うちなー→えぞ日記 (もとすけのつぶやき)

奈良県出身、沖縄での学生生活を経て、北海道ライフを堪能する、
とある研究者の日常のよしなしごとの紹介。

本島で大雨災害相次ぐ・・。

2006年06月15日 12時50分36秒 | うちなー日記(沖縄編)
ひたすら雨が続いている沖縄本島・・。昨年の梅雨は、後半こそ百数十年ぶりという豪雨が降ったものの、前半は晴れる日が多く、短期集中型でした。ところが、今年は5月下旬以降、雨が降り続き、既に平年の2倍以上の降水量を記録しています。本当に全く晴れてくれません。こうも日光を浴びれない状況が続くと、健康にも影響が出てきそうです。
そんな長雨の影響により、中城村や那覇市などで地すべりや地盤の陥没が相次ぎ、全国ニュースでも報道されています。どちらも、琉球大学からほど近い場所(それぞれ直線距離で2km、6km)であり、琉球大学自体も崖に囲まれた高台にあるため(実際過去には理学部側の斜面で土砂崩れが起きている)、非常に身近な恐怖です。
中城村の地すべりは、本島東海岸を走る国道329号線と高台上の県道29号線(琉大東口の面している道路)を結ぶ村道と県道35号線の途中で発生し、現在も被害が拡大しており、土砂は現場下の安里集落、国道329号線にも及ぼうとしています。そのため、国道329号線の現場に近接する区間は今夜(14日)から夜間通行止めとなっています。
元より大学周辺は、起伏の激しい地形で、地質学上も泥岩質で地すべり災害が起きやすいのに、道路や住宅が崖沿いに迫っていることが多いので、バイクでそういうところを走る際には、いつも以上に緊張する今日このごろです。
今日の天気は小康状態で、時折ぽつぽつと雨が降る程度でしたが、明日は再び雷雨になるそうで、また被害が拡大することが予想されます。(以前の週間天気予報では明日あたりから晴れるはずでしたが・・・)これから一週間、まだしばらくは雨続きの予報で、梅雨明けの23日あたりまでは青空はお預けのようです。

