあり、よく耳鼻科に通っていました。
難聴のせいか、幼いころから、「さ行」と「た行」の発音に難がありました。正確にいえば、「し、す、ち、つ」の発音がうまくできなかったのです。濁点がついた「じ、ず、ぢ、づ」も、「しゃ、しゅ、しょ、ちゃ、ちゅ、ちょ」も言えませんでした。無理矢理発音すれば、出ることはでるのですが、鼻から出るような、ふがふがした感じになってしまうのでした。
そんな状態が、ほんの四、五年前まで続いたのです。
小学校低学年の頃は、そのことをよくからかわれました。
「さんすうって言ってみろよ」
と言われ、言われるがままに答えると、
「さんふうやってぇー」
と笑われるような始末・・。
まだ当時は自らの発音が誤っていることに気付いておらず、何故からかわれるのか理解できませんでした。
おまけに当時は吃り癖もあり、人に自分の言っていることを理解してもらいたいがために、早口になり、吃りも出て、余計に理解してもらえないという状況でした。
しかし、何故だか音読はうまいと評判で、小学二年生の学芸会の劇ではもっとも重要な役どころである、「天の声」に抜擢されたりしました。
(鼻の通りが良いときは、それなりに発音できていたようです)
その後、小学校の高学年になってくると、委員の仕事を割り当てられるのですが、私はこともあろうに、放送委員をしていました。しかも、六年生のときには、委員長まで務めたのです。
ですが、私の仕事の中心は、ミキサー(機械担当)でした。はじめの頃は、朝の放送や、下校の放送の声を担当していたのですが、早口と、発音の誤りを周囲から指摘されて、次第に自信を無くし、自ら声の担当を避けるようになったです。
中学一年生のとき、私は秋の校内作文発表会のクラス代表に抜擢され、全校生徒の前で作文(題名「中国旅行記」)を読むことになりました。
発表することが決まってから、私は自分の発音が心配になり、しばらく病院の言語外来という所に通い、トレーニングをしました。そこでようやく、私のさ行とた行の発音が誤っていたことを知ったのです。
結局、本番までに予定のカリキュラムはこなせなかったものの、発表は無事に終わり、校内での私の評価は上がりました。
そして、その評価で調子に乗ったのか、私は翌年度前期の生徒会役員選挙に立候補し、立会演説会などを完璧にこなして(このときの演説も話題になり、その年の年度総括誌「わかぎ」の校長先生による巻頭言に内容が引用されたりしました)、一年生で唯一(就任は年度末の二月から)の役員(書記)に当選しました。
ここまでは、なんだかんだありましたが、まあ順調にやってきたのです。
ところがです、その直後、私の鼻をへし折る出来事が起きたのです。
それは、三年生を送別する会でのことでした。私は後半の司会を担当していて、会の終わりに退場する際に、「二年生女子(最初に退場する)起立!」と言ったのです。
しかし、皆怪訝そうな顔をするだけで、一向に立たないのです。何度か繰り返したのですが、結果は同じでした。結局、異変に気付いた先生が代わりに指示して、どうにか場は収まりました。
後から聞いたのですが、そのとき、私の発音がおかしく、「女子」が「よひ」みたいな感じになっていて、理解できなかったらしいのです。
このこと以来、私はすっかり自分の発音に自信を無くし、むしろトラウマになり、その後一切の司会の仕事を断り、代役を頼んで、任期満了まで過ごしました。
この一度の事件が尾を引き、発音を気にする余り、余計に変な発音が身についてしまい、ついには日常生活でも「さ行」と「た行」が付く言葉を極端に避けるようになりました。
例えば、家族でスーパーに行った際、フードコートでかき氷の宇治金時を注文してこいと頼まれたのに、宇治の「じ」が嫌で、金時を注文してしまったりとか、ビデオ店の会員カードの更新で、生年月日を聞かれた際にも、8月14日と答えるところ、「ち」と「じゅ」が言えないがために、答えられず、しかたなく紙に書いて答えたりとかで、今となっては笑い話のように思えますが、当時はどうしようもなく悩んだものでした。
しまいには、自分の名前「つつみもとすけ」に「つ」と「す」が入っていることにさえ恨みを持つようになり、自己紹介で自分の名前が言えなかったときには、情けなくて涙が出ました。
私にとってのどん底は、中学二年から三年生にかけて続きました。
言葉のほんの何文字かがうまく発音できないだけで、それほど困っていたのです。

