日本で働くスリランカ人男性クマラさんと、日本人でシングルマザーのミユキさん、そして娘のマヤちゃんが家族になっていく過程を描いた小説『やさしい猫』。作家の中島京子さんは、この作品を書くにあたって出入国在留管理(入管)問題に詳しい弁護士や支援者、収容経験のある人たちへの取材を重ねたといいます。新聞連載中に、名古屋出入国在留管理局で収容中だったスリランカ人のウィシュマ・サンダマリさんが亡くなる事件があり、入管問題に大きな注目が集まりました。中島さんにこの作品が生まれた経緯や思いを伺いました。
(タイトル写真提供:中央公論新社)
物語を通じて「自分だったら」と想像する
――小説『やさしい猫』のベースにある入管行政の問題に、中島さんが関心を持ったきっかけは何だったのでしょうか。
中島 たしか最初のきっかけは、2017年に牛久の入管収容施設内でベトナム人男性が亡くなった事件(※)だったと思います。その男性と同室だった人が、「彼はずっと痛いと訴えていたのに、外の病院に連れて行ってもらえず死んでしまった。このことをみんなに知ってほしい」と切々と訴えているのを、知り合いの弁護士のSNSを通じて知りました。そのことにすごいショックを受けて。「この国でこんなことが起こっているんだ」ということが衝撃で、素朴にびっくりしたんですよね。とてもハードな話なので、このことを小説にしようとは思っていませんでしたが、ずっと頭に引っかかっていました。
それから入管関係の話題に注意するようになって、在留資格がなく仮放免(※)で生活されている方のことも知るようになりました。仮放免だと移動が制限されるじゃないですか。具体的な話はもう覚えていないのですが、仮放免中の男性が日本人パートナーのケガか病気が理由で、やむを得ず県境を越えて入管法違反になったという記事を読んだんです。そのときに家族や恋愛の物語という形でなら、このことを小説にできるのではないかと考えるようになりました。
※ベトナム人男性が亡くなった事件:2017年3月、収容施設で40代のベトナム人男性が体調不良を訴えるも、外部の病院に運ばれることなく数日後に独房で死亡した
※仮放免:一時的に収容を解く措置。就労はできず、移動が制限されるなどの条件がある
――そこから、スリランカ人であるクマラさんと、日本人のミユキさん、マヤちゃんが家族になっていく物語が生まれたんですね。家族の目線で語られることで、日本に暮らす外国人の置かれた状況がより身近なことに感じられました。
中島 クマラさんのように、「家族と一緒にいたい」という本当にシンプルな理由で日本での在留資格を必要している人も少なくないんですよね。もし読者が外国の人を何か遠い存在のように感じていたとしても、マヤちゃんやミユキさんの話を通じて「自分がそうだったら」あるいは「友達がそうだったら」と想像が及ぶような物語にしたかったんです。恋愛して家族になっていくときに起こることって、国籍に関係なく共通しているものがあります。そういう出来事を通して、この物語に自分を投影させやすくなるのではないかという気持ちもありました。
裁判で争われる「結婚の真実性」
――作品中に、在日クルド人の男の子が「日本人は、あそこ(入管)でなにが起こっているか、ぜんぜん知らないよね」というくだりがあります。本当にその通りだと心苦しく思うのですが、この小説のなかでは在留資格や収容、仮放免など入管行政のことが、かなり詳しく説明されていますね。
中島 私も全然知らないことばかりだったんです。法律や制度のことが分からないと、読んでいても「なぜこの人は捕まっているの?」みたいになるじゃないですか。だから、結構説明が必要でした。それを説明っぽくさせずに読んでもらうというのは、少し工夫しなくてはならなかった点です。高校生のマヤちゃんを「語り手」に、彼女が弁護士さんから教えてもらったり、だれかに説明したりという形にすることで、うまく小説が転がり始めました。
読者の方からは、連載中からクマラさんを応援する声や「(収容や仮放免などについて)知らなくてびっくりした」という反響が多かったです。なかには「全然知らなかったけど、自分に何かできることはないか」と言ってくださる方もいました。そういう心の動きは私のなかでも起こったことなので、すごくよく分かります。
――裁判でのやりとりが作品の山場になっていますが、中島さんの作品の中で法廷シーンが出てくるのはとても珍しいのでは?