沖縄に戻りました。

2006年06月12日 16時41分17秒 | うちなー日記(沖縄編)
祖母の葬儀の後片付けも一段落し、大学の授業の関係もあるので、今日、沖縄に帰ってきました。
今日の飛行機は、前回の帰省からの帰りと同じ、ANA1735便関空発那覇行きでした。
空港でチケットを購入する際、少し迷いましたが、ここのところの疲れが溜まっていたので、初めてスーパーシートを利用することにしました。(ANAの場合、正確には「スーパーシートプレミアム」)
搭乗ゲートの前に着き、飛行機を確認すると、そこにはポケモンジェット’99(B767-300)がいました。5月に那覇から関空に飛んだときもポケモンジェット(お花ジャンボ(B747-400D))でしたから、最近ポケモン率(?)が高いような・・・。
優先搭乗で飛行機に乗り込むと、私の席は左の窓際の最前列でした。この機材のスーパーシート座席数は全12席、他の乗客を見ると、6人が座っていました。幸い、私の隣は空席で、荷物もそこに置け、足元をゆったり使えます。旅客の搭乗が完了すると、CAの方が挨拶にきました。
「本日はスーパーシートプレミアムのご利用、まことにありがとうございます。どうぞごゆっくりおくつろぎくださいませ。」という内容で、VIP待遇に満足、満足。
間もなくゲートを離れ、出発しました。
ゆったりとした座席で、くつろいでいる間に、当機は滑走路に入り、離陸滑走を始めました。さすがにエンジンから離れた機首では騒音も小さく、実に順調な離陸でした。
低空の気流は安定しているらしく、スムーズに上昇を続け、まもなく淡路島上空にさしかかりました。うす雲を介して淡路の輪郭が見え、なかなか神秘的です。ちょうど、仏様が蓮の池から下界を覗くような感覚でした。
ここで、シートベルトサインが消え、機長からアナウンスが入り、この先しばらくすると厚雲に入り、沖縄到着までそのまま雲中飛行になること、また、梅雨前線の関係で沖縄に近づくほど揺れが大きくなることが予想されること、そのため、30分後にはシートベルトサインを点灯させ、以降は機内サービスも控えるとのことでした。乗客にとっては悪い知らせです。
そういうわけで、すぐさまドリンクのサービスが始まりました。スーパーシートでは、最初におしぼりが配られ、軽食又は茶菓とドリンクがサービスされます。軽食と茶菓の別は、飛行する時間帯によるのですが、今日の便は茶菓の時間帯でした。茶菓は、神戸スイーツの盛り合わせで、なかなか美味です。量も結構ありました。
茶菓を一通り食べ終えると、放送どおり、シートベルトサインが点灯しました。時折強い揺れがあり、雲中飛行なので、外は真っ白・・・・。時間から判断するに、現在足摺岬のあたりを通過中のはずです。まだ行程の半分ほどを過ぎたところで、残り1時間以上この状態が続くと思うと、先が思いやられます。
どうしようもないので、揺れに身を預けて眠ることにしました。ちょうど、機内音楽で沖縄ソングが流れており、ヘッドホンを最大音量にして、座席に身を預けて目を閉じると、不思議に心が落ち着いてきました。
だいぶたって、再び機内放送が入り、奄美大島付近まで来ていることを知りました。ここからは着陸態勢に入り、降下が始まります。しばらくすると、眼下に小さな島影が見えました。どうも見覚えの無い島で、よく目を凝らすと奥のほうに大きな島が見えました。どうやら沖縄最北端の伊平屋・伊是名島のようです。いつもの着陸ルートだと、沖縄本島の辺戸岬上空を通過するのですが、発達した積乱雲をさけて迂回しているのです。さらにしばらくすると、巨大な積乱雲が進行方向に見えてきました。位置的に、伊江島の上空のようです。伊江島から向こうは、米軍の嘉手納基地や普天間基地がある関係で、低空まで降りる必要があり、あの雲を突っ切らなければなりません。「また揺れるんだろうな・・・」と思っていましたが、雲の近くまでくると、旋回を繰り返して高度を下げ、上手く雲の隙間から下に抜けました。「なかなか上手い操縦だな・・・」などと思いました。伊江島を通過すると、間もなく飛行機は残波岬の沖合いを通過し、そこからは見覚えのある風景が視界を流れていきました。しかし、普段とは少々景観が異なり、梅雨の長雨のために、赤土が流出しているのがはっきりと見えました。海岸沿いの海が茶色く染まっているのです。そういえば、今朝のニュースで、琉球大学近くの中城村の村道が大規模な崖崩れを起こしているといっていました。
少し気になりつつも、機体は高度を下げ、行きかう船を視認できるほどまでになりました。去年の帰省で乗った、「クイーンコーラル8」の姿も確認できました。恐らく前日の夕方6時に鹿児島を出港した便のようで、こちらはたった2時間弱で大阪から飛んできたのですから、スピードの差は歴然です。
那覇市街が進行方向左に広がると、まもなく那覇空港に無事着陸しました。悪天候にも関わらず、ちょうど良い感じのソフトランディング!今日のパイロットはなかなか腕が良かったようです。
かくして、無事に沖縄に到着しましたが、せっかくのスーパーシート、天気が良ければもっと堪能できたのにな・・・・と少々後ろ髪をひかれる思いでした。また、機会があれば乗ってみたいものです。