転機は、高校受験でした。志望校の試験に面接が含まれていて、さすがに逃げ出すことが出来なくなったのです。
対策のため、再び言語外来に通うことを決心したのです。もっと早くに行くべきだったのですが、また一時良くなるだけの結果になるかもしれないという考えが浮かび、躊躇していたのでした。
言語外来に再診すると、前回と同じ先生が優しく出迎えてくれました。
今度は、もう後がないので、真面目にトレーニングをこなしました。一から発音を勉強し直すことから始め、会話が出来る程度になるまで根気よく続けました。
中学三年生の約半年を費やして、ようやくさ行とた行の発音を会得しました。が、まだまだぎこちない感じで、日常の会話で自然に話せるレベルになるのに、さらに一年がかかり、高校一年生の秋頃から、ようやく自信を持って会話が出来るようになったわけです。
それからは、とにかくよく喋るようになり、今では自慢のうんちく話も好きなだけ話せます。時にはうるさがられるほど会話ができます。
やっぱり、言葉が普通に喋れるって素晴らしいことだと、昔を思い出す度にひしひしと感じます。

そんなことをふと書きたくなった冬の夜更けです。

バラを育ててます。

2007年01月15日 21時04分34秒 | うちなー日記(沖縄編)
がらにもなくバラを育てています。
先日、近くのホームセンターに買いに行ったものですが、置いているほとんどの鉢が満開のところ、あえて蕾のものを選んできました。というのは、少々企んでいることがありまして・・・(写真関係のことなのですが・・)
とにかく、それが実現すれば、実に素晴らしいものができる予定なのです。(今言えるのはここまでです)
ちょうど、私の部屋は南向きで、ほぼ一日中太陽が差し込むので、ベランダに置いて、暇があれば眺めています。
今日、朝と晩に写真を撮って、見比べてみたら、がくが少し反り返ってきており、順調に開花が近づいているようです。
恐らく、この2、3日の間に咲くかなと思います。
自分で花を育てるのなんて、久しぶりのことで、子供のころに味わったワクワクした気持ちを、ちょっと思い出した、今日この頃です。
写真は、後ほどアップする予定です。


ゴールフ、ゴルフ。

2007年01月11日 21時10分13秒 | うちなー日記(沖縄編)
毎週木曜日の恒例行事?ゴルフの新年第一回目の授業が今日、ありました。
気温が23度まで上がり、初夏のような暑さの中での授業でしたが、今回もなかなか楽しめました。
しかし、スコアとしては、休みボケのせいか、あまり集中できず(第一打からパターで打つという愚行を繰り返してしまった・・)、計42(+15)打で、また下がってしまいました。
ただ、同じ組で回っていた子(前回とは別の人)が、32(+5)という、初心者としては驚異的なスコアで受講生のトップになり、賞品(飴玉)をもらっていました。(先生は「29」でした)
どうも、私の運気が吸われているような気が・・・。
次回は頑張ります。

ガチンコ・ビリヤード

2007年01月10日 21時37分08秒 | うちなー日記(沖縄編)
今夜、久々に情報工学科の友人と夕食(通堂ラーメン)を食べに行った帰り、ふいにビリヤードに行くことになりました。
友人が、「なんか急にビリヤードがしたくなってきた・・」と言い、私も一度彼とビリヤードで対戦してみたかったので、すぐに行くことに決まったのです。
西原町坂田交差点にある、「Cue」という私の行きつけのお店(といってもまだ三回目)に行きました。
料金は、一時間600円、三時間コース1000円(それぞれ卓ごとの料金)で、友人が後ほど予定が入っていたので、とりあえず一時間だけ遊ぶことにしました。