中島 実は法廷シーンを書くのは初めてで、私にとっても挑戦でした。裁判の傍聴に行ったり、体験者や支援者にもお話を伺ったりしたのですが、この小説のなかに出てくるやりとりは現実の内容にかなり基づいています。
日本人と結婚した外国の人が在留資格を認めてもらうために「この結婚は本物だ」ということを証明する裁判を行うことが実際にあるんですよね。まさか裁判所のなかで「愛を証明する」なんてことをやっているとは思わないし、それを誰かが「証明できました」と判断するのもどうなのかと思いますが、取材してみて裁判には本当にさまざまなドラマが詰まっていると思いました。
日本人同士だったら、別居していようが、お金のために結婚しようが他人にとやかく言われることではないわけですが、相手が外国籍だと結婚の真実性を証明しなくちゃいけない。「結婚の真実性」を裁判で争うってすごく変ですが、それによって日本にいられるかどうかが決まってしまう本人たちにとっては切実です。
埋もれてしまった声を聞きたい
――マガジン9でも入管問題を取り上げることがありますが、プライバシーの配慮から個人的なことは書けない、あるいは、あえて書かないことも多くあります。その一方で、問題の背後につらい思いをしている生身の人間がいることが伝わりづらいのではないかと感じることもあります。この作品を読んで、「自分ごと」として感じさせてくれる小説の力をとても感じました。中島さんは、こうした社会問題に対する小説の役割について、どのように考えているのでしょうか。
中島 そうですね。一市民としては、国や行政に一票をもっている責任があるし、社会問題に関心をもつのはとても大事なことだと思っています。それに、物書きとして記者会見に出るとか新聞のコラムに書くなどの話をいただいたときには、その機会をなるべく生かしたいとも考えています。でも、小説そのものは主義主張を伝えるツールではないと思っているんです。むしろ、そういう風に使うべきではないとも考えています。
小説家としてデビューした当時から、記録にも残らずに歴史のなかで「埋もれてしまった声」を聞きたいということが、私が作品を書くモチベーションのひとつになっています。歴史の教科書では習わなくても、それぞれの時代にいろいろな人がいて、そうした声は記録に残らないものじゃないですか。そういう聞かれていない声を聞きたい。それは小説の仕事のひとつかな、と思っているんです。
歴史小説を書くことが多かったこともあり、これまでは昔のことばかりに意識がいっていたんですけど、入管問題について知るなかで「ここにも誰にも聞かれていない声がある」と感じました。それで、これを小説の題材にしたいと思ったんです。
――作品を書くにあたって、弁護士、元入管職員、外国人当事者の方たちなど、さまざまな方に取材されたそうですが、とくに印象に残っていること、意識して作品に入れたことはありますか?
中島 作品には取材したことが沢山入っているのですが、逆に入れられなかったものも結構あります。たとえば、収容中に突発的につらくなって洗剤を飲んで自殺未遂をした方と、その翌々日に面会したこともありましたし、長期収容に抗議するハンストで、ものすごく体調を崩してしまった方にもお会いしました。
私が行った収容施設の面会室は本当に狭くて、人が横並びに2人座ったらいっぱいなんですよ。そんな刑務所のような場所で、面会できるのは30分だけ。牛久にある収容施設へは東京からは往復4時間かかります。それなのに、家族でもたった30分しか会えずに帰らなくてはいけないのかと想像すると本当にショックでした。
収容によって体も心も壊されてしまう方もいて、本当にひどい話がいっぱいあります。こういう現実がある以上書かなくては……と思う一方で、とても全部は書けませんでした。
――この小説の新聞連載中に、入管問題への注目が集まる出来事が重なりました。
中島 ちょうど最終章が掲載されている頃、今年3月に名古屋入管で収容中だったスリランカ人女性のウィシュマ・サンダマリさんが亡くなる事件(※)がありました。それといろいろな問題が指摘されていた入管法改正案(「出入国管理及び難民認定法等の一部を改正する法律案」)の審議が重なったこともあって、すごく大きな入管問題についてのムーブメントが起きました。
入管法改正案は見送られましたが、入管収容施設では人が亡くなってしまうようなひどい状況がずっと続いています。ウィシュマさんの支援者や弁護士さんたちからは、「ウィシュマさんを助けられなかった」という痛恨の思いをすごく強く感じます。今回の件では多くの人が入管の状況に関心をもつようになったので、「本当に今度こそウィシュマさんを最後に」と、みなさんが思っていらっしゃいますし、私自身もそうあってほしいと強く思います。
※ウィシュマ・サンダマリさんの事件: 名古屋入管に収容されていたスリランカ人のウィシュマ・サンダマリさんが今年1月から体調を崩し、支援者らが求めた治療も行われないまま3月6日に亡くなった
無知による偏見を修正するには
――作品のなかで、ミユキさんが外国人と付き合っていると聞いて、「騙されているんじゃないの」と友人たちが心配する話も出てきます。入管行政だけでなく私たちの日常にも差別や偏見はあって、しかもそこに無自覚であることに気づかされます。
中島 人って「知らないこと」が一番怖いと思うんですよね。偏見のもとには「無知」がある。自分自身を考えても知らないものに対しては怖さや遠ざけたい気持ちが働くし、誰かから悪い話を聞くと「そうなのかな」と思ってしまいます。だけど、その「知らないもの」がとても具体的な存在として目の前に立ち現れてきたときに、自分の偏見が修正されていく経験って誰にでもあると思うんです。そもそも、そういう風に偏見というのは修正されていくものじゃないでしょうか。
ミユキさんに「外国人に騙されているんじゃないの」って言っている友人たちは、おそらく善意のつもりで言っているんですよね。自分では体験していないけど「ひどい話をいっぱい聞いたよ」と本気で心配している。そういう偏見や差別を修正していくには、違う現実があることをちゃんと見て、いろいろな人と出会っていくことが必要だと思います。
――「想像力のなさ」がさまざまな分断を生んでいると言われることがありますが、どう思われますか?