お葬式

2006年06月09日 16時39分48秒 | うちなー日記(沖縄編)
昨夜は結局3時過ぎに寝床につきました。
7時には起床し、まだ出来ていなかった、弔辞の文章をパソコンで書き始めました。9時半には家を出なければならないので、急ぎます。昨日のうちにネットで弔辞の文例集を探して、一通り内容は考えていましたが、いざ書き始めると、祖母との思い出がめまぐるしく頭の中をかけめぐり、なかなか纏めることができません。時間も押し迫っていたので、頭に浮かんだことを自然に書き綴っていきました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
弔辞もなんとか間に合い、葬儀場に向いました。
午前11時、葬場祭(告別式)が始まりました。昨日、猛烈に足が痺れた教訓から、今日は胡坐(あぐら)で臨みました。昨日の通夜・遷霊祭(神式ではこちらの方がより重要らしい)よりは短く、開始から30分ほどで玉串奉献となりました。まず父が、次に母が奉献しました。そして私と弟の番ですが、この奉献の際に私が弔辞を読む段取りになっていました。
玉串を持って祭壇の前に進み、まず玉串を奉献しました。
一度拝礼して、いよいよ読み始めます。
「謹んで、祖母、堤節子の霊前に申し上げます。
以下、祖母のことを、生前に呼びかける際に用いておりました、バーバと呼ばせていただきます。
 バーバ、今日、こんなにも早くにお別れを告げる日が来ようとは、思いもよりませんでした。突然の逝去に、とても驚きました。早朝の父からの電話によって、それを知ったのですが、かなうことならば、孫として最後の瞬間に立ち会いたかったところ、私が遠隔の地に住んでいるために、それがかなわず、まことに残念でなりません。
 思えばバーバとは、本当に色んなところに行きましたね。幼いころには、よく二人で熊本に墓参りに行きましたし、大きくなってからは、北海道や沖縄も旅しましたね。
 特に思い出深いのは、五年前に行った北海道旅行です。宗谷岬、釧路の市場、霧に包まれた摩周の湖畔、網走では流氷に触れ、美瑛では遥かなかなたまで連なる大地に、一緒に感動しましたね。その瞬間の一つ一つが、今となっては素晴しい思い出です。あの旅は、自ら計画を立てたために、あれもこれもと欲張ってしまい、結構過密な行程でしたが、そんな中でも、バーバは初めての北の大地で、元気を貰えたと、喜んでいました。また、いつかはあの広大な畑の真ん中に住んで、毎日趣味の絵を描きながら暮らしてみたいとも言っていました。齢八十を越えてなおも、夢を持っていたバーバ、私が大人になったら、是非それをかなえてあげたいと思っていました。
 私が旅好きで、絵や写真が趣味なのも、バーバの影響なのでしょうか。私が知っているのは、晩年の七十歳以降のことですが、保険の仕事を続けながらも、様々な趣味、絵画、茶道、華道、郷土文化の研究などをする姿は、実に生き生きとしていて、格好良く見えました。また、バーバが語る昔話は、どんな教科書よりも興味深いものでした。特に大正時代の幼稚園の頃から、昭和前期、戦前から戦中に至る内容は、実体験に基づくもので、なんど聞いても飽きませんでした。是非それらの話を、記録に残したいと思っていたのですが、最近ではそれが難しい状態になってしまい、ついにはかなわぬこととなり、残念です。
 ただ、バーバは、八十六年の人生を十分に楽しんだことと思います。もちろんこれまでに多くの苦労をしてきたでしょうが、その分多くの楽しみ・喜びも味わったことでしょう。バーバは明るいことや賑やかなことが好きでしたね。だから、今日、私はバーバの旅立ちを明るく見送りたいとおもいます。
 長い間お世話になりました。そして、いってらっしゃい、バーバ。
                孫、堤 元佐、Y(弟)」
弔辞を読んでいる間も、それぞれの思い出が私の頭の中を巡りつづけていました。
読み終えると、弔辞の紙を玉串の奉献台に置き、席に戻りました。何人かの人が、すすり泣く声が聞こえてきました。隣に座る母も目に涙を溜めています。父も同様で、私も目頭が熱い状態が続いていました。
その後、参列者全員の玉串奉献が終わり、葬場祭は恙無く終わりました。
そして、いよいよ出棺のときがやってきました。事前に、祖母の愛用品(草履、時刻表、飛行機の機内誌など)を入れた棺に、参列者が花を挿していきます。そして、棺の蓋を再び閉じると、私を含む親族の男たちで棺を運び始めました。葬儀場が建物(普段は別の用途で使われている)の4階にあり、エレベータが使えないため、階段で降ろします。棺はかなり重く、一階一階、慎重に降ろしていきました。1階に着くと、すでに玄関に霊柩車が付けられており、そのまま車の寝台に棺を運び入れました。霊柩車の助手席には喪主である父が乗りこみ、その後ろ、棺の横の席に私が座りました。さらに、弟が反対側の余ったスペースに無理やり入り込んで、珍しい(?)5人乗りで葬儀場を後にしました。
十五分ほどで、市の火葬場に到着しました。すぐさま、マイクロバスに乗ってきた他の親族と一緒に窯の前に棺を運びます。
火葬に先立ち、祭事を執り行い、最後の拝顔を済ませ、祖母の棺は窯の中へと入っていきました。
・・・・・・
一旦、葬儀場に帰り、葬後祭をつとめたのち、直会(なおらい)となりました。親族一同が揃って食事することもなかなかないことなので、話が弾みました。会話の中で、びっくりすることがありました。親戚に、貝類の収集を本格的にされている方がいるのですが、その人と話したところ、琉球大学のとある教授と知り合いで、時折メールでの連絡もしているとのこと。詳しく聞いてみると、その教授とは、なんと私が昨年のゼミでお世話になった山口教授(今年退官されました)だったのです。山口教授は、貝類の研究をされていたので、もしやとは思いましたが、こんな近くに繋がりがあったとは!それからその親戚の方と話が盛り上がりました。