まずはナインボールから始めたのですが、いつもは大人数でやるところ、今回は二人でガチンコ対決で、まあ馴れ合いながらの勝負です。互いに順調に球を落としていったのですが、とりあえず、私が二勝しました。
続いてエイトボールをしたのですが、ここでミラクルショットが連発したのです。内容を言えば、角の穴に入れようと狙った球が、穴の側壁に当たって90度曲がり、反対側の角の穴に入ったりとか、穴の淵ぎりぎりのところにある球を狙って白球を打ったところ、球一個分あるかないかのところをきれいにすり抜けて、ストレートに白球だけが穴に落ちたりとか、はたまた角の穴の手前に綺麗に四つ球が並んでいる中の一つを狙ったところ、その球と隣の球の隙間をすり抜けて、穴の側壁で跳ね返り、別の球同士の隙間を抜けて戻ってきたりとかで・・・、そのたびに二人でげらげら笑い、最後の方なんか、腕に力が入らなくなってしまうほどでした。勝負は、一回目が友人の勝ちで、二回目は私の勝ち(それもミラクルショットで)でした。
とにかく、こんなことあるの?というくらいミラクルなショットが連発して、とても紳士の球技とは思えないくらい笑い転げてしまった、ある冬の夜でした。
また二人で対戦したいです。