中島 現実は変わっているのに頭が追い付いていないみたいなことが、外国人の問題に限らず、いま日本全体を覆っている気がしています。たとえば選択的夫婦別姓が認められないこともそうだし、眞子さんの結婚についての反応を見てもちょっと驚きですよね。 東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の森喜朗さんの「女性は話が長い」とかいう発言も「えっ?!」みたいな。社会で活躍している女性はたくさんいるのに、そういう現実に頭が追い付いていません。
でも、ここまで古臭いと、逆にオセロをひっくり返すように、どこかでバタバタっと社会が変わっていくんじゃないかという気もします。期待も込めてですけど。毎日、コンビニでもどこでも外国にルーツがある人に会わない日はないのに、小説やテレビを見ても、日常に外国の人がいないかのように描かれていることがほとんど。それって、すごくおかしいですよね。
現実はとっくに変わっているのに…
――『やさしい猫』の登場人物たちは一人ひとりがさまざまな背景を抱えていて「日本人と外国人」に留まらない物語です。「ふつうの家族って?」というやりとりも印象的でした。
中島 実際、いまの現実の社会には本当にいろいろな人がいるんですよね。それにもかかわらず、小説とかを読んでいると出てくるのは日本で生まれて日本で育ったんだろうなという日本人ばかり。セクシャリティとかも、あまり現実を映していないように感じられることがある。この作品では、それを多少意図的に描いたところもあります。
この小説を書いたことで、入管問題に関する集会に参加する機会も増えたのですが、会場には大学生や高校生くらいの若い参加者が多いんですよ。これまで社会問題の集会では60~70代くらいの参加者が中心になることが多かったので、取材に来ていた新聞記者さんもすごく驚いていました。だけど、考えてみたら気候変動の問題に声をあげているのも若い人が多いですよね。そこは似ているような気がします。
気候変動や多様性といった問題は、もう「待ったなし」の危機的な状況にあって、その現実に対応するように法律や意識をすぐに変えないといけません。そのことに若い人たちはちゃんと気付いているのだと思うんです。私たち大人は、大変かもしれませんが過去に培ってきた価値観を大きく転換する必要があります。「この考え方はもうダメなんだ」「これは偏見なんだ」ということに気づいて、意識的に変えなくてはいけません。だって、もう現実はとっくに変わっているんですから。
――タイトルになっているスリランカ民話「やさしい猫」の解釈も心に残るものでした。それも含めて、ぜひ多くの方に読んでいただきたい作品です。今日はありがとうございました。(構成/中村未絵)
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なかじま・きょうこ●1964年、東京生まれ。出版社勤務、フリーライターを経て、2003年に小説『FUTON』でデビュー。以後『イトウの恋』『ツアー1989』『冠・婚・葬・祭』など次々に作品を発表し、2010年『小さいおうち』で直木賞を受賞。14年に『妻が椎茸だったころ』で泉鏡花文学賞、15年に『かたづの!』で河合隼雄物語賞と柴田錬三郎賞、及び『長いお別れ』で中央公論文芸賞を、20年に『夢見る帝国図書館』で紫式部文学賞を受賞。その他の著書に『ゴースト』『キッドの運命』などがある。