しばしの休息だった直会が終わると、一同再び火葬場へ、お骨の取り出しに向いました。
火葬場に着くと、すでに祖母のお骨は窯の外に出されていました。早速、二人一組で長い箸を使って骨壷に骨を入れていきます。足から順に、頭まで順番に入れ、最後に頭骨の上に喉仏を乗せ、蓋を閉めました。それを火葬場の職員の方が布で包み、お骨の取り出しは終わりました。あっというまのことでした。予想以上に祖母の骨は軽く、関節がすり潰れたような箇所もあり、火葬場の職員の方も言っておられましたが、生前は相当にきつかったであろうことが窺い知れました。
その後、親族一同は解散し、家族で祖母の霊爾とお骨、遺影を家に持ち帰り、急作りの祭壇に安置しました。これから五十日祭(仏教の四十九日)が終わるまでは、喪に伏すことになります。

こうして、滞りなく、ひとまず祖母の葬儀は終わりました。
正直なところ、まだ祖母が亡くなったという実感はありません。まだ、祖母が入院していた病院に行けば会えそうな気さえします。しかし、実家の元々祖母が使っていた部屋で、祖母の遺影を眺めると、それが現実であることを改めて思い知らされるのです。これから、徐々に実感が伴ってくるのだと思います。
今日はとにかく疲れました。