成人式、そして帰沖。2

2007年01月08日 22時55分31秒 | うちなー日記(沖縄編)
一緒にご飯を食べに行った友人の中には、現在北海道大学の法学部に通う子もいて、思いもよらず、南北交流となりました。
中華を食べながら、まあそこはかとなく現況を話したり、高校時代の話をしたりで、楽しく過ごしました。
北海道大学の子は、明日帰るそうで、他の子(岡山と大阪の大学に通っている)からも、「普通は成人式の次の日は休むだろう」と突っ込まれてしまいました。
「良いもん、最終の飛行機で帰るステータスが君たちには分かるまい・・。ふははは」などと(心の中で)のたまってみたり・・。
中華料理を食べ終わったあと、さらに喫茶店に行くことになりました。
最初に向かった店が開いておらず、郡山市のビジネスホテル一階にある、その筋(大食い)では有名なカフェ・レストランに行きました。
ティーやコーヒーを飲みながら、話の続きを楽しみました。
しばらく話していると、父から電話がかかり、「最終の便に間に合う関空行きリムジンバスが16時22分発だ」とのことでした。現在の時刻は15時25分、ここから実家までは約20分、実家からリムジンバスが出る櫟本バス停までは約15分・・。まだ準備が整えきれていなかったので、かなりぎりぎりの時間でした。
ちょうど会話も一段落したころだったので、そこでティータイムはお開きになり、また先生に車で実家に送ってもらいました。
他の子たちを降ろしながら市内を回ったため、実家に着いたのは15時50分。お礼を言って、すぐに部屋に上がりました。
とりあえず、手元にあった物を全部鞄に詰め込み、急いで家を出たのが16時10分。そこから父の運転で櫟本バス停まで急ぎました。
なんとか16時20分にバス停に到着、バスが遅れていたため、ゆっくりと別れの言葉を交わす余裕もありました。
16時25分にバスが来て、乗り込みました。
その後は順調で、関西空港に到着後、最終の19時発ANA1739便の航空券を購入・搭乗手続きを無事に済ませました。
トイレに行ったり、お土産や本(ちょうど関空の特集本が売っていて、即買いました)を買ったりしている間に出発時間が近づき、手荷物検査を経て、ゲートに向かいました。
検査場の脇にあった売店で、母から言われていたリポビタンDを購入、出発予定の18番ゲートには出発15分前には着きました。
沖縄行き最終便に乗るときはいつもそうなのですが、ゲート周辺はアメリカ人でごった返していました。恐らく、ユナイテッド航空便(ANAと提携している)でアメリカから到着し、乗り継いできた米軍関係者でしょう。腕に刺青をしている人もいます。まるで国際線に乗るかのような雰囲気です。ぱっと見た感じ、日本人乗客よりも多いようにさえ見えます。
今日の機材はB767-300(JA8324)、最近重整備をしたのか、座席は新型の足元が広いタイプでした。
予定通り、19時にゲートを離れ、ランウェイに向かいましたが、到着機、先行の出発機があったため、幾分時間がたった19時20分に離陸しました。
離陸すると、しばらくして右に旋回したのですが、大阪湾を取り囲む夜景が綺麗に見渡せて、それはすばらしい眺めでした。関空も、まさに海に浮かぶ不夜城という感じで、是非写真に収めたいと思い、挑戦しましたが、なかなか上手く撮れません。こういうときは、ビデオで撮るべきで、いつもなら動画機能が付いているIXY800ISを持ち歩いているのでそれもできるのですが、今回の帰省では沖縄に置いてきてしまっていたので叶いませんでした。(またの機会に挑戦しようと思います)
それはそうと、機窓からは相変わらず美しい夜景が望め、神戸から明石海峡、姫路、岡山、その対岸の高松、瀬戸大橋へと至る光の繋がりは素晴らしい美しさでした。
四国を縦断し、太平洋に出た後は、周囲は暗くなりましたが、かなり離れたところ(九州の上空あたり)に何機かの飛行機が飛ぶ灯が見え、空の交通路があることを実感できました。
種子島の手前まで来ると、雲が出ているせいもあるのでしょうが、何も見えなくなってしまいました。ここまで一時間、ずっと窓に顔をつけていて、肩も凝ってきたので、しばらく音楽を聴いて休憩することにしました。
30分ほどが経った21時くらいになると、機体は相当高度を下げてきて、ようやく雲の下に出ました。窓には、中城湾と思しき夜景が広がり、街の灯と海に浮かぶ船たちが、人間の営みを感じさせてくれます。
しばらく沖縄島を南に向かった後、喜屋武崎灯台が灯火を回転させる様子を眼下に見ながら、右に旋回し、那覇空港への最終進入コースに入りました。
糸満と豊見城市街地の灯が窓を流れていくと、いつのまにやら那覇空港の敷地に入っていて、間もなく着陸しました。
今日のフライトは、少し気流が乱れていて、ところどころ揺れがあったものの、初めてあれほど綺麗な夜景を見られて、夜間飛行の魅力を体験できました。月が出ていれば、さらに面白い夜景が見られるのかもしれません。また撮影に挑戦してみたいものです。
那覇空港到着後、出迎えのアメリカ人たちの脇を通り抜けて、急いでゆいレールに乗ったのですが、旭橋で大学行きのバスに乗り換えようとしたところ、すでに最終のバスが出てしまって(平日ダイヤならまだ間に合ったのに・・)いました。仕方ないので、そこからタクシーで帰ってきました。
車内で運転手さんと会話(主に運転手さんが大阪で働いていたころの思い出話)していたら、少し運賃を負けてくれました。
かくして、私は今日のハードスケジュールを見事にこなして沖縄に戻ってきたのでした。

明日は早速一時間目から授業です・・・(-.-;)

成人式、そして帰沖。1

2007年01月08日 22時41分14秒 | うちなー日記(沖縄編)
今日は午前中に成人式に参加、昼間は高校の先生・友人と一緒にご飯を食べに行き、夜に沖縄に戻ってくるというハードスケジュールをこなしました。

まずは成人式、
今日は、朝10時より、天理市民会館「やまのべホール」にて、市の成人式が行われました。私も、新成人の一員として参加してきました。
今日の服装は、紋付袴の純和装。いつもは父が仕事先の高校の卒業式・入学式に着ているもので、けっこう値の張るものでした。
昨夜は寒中見舞いを作っていたため、寝たのは午前3時過ぎでしたが、今朝の起床は7時半。朝食を食べ、シャワーを浴び、沖縄に戻る荷物を少々まとめた後、着付けに入りました。(by母)
午前8時半頃から着付けを始めたのですが、やはり1時間ほどかかり、着終わったのは午前9時半過ぎ。
写真を撮ってもらってから、すぐに市民会館に車で送ってもらいました。