遷霊祭(お通夜)。

2006年06月08日 16時38分37秒 | うちなー日記(沖縄編)
祖母の葬儀は神道形式で行なわれることになり、今日は納棺、通夜・遷霊祭が執り行われました。
私はほとんど眠れないまま朝を迎えました。
納棺の儀は昼に行なわれました。布団に寝かされていた祖母の亡骸を、親族の手で棺に移しました。私も参加しましたが、装束を纏った祖母の身体は意外に重く、その重みを腕にしっかりと感じながら運びました。明日には火葬されてしまうため、祖母に触れるのはこれが最後の機会かもしれません。
納棺が終わると、棺は葬儀場にうつされました。
その後、先ほど出来上がったばかりの、祭壇に飾られた祖母の遺影をしばらく眺めていたのですが、祖母らしい笑顔の写真で、それを見ると、そこに元気だった頃の祖母が戻ってきたような感覚を覚えました。
そろそろ通夜・遷霊祭に参列する方々が集まりはじめ、葬儀場の雰囲気が慌しくなってきました。
午後6時を過ぎると、いよいよ忙しくなり、私も連絡係や親族への応対などで半分パニックになりながら走り回りました。
午後7時、いよいよ通夜・遷霊祭が始まりました。仏式ではお通夜にあたるものです。
私自身、あまり神式の葬儀は経験がなく、神式独特の厳かな雰囲気と、古式ゆかしい儀式的な動作は、非常に興味深いものでした。
さて、いざ玉串奉献となったのですが、会場が畳敷きで、長時間正座で座っていたため、完全に足が痺れてまともに歩けないほどでした。父も母も同様の状態で、何故か弟だけが平気な様子なのが不思議でした。(それから後は私は足を崩しました)
・・・・・・・・・・・
どうにか、通夜・遷霊祭が終わりましたが、息つくひまもなく、明日は葬場祭(告別式)、火葬、十日祭(初七日にあたるもの)が待っています。しかも、葬場祭では私が弔辞を読むことになり、明日の朝までに内容を考えなければいけないのです・・・。大丈夫なのか・・・orz
今晩は、昨日私と父とで葬儀場に泊まったので、母と母方の祖母、弟で泊まってもらい、私と父は一旦家に帰ることにしました。
・・・・


祖母、逝く。

2006年06月07日 16時34分10秒 | うちなー日記(沖縄編)
それはあまりにも突然でした。
前夜、父からの電話で、祖母の容態が弱含みながらも安定していると聞き、安心しきっていました。
朝7時すぎ、携帯電話がけたたましく鳴りました。発信元は「公衆電話」になっており、寝ぼけた私は、いたずら電話かと思い、着信を拒否しました。
その後、しばらくして再び電話が鳴りました。少し目が覚めたので、出ると、父の声でした。
「バーバが亡くなった・・・」
・・その一言に耳を疑いました・・・
「えっ、嘘でしょう!?」
聞けば、今朝容態が急変して、ついさきほど息をひき取ったそうでした。
未だ半信半疑ながら、今日中に奈良に帰ることを打ち合わせて、電話を切りました。
しかし、頭の中は真っ白で、すぐには次の行動に移れませんでした。

とりあえず午前中の授業に出て、昼食を食べる折、確認のために、母に電話をかけました。すると、やはり朝の話は間違いではなく、すでに葬儀の準備を始めているとのことでした。
ようやく、私は事態を飲み込み、急いで帰省の支度を始めました。
溜まった寮の仕事などを終え、出発したのは夕方の4時ごろでした。当初、バスで空港に向おうと思ったのですが、時間的に目的の飛行機に間に合いそうになかったので、北口のコンビニ前からタクシーに乗りました。そのまま空港に急行してもらったところ、どうにか飛行機の出発20分前に那覇空港国内線ターミナルに到着できました。すぐにチェックインし、セキュリティを通過して、17時発の関西空港行きANA1738便(B777-200)に搭乗しました。
ところが、出発時間を過ぎても、飛行機は出発しません。満席のはずなのに、私の近くの席だけまとまって空いており、どうもおかしいと思っていたら、遅れている団体客がいるとの放送があり、しばらく待つことになりました。
17時10分ごろ、ようやくその団体が乗ってきました。見ると、どう見てもヤクザのグループです。彼らのせいでかなり飛行機の出発が遅れているというのに、全く悪びれる様子もなく、20名ほどの団体は、組織内の上下関係なのか、それぞれの座る配置を決めるのに異常に時間をかけ、結局全員が席についたのは17時15分。すぐさま飛行機はゲートを離れました。滑走路に向う間、キャビンアテンダント(CA)が客室の点検をするのですが、あの団体客たちが、離陸前だというのに座席のリクライニングを倒しており、それを何度も注意されていました。なかなか彼らは従おうとしませんでしたが、CAが「迷惑行為で訴えることもございます」的なことを言うと、ようやく聞き入れていました。私の座席からは2席しか離れていない位置だったので、もう緊張しきりです。
間もなく、飛行機は離陸しました。沖縄は、この二週間以上ずっと梅雨空で、雨が降り続いていました。今日も雨で、どんよりと厚い雲の中を機体は上昇し続けました。
しばらく揺れを伴っていましたが、離陸から20分ほどして、ようやく雲の上に出ました。久しぶりにみる青空です。荒んだ心が洗われる思いです。
しばらくすると、先日飛行機から見えた、丸い虹が雲に映って見えるではないですか!?ちょうどこの前と同じ時間帯の飛行で、太陽に対する角度が一緒だったのでしょうか。意外によく見られるものだったのか・・。天候は北に行くほど良くなり、しばらくして雲が切れたので、虹は、見えなくなりました。
安定した飛行で、本当にあっというまに関西国際空港に着陸しました。
さて、ゲートに到着したのは良いのですが、隣に座っていたヤクザが固まって通路を塞いでいて、なかなか飛行機を降りられませんでした。・・・(゜□゜)
降機後も、動く歩道の入り口で立ち止まったり、通路を広がって歩いていたりで、彼らは最後まで凄まじい迷惑振りを示していました・・・。

関空からバスで実家の最寄の櫟本(天理)バス停に着き、迎えにきてくれた父の車で、荷物を実家に置いた後、すぐに葬儀場に向いました。
すでに祖母の遺体は葬儀場の一室に安置されており、母と、先ほど駆けつけた母方の祖母がそばで番をしていました。
早速、私は祖母と対面しました。思いの他穏やかな顔で、本当に眠っているかのようでした。ただ、すでに肌は硬くなっており、微動だにしないその様を見ると、祖母の長かった命の光が途絶えてしまったことを深く実感しました。
その後、母から祖母の最期の様子を聞いたのですが、とても穏やかで、つい半月前の、呼吸が乱れ、いかにも苦しそうだった状態が嘘のように、静かに、徐々に心拍が減り続け、6時55分、ついに心停止したときも、それが最期の瞬間であったことに気付かないほどだったそうです。容態の急変から息を引き取るまで、ほんの2時間あまりの出来事でした。

今晩は、私と父とで番をすることになりました。祖母の隣に布団を並べ、天井を眺めていると、祖母との様々な記憶が思いだされ、なかなか寝付けませんでした。


長澤まさみ!?

2006年06月04日 16時32分30秒 | うちなー日記(沖縄編)
以前から幾度か私の周辺で目撃情報が流れていた、長澤まさみさんが、今日、映画の撮影のために琉球大学に来られていて、運よくその姿を見ることができました。
実験の合間の休憩時間中、友達に「長澤まさみが来てるらしいから、見に行こう」と誘われ、すぐに外に出ました。私たちが実験を行なっていたのは、共通教育棟の1号館というところなのですが、撮影現場は目と鼻の先の図書館前・・!
現場にかけつけると、映画のスタッフの方なのか、「見学の方ですか?」と聞かれ、「はい」と答えると、「ここだと、カメラに映ってしまうので、向こうの方で見ていてください」と指示されました。「向こう」というのは、法文学部棟前の芝生で、言われたとおり、そこに座ってしばらく撮影風景を見ていました。今日の撮影は、大学の合格発表のシーンのようで、図書館前に合格者の一覧が張り出されていました。雰囲気を出すため、他の受験生や胴上げ隊のエキストラが集まり、サークル勧誘の看板も出されていました。ただ、よく考えると、合格発表は3月で、沖縄でもまだ少し肌寒い季節のはずなのに、半袖の人が多いような気が・・・。受験生で学生服が夏服の人もいるし・・・。
そんなことを思っていると、目線の先に高校の制服姿の長身の女性が立っているではないですか・・・。あれはまさしく長澤まさみ、その人です!素晴らしい・・。一応、映画スタッフに、写真撮影禁止だと言われているので、堂々と写真は撮れないのが残念です。こんなチャンスは滅多にないので、しっかりと目に焼き付けました。
しばらくすると、リハーサルが始まりました。東口の方から長澤さんが歩いてきて、受験生の群集を掻き分けて掲示板の前に進み、自分の受験番号の有無を確かめるという流れでした。このリハーサルは2回繰り返され、その後はいよいよ本番。私は実験の再開時間が近づいていましたが、最後まで見届けました。撮影風景を見ていて驚いたのは、背景の相当奥にあたるところまで、細かくエキストラが配置されていたことでした。通行人の役や生協のスタッフ役(本物の制服)までいて、なかなか本格的でした。(ただ、合格発表としては、若干人が少ないよう=100人ほど=にも思いましたが)
なかなか貴重なものが見れました。
それにしても、長澤まさみさんの制服姿は、実に可愛いかったです。また見たいなぁ・・・。