会場前に着くと、すでに参加者でごった返していました。女性は大体振袖ですが、男性はほとんどがスーツ姿。羽織袴を着ているのは、ちょっと不良っぽい人くらい・・・。少々浮いてるかも・・・と思いました。
知った顔も何人かいて、軽く会話をしつつ、会場内に入りました(校区ごと)。
久々に再会した旧友と隣の席に座り、開式を待ちました。

そしていよいよ開式。開式の辞の後、国歌独唱(なぜか斉唱でない)、天理市歌斉唱と続きました。
実は、今回の成人式には弟も出演していました。というのは、弟は市の「ピエーナ少年少女合唱団」に入っており、市歌斉唱で歌っていたのです。
さらに、合唱団からのプレゼントとして、「この星に生まれて」を歌ってくれました。
会場内は終始ざわついていました。
テレビに出てくるような不良っぽい方々も結構見受けられました。
そんな状況は市長さんの祝辞になっても続き、周りを見ても、お構いなしに、久々に会った友人と喋る人々が目につきました。後ろの席からは、「誰も聞いてへんなぁ・・・」とささやく声まで聞こえる始末。
私は、以前市長さんの家の向かいのマンションに住んでいたことなどを思い出しつつ、一応はちゃんと話を聞いていました。
市長さんの祝辞も、それほど長いものではなく、要約すれば「日本人として、立派な行いができるような大人になってください」というものでした。
それに続く市議会議長からの祝辞もごくごく短いもので、あとは来賓の県議などの紹介、新成人代表(女性)への記念品贈呈、同じく代表(男性)による答辞(祝辞よりも長かった)という流れで、式は進みました。
答辞が終わると、閉式の辞(よく聞こえなかった)で式は終了。
その後、15分ほどの和太鼓演奏のアトラクションがありました。それを演奏していたのが、父の勤め先の高校の生徒で、なかなかお腹に響く、良い演奏でした。
結局、成人式は、アトラクションを含めても予定より早く終わり、11時過ぎには解散となりました。
式自体は、人生の節目としては少々物足りないかなという印象を受けました。もっとも、最近の若者はあまり長い時間同じ場所にとどまっていられないという傾向に配慮したものなのでしょうけれども・・・。(実際、式の途中で抜け出して酒盛りやタバコを吸う人々もいましたし・・)
けれども、もちろん良いこともありました。昔の同級生たちに久々に会えたことです。互いに写真を撮りあったりとか、最近の様子を話したりとかしました。
また、小学校、中学校の恩師の先生にも会え、特に中学時代のH先生とは実に5年ぶりくらいに会ったのですが、髪は白くなっていたものの、以前と変わらない口調(かなり渋い声:中尾彬風)で、声をかけていただけました。小学校の先生は、弟が今お世話になっている関係で、参観日などに会うこともあるのですが、やはり成人式、並んで写真を撮ってもらいました。
そんなところに、中学時代の女の子軍団が通りかかり、「もとすけだー!?」と何故か取り囲まれているところを写真に撮られたりで、旧友たちとの再会は、なかなか良い気分でした。

その後、15時半の飛行機に乗る予定(スカイメイトなので予約はしていない)だったので、すぐに実家に帰り、着物を脱いでいつもの服に着替え、荷物をまとめていました。
そこへ、成人式で会った昔の同級生から電話がかかり、「高校の先生と一緒にご飯食べに行くんやけど、一緒に行かへんか?」と誘われたのです。
飛行機については、最終便19時発に乗れば今日中に沖縄に戻れますが、明日の一限目から授業が入っていることを考えると、一本早い15時半ので早めに帰っておきたいという思いもあり、少々悩んだのですが、せっかくの機会なので、行くことにしました。(もっとも、その高校の先生自体はいつも帰省した折におごって頂いている方なのですが・・)

合流するときに、少し手間取りましたが、なんとか落ち合うことができ、昔の同級生3人と共に、先生の車で奈良市の中華料理店に向かいました。