琉球大学内でボーダフォンが使いやすくなりました。

2006年06月04日 12時03分56秒 | うちなー日記(沖縄編)
先月22日にこちらに帰ってきて気付いたのですが、以前よりも大学内でのボーダフォンケータイの電波の入りが良くなっています。以前は、寮内ではしっかりと3本たちましたが、学部の方に行くと、建物内では圏外か、良くても1本になっていました。ところが、最近は学部の方でも、2本から3本たってくれるので、メールが遅着したりもしなくなり、かなり助かります。
このことについて電器屋のケータイコーナーで調べたところ、この5月に琉球大学の学部側から近い、中城村南上原に、新基地局ができたそうで、そのおかげのようです。
この調子でどんどんエリアを拡大してほしいところです。

実験続きです。

2006年06月03日 16時31分20秒 | うちなー日記(沖縄編)
大学も2年次になると、実習が入ってきます。現在私は4つの実習をとっているのですが、その1つに、熱帯生命機能学実習Ⅰというのがあり、この金曜日から3日連続の実験中なのです。昨日は朝の10時20分から夕方の6時半過ぎまで、今日は朝の9時から夜の7時半までずっと実験です。明日はちょっと楽になりますが、朝10時20分から夕方までの予定になっています。
この実習、自分の任意の植物の異なる部位、または2種の同じ部位について、タンパク質の組成をしらべて、その結果について考察するという、簡単にいえばそんな内容なのですが、実験の手順のテキストだけで、A4紙20ページもの量で、かなり手間隙のかかるものなのです。その中には、分光光度計での吸光度計測や、電気泳動、泳動後にゲルに示された結果をメンブレンにトランスファしたりと、結構本格的に実験チックな内容が含まれています。試薬を調整する際にはμl(マイクロリットル:1mlの1000分の1!)という単位が基本になり、実にデリケートなのです。ピペットマンという機械で量り取るわけですが、2μlを注入・・・、といっても、きちんと入ったのかどうかさえ分からないくらいで、ごくごく微小な気泡ができただけでも結果が変わってしまいます。かなり集中力がいる作業なんですよ・・・。
でも、私はどちらかというと、こういう実験は好きです。もともとバイオテクノロジーに興味があり、大学に入る前、高校三年生の夏に、地元の大学院(奈良先端科学技術大学院大学)のバイオセミナーに参加した折に、植物の遺伝子組み換え有無の判別実験を体験してから、ますます生物の虜になったのです。ところが、大学入学後の1年次の基礎実験では、生物の観察・スケッチが中心で、ちょっと思い描いていたのと違うなあ・・と感じていたところでした。
今回の実験では、久々に私の実験魂がうずいています。果たしてどのような結果がでるのか・・・
写真は1日目、分光光度計にかけるために調整中のサンプルです。